それからーー。

その日を境に菜月と田口は教室では挨拶を交わし、図書館では本の話をするようになった。
最初のうちは菜月から声をかけることが多かったが、次第に田口の方からも挨拶や本の話をするようになっていき、他愛のない話もするようになっていった。


ある日のことーー。

「田口くんっ!」

休日の夕暮れ。
菜月は友達と一緒に映画を観に行った帰り道で偶然、河川敷の袂で本を読む田口に声をかけた。
菜月と田口がいる場所は少し距離があったが、声は届いたようで田口が菜月の方に視線を向けた時には菜月は足早に田口の元へと駆け寄っていた。

「こんなところで何してるの?」
「……本……読んでた」

田口は手にしている本を軽く持ち上げた。

「ホント、本好きなんだね。今読んでるのはどんな本?」

すとんっと、田口の隣に腰をかけて菜月は田口が手にしている本を覗き込んだ。
その距離の近さに田口はドキッとするも菜月はさして気にしていない様子だった。

「えっ、あ……海に関する本」
「へぇ~。ねぇ、どんな内容?」
「海の成り立ちや生態、海があることにもたらされた恩恵のこととが詳しく書かれてるんだ」

読みかけのページに栞を挟んでから、田口は菜月にペラペラと数ページ捲って見せた。

「うわっ……文字小さい! 難しそう……」

図があるものの描かれている文字は小さく、どのページもギッシリと文字が記されていた。

「難しくないよ」
「そうかな……?」
「そうだよ。ほら、ここ。人は海から誕生したんじゃないかってことが書かれているんだけど……」
「えっと、確か……プランクトン……だっけ?」
「そうそう。そう言われて………」

田口は田口は素早くそのページを開き、菜月にも分かるように例を用いながら事細かに説明してくれたので菜月は興味津々に田口の話に耳を傾け続けた。

「ーーって、いうわけなんだ」
「なるほど〜。すごく面白いねっ!」
「だろ?」
「うん。面白いって思えたのは田口くんの説明が分かりやすかったからだよ。ありがとう。もし、この本読めって言われたら私とてもじゃないけど、最後まで読めないと思う……。仮に読めたとしてもきっと、内容ほとんど頭に入ってないよ。本当にありがとうね、田口くん」

ニコッと菜月は笑った。

「あ、いや……」

菜月の微笑みにまたも田口は鼓動を高鳴らせ、それを隠そうと平然を装うも上手くいかずにややどもってしまったが、そんな田口の様子に菜月は気にすることはなかった。

「ねぇ、田口くんはここでよく本読んでるの?」
「あぁ……」
「そうなんだ。でも、どうして? 本を読むなら家や図書館の方がよくない? 本読み終えてもすぐに違う本が読めるし……それにここは今の時期外だし暑くない?」
「まぁ、確かにそうなんだけど、ここはあまり人が来ないし、時折、通り抜ける風が心地いい。それに穏やかに流れてゆく川のせせらぎも心が安らぐし、ゆっくり過ごすにはもってこいの場所だなーって。学校ある時もだけど夏休みや冬休みとかもよくここで本読みながら過ごしてるかな」
「そうなんだ」
「……それにここじゃないと読めないから……」
「えっ……」

瞳を伏せがちに先ほどとはうって変わってワントーン低く、しかも小さな囁きにも似た声で紡がれた言葉だったが菜月の耳にハッキリと届いていた……。

「ねぇ、それって……」

どういう意味? と、続く言葉は田口の言葉にかき消され、話題も変えた……。

「あ、いや……なんでもない。片岡さんはどうしてこんなところに……?」
「わ、私は友達と映画を観に行った帰りなの」
「そうなんだ。どんな映画を見たの?」
「えっと、ね〜」

友達と観た映画の話をしながら、菜月は田口が呟いた言葉とその時……ほんの一瞬だが田口の表情がとても哀しく、苦しそうに菜月の瞳に映り、気になって仕方がなかった……。


田口が河川敷の橋の下で本を読んで過ごしていることを聞いた日から、菜月はちょくちょくその場所に足を運び、2人並んで本を読むようになっていた。
それはもっと田口と話をしたいという気持ちはもちろんのこと
ーー……それにここじゃないと読めないから……ーー
と、呟いた田口の言葉の真意を知りたかったからだった。
しかし、気にはなっているもののどうして、そんなことを言ったのか尋ねる勇気はなかった……。
それは尋ねて良いのか、失礼に当たらないか、尋ねたことによって田口が嫌な気持ちにならないか……と、様々なことを考えてしまうからだった……。

