*
大会が終わり、表彰も終了し。
つつがなく選手が解散した後。
優也はこちらに近づいてくる影を認めて立ち止まった。
「………。」
お互いに黙り込んでいる。
けれどいつかはどちらかが話を始めるわけで。そして案の定、口火を切ったのは優也ではない方だった。
「月見くん。」
白いワンピースを着ている。頭には花模様の缶バッジをつけたキャップ。
佐々山は、とても爽やかな夏を思わせる格好をしていた。
そんな彼女は、ためらいがちに、口を開いた。
「ありがとう。月見くん。」
いや、と。優也は言おうとした。俺は別に、佐々山のために報いようとしたわけでもないし、というかそもそも何もしてないし、できてないし、しようともしてないし、俺はそんなお礼を言われるような人間じゃ————
「……受験、頑張ってね。」
結局、次の言葉を発したのは佐々山だった。
優也は何も言えなかった。
だって。
だって……
………あれ。なぜだろう。
「んじゃ、それだけだから。……さようなら。」
くるり、と。白いワンピースが翻る。
背を向けた彼女に。
気付けば優也は歩み寄っていた。
「あのさ、」
夜風が吹く。茶色い彼女の髪が靡いている。
「俺、ずっと疑問に思ってたことがあっただんだけど。なんで文学作品とか映画とか漫画とかで……出会いは、別れの宿命があって初めて美しい……みたいな描かれ方するんだろうな、って。」
思い出す。
『銀河鉄道の夜』
あの小説は優也が表紙をボロボロにするほど繰り返し読んだ、お気に入りの本だった。
あの話は、そらで言えるのではないかと言うほどはっきりとその内容を覚えている。
切なくも美しい最後。自己犠牲と利他の精神が、カムパネルラの思い出に静かに寄り添う。ジョバンニは決して忘れないだろう。銀の星屑にまぶされたあの夜を。死の世界へと歩んでいく親友と、それを知らずに笑っていた自分とで旅した、幻の一幕を。
あれは大好きな本。
あれはお気に入りの物語。
けれど……
だからこそ、色々と考えてしまうこともあって。
「佐々山。」
名前を呼ぶと、彼女は少し肩を跳ねさせる。
「“普通”でいいと、俺は思ってる。ちょっと気まずくなったからって、これっきり、さようなら、みたいに言わなくても、今まで通りでいいだろうって。寂しいから、悲しいからこそ美しいみたいな……そんな人間関係、別にいらない。別れたいなら別れる、一緒にいたいなら一緒にいる。心で思う通りに振る舞っていい。それの何がいけないんだ? 怖がらなくても……それが普通だろ。」
佐々山の目が、見開かれる。
怖がらなくても、と。彼女の口が呟くように動く。
藍色の夜に。
小さな三日月が沈みかけている。控えめに、淡く光っている。
「……私、怖がってたのかな。」
ぽつりと、佐々山は呟いて。
そしてふと気づいたように、顔を上げた。
「月見くん、そういえば……敬語じゃなくなってる。」
ああ、と頷く。別に隠すことでも取り繕うことでもない。
「もういいかなって。」
正直に答える。
壁を作るの面倒くさいし。佐々山が幽霊じゃないなら、機嫌を損ねて祟られるかもとか余計なことを考えなくてもいいし。というか、別に意識とかしてなかったけれど。知らないうちに、敬語なんて勝手にどっかに行っていた。いつの間にか、普通の友人と話すような砕けた態度になっていた。
そっか、と、妙に嬉しそうな佐々山が言う。
じゃあさ。
私も、もっと砕けちゃおっかな。
今でも十分に砕けてるだろ、と思うが、口には出さない。佐々山の言葉を待つ。それが大事だと思ったから。
「月見くんのこと……下の名前で呼んでみよっかな。」
「………。」
「……って、えと……嫌だった? あの、嫌だったら、やめるけど……」
急に不安そうになった佐々山に対して、優也は「いや。」と言った。少し、困惑気味な表情を浮かべて。
「呼んでみよっかなも何も……俺のレース中に、思いっきり叫んでなかったか? “優也!”って。」
「………っ。」
あ、ごめん。バレてないと思ってたのか。
そう優也が言うと、佐々山は真っ赤になった。
優也は黙って夜空を見上げる。
あの応援の声は、妙に耳にこびりついている。
多分、一生忘れないんじゃないかと思うくらいに。
「………。」
「………。」
黙って、二人。肩を並べる。
ロードレースは終わり、もうすぐ夏も終わり、そうして人生は、これからもずっと続いていく。
六位入賞。
その証は今。優也の鞄に入っていた。
記念品と賞状には、小さな三日月がプリントされている。
佐々山のおかげだな、と思った。
静かに。とても、静かに。
二人きりの夏の夜は、しんしんと更けていく。
三日月が、ゆっくりと西の空に沈んでいった。