何度やり直しても全く上手くいかない。
ちゃんと呼吸を整えているのに、思うように声が出ない。
これ以上みんなに迷惑はかけられない。
「どうすれば・・・」
小学校から中学校、今の高校でもずっとソプラノを担当している祐地翔《ゆうちしょう》。
翔《しょう》は元々声が高くて綺麗で。
黒髪の短髪に黒の瞳も普通に見えても小さい頃からよく癒されると言われていた翔《しょう》。
その声を今までの先生たちや友達がみんな褒めてくれて、声変わりなんてすることもなかった。
そう、思っていなかったのに。
「悠地《ゆうち》、しっかり声を安定させろ! 何度も言わせるな!」
紺色の滑らかで美しい肩まで伸ばされた髪に同じ紺色の瞳を持ち、生徒の一番人気、合唱部顧問の音楽教師沙羅《さら》から毎日注意されて、その度に練習を止めてしまうことが翔《しょう》には辛すぎてこの時間が嫌い。
沙羅《さら》先生が言っているのはとても正しい。
先生だから正しいことを言うのは当たり前。
俺も全力で喉を使わずにお腹から声を出しているのに微妙になって全く綺麗じゃない。
もう俺はここまでなのか?
ここで終わってしまうのか?
小学校と中学校はたくさん賞を取って嬉しかったから、高校に入ってからも賞を取れるようにまた合唱部に入って得意のソプラノを担当できて、毎日自主練だってしているのに・・・。
部活を始めてから三ヶ月経って声が思うように出なくなった。
これって、もしかして、声変わりしているのか?
・・・嫌だ! 声変わりなんてしたくない!
今まで通らなかった道が開いてしまった翔《しょう》は声変わりの恐ろしさに負けて練習中だということを完全に一人しゃがみ、その様子を見ていた沙羅《さら》が優しくポンっと頭を撫でて落ち着かせる。
「悠地《ゆうち》、お前疲れているだろ、今日はもう帰っていいからちゃんと家でゆっくり休めよ」
「はっ」
その「休め」という一番嫌いな言葉を言われてしまった翔《しょう》は悔しく思いながらも涙を堪えて静かに頷いた。
「はい、分かりました」
ゆっくり立ち上がって合唱部のみんなに綺麗にお辞儀をして音楽室を出て行った翔《しょう》は堪えていた涙が一気に溢れて手で拭ってもどんどん流れて止まらない。
「あ、うう、お、俺、どうしたんだろう。このままだとメンバーに選ばれないのに、沙羅《さら》先生にもみんなにもめちゃくちゃ迷惑をかけて部活を辞めることになったら、俺は、ううっ、あああっ」
暗いことばかりが雨のように強く降りかかって翔《しょう》は耐えきれずに全力で走って走って。
家には帰らずにどこか違う場所に行こうとたまたま通りかかった草だらけのボロボロな公園で泣いている少女を見てしまった。
「えっ、誰だ?」
ちょっと薄くほんのり甘いチョコレート色のサラッとした髪に、薄く濃くもない緑色の瞳を持つ少女。
「ふっ、う」
その少女は翔《しょう》とは違うブレザーを着ていて同じ学校ではなかった。
だけど、翔《しょう》は不思議に気になって自然と足が動いて、気づいたら少女の目の前で手を伸ばしていた。
そして、少女も同じように自然と翔《しょう》の手をに握ってとても嬉しそうに楽しそうに明るい笑みを見せた。
「ねえ、君。これから私のこと『おねえさん』って、呼んでほしい」
「え?」
この人、何を言ったんだ?