「今日も暑いね」

相変わらず河川敷の橋の下の斜面に規則正しく階段状に並べられたコンクリートブロックの一つに腰を下ろした田口に小さな手持ちの扇風機を片手に菜月が声をかけた。

「片岡さん……」

本から視線を上げて田口は菜月を見た。

「ホントに」
「けど、ここはちょっと涼しいね。やっぱ、川が流れているからかな……?」
「そうかもしれない」
「ねぇ、隣いい?」
「どうぞ」

田口は少し端へと避けて、コンクリートブロックの表面を軽く手で払い、菜月が座れるようにスペースを作った。
「ありがとう」と、菜月はお礼を言い、田口の隣へと腰を下ろした。

「田口くんは何読んでるの?」
「昨日、図書館で借りた海に関する本だよ。片岡は?」
「私? 私はね……」

菜月は肩にかけた鞄に手持ちの扇風機を入れて、一冊の本を取り、満面の笑みを浮かべて田口に向かって差し出した。

「じゃーん! 前に田口くんが借りてた異世界ファンタジー!!」
「あぁ、これか。すごく面白かったよ」
「田口くんがあらすじ教えてくれて、気になって借りてみたの」
「そうなんだ」
「どんな物語なのかすごーく楽しみ」

声を弾ませ、楽しそうに手にした本の表紙を捲り、物語を読み始めた菜月の姿を可愛いなと思いながら田口も読みかけの本へと視線を戻した。

会話を交わすことなく、それぞれが黙々と本を読み進め、2人の間にゆったりとした時間が流れるかと、思いきやそうではなかった……。

ダメだ……。

本を読み始めて数分……。
菜月は少し黄ばんだ用紙に綴られている文字を瞳で追うも全く集中できず、田口にバレないように注意しながらちらちらと見ていた。

うー、気になる……。

真剣に本を読む田口の横顔をカッコいいと思いつつ、頭の隅では
ーー……それにここじゃないと読めないから……ーー
と、口にした田口の言葉が巡っていた……。

「……片岡さん」
「ん?」
「少し前から気になっていることがあるんだけど……」

静かに本を閉じて、田口が真剣な瞳で菜月を見つめた。

ドキッ!!

菜月の鼓動が大きく高鳴った。

えっ……。
なんだろう……。

「な、なに?」

菜月はできるだけ平常心で言葉を発しようと心がけるもつっかえてしまった……。

「俺に聞きたいことあるんじゃない?」
「えっ」
「あっ、気のせいだったらごめん……。何となくそんな気がして……」
「あっ、いや……あやっ……」

「謝らなくても……」と、いう言葉は遠くの方から突然聞こえてきた声に消されてしまった……。

「おーい、田口こんなとこで何やってんだよ!」

声の方へと目線を向ければ河川敷道路に2人の男の子がいて、こちらを見ていた。

「……だ、れ?」
「同じ塾に通ってる人だよ」

田口は男の子2人組を見つめながら立ち上がり、冷ややかに言った。
そうしている間に河川敷道路にいた2人はそこから少しだけ降りてきて、田口と菜月との距離を縮めた。

「彼女と一緒にいて、勉強しなくていいんですか〜?」
「よせ、俺たちとは頭の出来が違うんだ。なんたって、父親は弁護士、母親は美容整形外科を運営してる女医。その子どもは当然のことながら、優秀に決まってるだろ。俺達みたいに必死に勉強しなくたっていいのさ」
「そっか、そーだよな。俺らよりもものすごーく優れているもんな」
「そうそう」
「田口、よけーなこと言っちゃったな」
「じゃ、俺ら必死こいて勉強しなきゃならないんで!」
ケタケタと笑いながら、2人は去っていった……。

「なーに、あれ。失礼じゃない!?」

男の子2人組が去ってゆくなり、菜月は怒りの声を上げた。
田口は苦笑いを浮かべ、困った顔を目にした菜月は怒りを露わにしすぎたかと、不安になった……。

「ご、めん……。初対面なのに、私……」
「いや。こっちこそ、ごめん……彼女だなんて言われて、迷惑だよね……」
「ううん、気にしないで」

むしろ嬉しいと菜月は思ってしまった。

「今、初めて知ってびっくりしたんだけど、田口くんの両親すごいね! お父さんは弁護士さんでお母さんは女医さんなんて!」
「すごくなんかないっ!」
「……た、ぐち……くん?」
「あっ……ごめん。突然、大きな声出して……」
「ううん」

一体、どうしたんだろう……
……もしかして、触れちゃいけないことだったのかな……。

田口がこんなにも大声を上げるのを初めて見た菜月はとてもびっくりしてしまったと、同時に軽はずみな発言をしてしまったのではないかと心配になった……。
しゅんとする菜月の姿に田口は優しく声をかけた。

