透が本を読み始めてから1時間は経っただろうか。
 ざり、と土を踏み締める音が耳に届いた。顔を上げると、見慣れない女性。
 最近流行っているらしいアッシュグレージュに染められた彼女の髪の毛は日光でキラキラと光り、ぱちりと大きく色素の薄い瞳とよく合っていた。
 高校2年生である透のクラスメイトと比べると、見た目も雰囲気もいくらか大人びている。大学生くらいだろうか。
 透は突然現れた見知らぬ女性に戸惑い、ページをめくろうとしていた指が宙に留まっていた。
 
「なに読んでるの?」

 鈴を転がしたような声が、真夏の河川敷に落とされた。
 完全に硬直していた透の指先もやっと動きを見せ、慌てて本を閉じた。

「あ、これ…」

 透は唐突な質問にぱっと題名が出てこなかったのか、閉じた本を彼女に手渡した。
 肩よりも少し長い髪の毛を揺らし、彼女が本をパラパラとめくる。
 
「へえ、綺麗な表紙だね」
「僕も表紙に惹かれて買ったんです。今日読み始めたばっかりなんですけど」
「いつもここで本読んでるよね、君」

 いつから自分の存在を認知されていたのか、驚きの発言に透は再び固まった。
 そんな透の様子を見て、彼女がくすくすと楽しそうに笑う。座っているだけで汗が流れてしまうほど暑いはずなのに、涼しげな彼女の表情が印象に残る。

「ここら辺よく通るんだけど、いつ見ても君がいたから。ずっとなんの本読んでるんだろうって気になってたの」
「そう、だったんですね」
「うん。君、名前は?」
「高橋透です」
「透くんね。涼しそうな名前で夏にぴったりだね」

 透を置いて1人で話を進めていた彼女がそこで話をやめた。
 完全に話の主導権を彼女に委ねていた透は、急な沈黙に困惑の色を見せた。黙ったままにこにこと見つめてくる彼女に、沈黙に耐えかねた透が口を開いた。

「お姉さんはなんて名前なんですか?」
「向日葵っていうの。可愛いでしょ」

 向日葵、と彼女の名前を口で転がした透は、今日初めての笑顔を見せた。

「素敵な名前ですね。お姉さんにぴったりです」
「ありがとう。透と向日葵って、2人揃うともっと夏っぽいね」

 彼女が黙ったのは、自分の名前を聞いてもらうためだったのかと透は納得した。
 出会った時から笑顔を絶やさない彼女は、透が発した言葉の通り、本当に向日葵という名前がしっくりくる。