突然自分のことを「おねえさん」と呼んでほしいと言われた翔《しょう》だったが、不思議と嫌じゃなくて素直に頷いた。
「はい。俺、あなたと仲良くなってもいいですか?」
その言葉を待っていたかのように、少女は満面の笑みで頷いた。
「うん! よろしくね!」
これが最初の出会い、終わりの出会いでもあった。
「ねえ、君の名前はなんて言うの?」
瞳をキラキラと輝かせて名前に興味を持つ少女に、翔は素直に自己紹介を始める。
「俺は悠地翔《ゆうちしょう》です。合唱部に入っています」
「へえー、合唱部。あ、その学ランはこの町で一番大きな高校でしょ?」
「はい。あなたは」
「おねえさんって呼んでよ。ふふっ、私はユキ。苗字は隠しておくね、言いたくないからね」
最後の一言でほんのちょっとだけ寂しそうに暗い表情になったユキを、翔《しょう》は理由が気になって首を傾げたが、あまり気にせず違う話をすることにした。
「おねえさんはここで何をしていたんで、あっ、言いたくなかったらいいですよ」
「ううん、別にこれは言えるよ。さっきちょっと嫌なことを言われたんだよね」
「嫌なこと?」
「うん、私が一番言われたくなかったこと」
「それは、何ですか?」
真剣な眼差しで質問した翔《しょう》の姿にどこか安心したユキ。
その理由は。
「何でもいいから部活に入りなさい、ってね」
全く予想外でどこに泣く意味があるのかが全く分からない翔《しょう》はちょっと面白くて笑ってしまう。
「ははっ。部活って、別に入っても入らなくて同じですよ」
「え」
「部活は無理やり入る必要はないです。自分の意思で入るものですよ」
さっきまくだらない理由で泣いていた自分が悔しいのか、ユキは顔を真っ赤にして恥ずかしがってしまう。
「あああっ、そう、だよね。うん、そうだよ、私、そんなことに気づかなくて泣いていたんだね。恥ずかしい」
「でも、おねえさんにとって嫌だったなら、俺は別にそれも悪くないと思いますよ。人には人の価値観の違いがあるんだから、あまり気にしないでください。俺がおねえさんの一番の味方になります」
そう言った翔《しょう》の顔はちょうど夕日と重なって全く見えなかったけれど、ユキには笑っているように見えたのか、さっきよりも一番嬉しそうに明るく微笑んだ。
「ふふふっ、しょう君が私の一番の味方になってくれるならめちゃくちゃ心強いよ」
「はい、俺、頑張ります。おねえさんが安心できるように」
「うん、ありがとう」
出会ったばかりでまだお互いのことはほとんど何も知らないのに、翔《しょう》はユキの一番の味方になると宣言した。
そして、おねえさんのユキもまだ知らないことだらけの翔《しょう》と出会えた奇跡をとても心から嬉しく思った。
「じゃあ、また明日ここに来てくれる?」
「え」
「ほら、もっと色々と話したいことがあるから」
「あ」
明日も、おねえさんに会っていいのか?
学校は同じではないけれど、ユキは翔《しょう》に興味がどんどん湧いている。
それは翔《しょう》も同じはずだから、素直に頷いて。
「はい、俺もおねえさんに会いたいです」
同じ気持ちでお互いを信頼している翔《しょう》とユキ。
今はまだ友達でも恋人でもない全く他人の関係でも、この先どうなってしまうのか。
それを一番この時点で理解しているのは当然ユキだった。
孤独で寂しがり屋でいつも一人。
彼女の考えていることが明るいことでも暗いことでも、翔《しょう》は必ず全てを受け入れてくれるだろう。
出会った運命を捨てないのなら・・・。
「おねえさん、気をつけて帰ってくださいね」
今は七月でまだ空は暗くはないけれど、時間は十九時を過ぎているので翔《しょう》が心配するのもおかしなことじゃない。
それはユキも分かっているようだ。
「うん、気をつけるよ。あっ、私の電話番号今教えた方がいいよね」
「え、いいんですか?」
「もちろんいいよ。ほら、しょう君も教えて」
「あ、はい」
お互い急いでスマホを出して電話番号を教え合ってそのまま家に帰って行った。
「おねえさん、綺麗な人だ」
さっきまで落ち込んでいたはずなのに、ユキと出会ってから笑顔が止まらない翔《しょう》。
「しょう君、嬉しい。こんな私の味方になってくれるなんて」
嬉しい気持ちと暗い気持ちを胸に抱えて家の前に立ったユキは勇気を出して中に入り、誰もいない家の中でぐっすり眠った。
「早く明日が来ますように」