「本当にごめん。あまり触れられたくないんだ……両親のこと……」
「……なんで……」

そう、言葉を口にした瞬間……菜月はハッとした……。

「……さっき、みたいなことが……あるから……?」

田口の様子を伺いながら、菜月はおずおずと言葉を紡いだ。

「……」

コクッ……。

言葉なく、微かに頷いた田口の顔はやや俯き加減だったので、どんな表情を浮かべていたのかまでは分からなかった……。

「小さい頃から父親が弁護士で立派だの、母親が女医ですごいだの、その2人の息子なんだから勉強できて当たり前、将来は両親どちらの仕事を継ぐの?って……。さっきみたいなことも含めて散々言われ続けてきたんだ……。そういうことにいい加減慣れて、平然としてればいいのにさ……それもできなくて……驚かせて、本当ごめん……」
「ううん、私は大丈夫! それよりも田口くんが……」
「俺のことは気にしなくていいよ。そもそも俺自身の問題だから……」
「……田口くん……」

ニコッと笑ってみせた田口の笑顔はとてもツラそうで菜月の胸がチクッと痛むと共にはやるせない気持ちになった……。
菜月は田口の様子を伺いながら、おずおずと尋ねた。

「ねぇ、田口くん」
「ん?」
「さっきの話だけど……」
「さっき……?」
「うん。私に聞きたいことがあるんじゃないか……って、聞いたでしょ」
「あっ、あぁ……」

眉を寄せていた田口だったが、ようやく菜月が何のことを言っているのか、分かったようだった。

「田口くんのいう通り、私……少し前から気になってたことがあって、何度も聞こうとしたの。でも、聞いていいのか分からなくて、迷ってた……」
「そうだったんだ。片岡さんは俺に何を聞きたいと思ってたの?」
「えっ……と……」

そう話を切り出したが、やはり聞いていいのか戸惑ってしまった……。
そんな菜月に田口は優しく言う。

「まだ、聞くの迷ってる? 話を切り出したんだから言ってくれないと今度は俺が気になってしまうよ。遠慮せずに言ってみて」
「……田口くん……」
「ねっ」
「あ、あのね……前に言ってたことなんだけど……」 
「うん」

田口は菜月の言葉に耳を傾けた。

「どうして……ここじゃないと読めないから……って、言ったの? その時の田口くんの顔……一瞬だったんだけどすごく哀しくて苦しそうにも見えて……だから、余計に気になってて……」
「……っ」

田口はハッとした……。

……言葉にするつもりなんて全然なかった。
なのに……その言葉は口からポロッ……と、こぼれ落ちてしまっていた……。
今までこんなことは、一度もなかったのに……。

他人と関わる時はいつも両親のことに触れてほしくない……。
もし、触れられたとしても心を乱すことなく、平然としてなくてはいけないと自分に言い聞かせ、一線を置いていた。
それは両親のことに触れられた際、乱れてゆく心を守るためだった……。

ある日、菜月に声をかけられたことをきっかけに少しずつ話をするようになり、次第に菜月と過ごしていく時間も増えていった。
その日々の中でゆっくりではあるが無意識のうちに田口が他人に対して置いていた一線が薄れていったのかもしれない……。

田口にとって菜月と過ごす時間はとても楽しく、心地良かった。
どんな話をしても菜月は瞳をキラキラさせて、田口の話に耳を傾け、楽しそうに笑ってくれた。
不思議と片岡さんが側にいるとこれまでずっと心の奥底に隠していた胸の内まで自然と喋っているような気がする……と、田口は内心思った。

「……そう、言ったのも、もしかして……両親のことが関係してる……?」
「ーーっ!」

図星だった……。

両親の話もしてしまったし、今さら隠す必要もないので田口は素直にコクッと頷き、話し始めた。

「俺は両親から弁護士になれと言われてて、法律の本だけを読むことを許されてる。けど、俺はいろんな本が読みたいし、弁護士よりも海洋生物学者になりたいと思ってる。だから、両親のにバレないようにここや学校で本を読んでるんだ」
「そう、だったんだ」

これまで聞いたことのなかった田口の事情や心情を聞き、何と言ったらいいのか菜月は分からず、そう一言告げるのがやっとだった……。

「弁護士になれと言われているけど、だからといって海洋生物学者になる夢を諦めたわけじゃない。弁護士も海洋生物学者も両方なってやる!」
「……田口くん」

凛とした表情で力強く言い切った田口のことを菜月はカッコいいと、心から思った。

「つまらない話ばっかして、ごめん……」
「ううん。田口くんのこと知ることができて良かった。話しにくいことも話してくれてありがとう」

菜月は柔らかな表情を浮かべて、田口に微笑んだ。
田口もつられるように柔らかな笑みを浮かべたーー……。