*
赤く翳り出した日光が仄暗く輝いている。
うんざりするくらいギラギラしていた昼間を過ぎると、だんだん過ごしやすい時間が近づいてきたんだなという実感が湧いてくる。
夕方になる。影が伸びる。ライトがピカピカと光り始め、ネオンに照らされた市街地が奇妙な道化のように歪んで見える。
『ロードレース三日月』
この地方ではかなり有名な大会だ。
最後の坂がものすごい急勾配で、三日月型に反っている(もちろんそこまでキツイ傾斜なわけはなく、自転車で登ろうとするとあまりの辛さにそう感じるというだけである)ために、この名前がついた。
ネーミングに合わせて、三日月が見える時期と時間帯を考慮して開催している。もちろん優勝カップやメダルも三日月がモチーフだ。
優也が所属するロードレース部はあまり人数が多くない。そしてさらに、距離や性別などによってバラバラにされる。一応はこの中学生男子5kmの部に出場する人数が一番多いにも関わらず、それでもせいぜいが二、三人といったところだった。
「よーしオメーら、ちょっと集まれ。」
監督の呼び声に、集合する。
青いジャージを着た監督が、うちわでバタバタ赤い顔を煽ぎながら、前に立った。
三年生はこの大会で引退だとか、だから一生懸命頑張れだとか、ごくごく一般的な激励の文句をつらつらと言って。
それが全部終わったら。
監督はいつものように、こう言う。
「じゃ、恒例の……レース直前に選手の一言! はい、鈴木から。」
「うぇっ?!」
いきなり呼ばれた鈴木は慌てながらも、セリフは考えてきていたのだろう。澱みなく「最後のレースっすから、悔いのないようにはしたいと思ってます。けど、力みすぎてあの『三日月』で体力の底ついてたりしたら本末転倒なんで、そこらへんの配分はまあ練習通りに考えてやっていきたいっすね。」などと真面目に答えた。
この監督は毎度、「試合前のルーティーンがあると緊張が抜けるだろ?」などと言って、こんな風にレース直前の一言を言わせるのだ。意味はあるのかは正直よくわからないけれど、まあ、思い出にはなってる気がする。将来この部活にいたメンバーで飲み会とかやったら、絶対この『レース直前に一言』はネタにされる。
「んじゃ、淀川。」
「えー、コケない接触しない怪我しない、の安全第一でやります……って感じですかね。」
「まあお前はそれがいいだろうな。」
派手に周囲を巻き込んで転倒し大惨事を引き起こした実績を持つ淀川に、監督はうんうんと鷹揚に頷く。
「……で、最後は月見か。一言、言ってみろ。」
優也は間違いなく、この部のエースだ。
期待の目が集中する。
優也は、少し考える。
急勾配の三日月坂。
それを抜けたゴール。引かれた線は月の白色。
表彰台。三日月を模した形に飾りつけられた、不思議な台。
……このレースには、たくさんの“月”がある。
「……月の散歩に行ってきます。」
余裕の表情。淡々と言う、自分を見て。
監督が、息を吐く。
「あーそうだな、お前はそんくらい肩の力抜いてた方が力発揮できるタイプだよ。」
そして、監督はニヤリと笑った。
ぐるりと、全員の顔を見渡す。
「————行ってこい。みんな。」
はい、と力の籠った返事をしながら。
優也は胸の内で、血の出るほどの全力の決意を滲ませた。
(……奪る。)
何を? ……優勝の栄冠を。
白銀の三日月の描かれた金メダルを。
たった一人の人間にしか許されない……表彰台のてっぺんを。
俺のものにする。
絶対に。
今年だけは。
スタート地点につく。
審判のバイクが前方の位置についているのが見える。
数十人の色とりどりの高校生が、グリップを握り直したりサングラスやヘルメットをいじったり、頬を叩いて深呼吸したりして奇妙なざわめきを生んでいる。
優也の位置は悪くない。
上位争いができる実力があるから、少し前の方に行って、そして周囲もそれを受け入れる。
「————用意。」
審判の声。
刹那の静寂。
————パンッ!
ピストルの音。全員が飛び出した。
最初は全力を出さない。集団が塊になっているため、あまりスピードを出すと接触事故を起こすためだ。割合ゆっくりとスタートして、特に遅れる選手もいない状態でレースは始まる。
しかししばらくすると、すぐに小さな集団が形成され始める。
上位グループ。そして中位、下位のグループ。
実力に見合わない場所にいても後で失速するだけ。それでも遅れたくなくて必死に追い縋ろうとする者たちもいるが、やはり無理だと判断すれば勝手に彼らは落ちていく。
優也は上位グループに食いついた。
ここでこのペースについていけなければ、優勝など夢のまた夢。
————月見くんの自転車って、ブルーじゃないんだね。
————あっ、そっか。……勝負色がブルーで、いつもはもっとゆるくホワイトな気分で自転車に乗るわけだ!
街のネオンに照らされた青いバイクを疾風の如くに走らせる。
俺の勝負色。
海の色。
空の色。
自転車屋で適当に選んだけれど。
けれど、使ううちに愛着が湧いて。
いつの間にか、世界一好きになった色。
……佐々山が、見ていてくれた色。
(……ふう。)
レースでは、一人。
血のように真っ赤なヘルメットを被ったやつが、ものすごい勢いで突出していった。そのまま加速して、あっという間にカーブを曲がって姿を消す。
しかし誰も、そいつのことは気にしない。
(……あいつは三中の小田だな。いつも最初だけぶっ飛ばして、後でものすごく減速してくる奴だ。)
あんな走り方をしては最後まで持たない。小田はその走り方でかなり好成績を出すとんでもなく変な奴なのだが、真似するバカはいない。上位集団は落ち着いて自分たちのペースを守る。
早くも先頭交代が始まっていた。
先頭の人間は風を強く受けるために不利になる。実力者はフェアプレー精神に基づき、くるくるとその嫌な役回りを受け持って交代していくのだ。
……俺も、と、思って。
息が上がっている自分に気付く。まだレースが始まって序盤なのに。肺はすでに『もう少しペースを落とすべきなんじゃないか?』と提案してくる。
「……ぐ、はあ、はあ…」
負けてたまるか、と思う。落ち着いて走れ、と頭の片隅が警告してくる。
でも。
————まだいける。
ペダルを高速回転で踏み込む。カーブは全員が減速し、しかしそれでもまだ物凄いと言えるスピードでジャッと一瞬で通り過ぎる。まるで新幹線だ。新幹線が人間に化けて走ってるんじゃないかと疑った昔の日を思い出す。
————今は、俺が新幹線だ。
漕ぐ。ひたすらに漕ぐ。漕ぐことの他は何も考えないくらいに、漕ぐ。
汗が垂れる。気にしない。街のライトがチカチカと光る。星みたいに、月みたいに光る。まっすぐ前だけを見据えて、邪魔なものは何も見ない。
漕いで、漕いで、漕いで。
漕いで。
漕いで、漕いで。
漕ぐ。
漕ぐ。
………漕ぐ。
限界だ、と思った。
どのくらい漕ぎ続けているのかわからない。
優也は練習の時より、明らかに速いペースで走っていた。
さっき、と思う。
上位集団から脱落した人間が一人いた。それが誰か、気にする余地もなかった。
ぜいぜいと呼吸する喉が枯れている。
あとどのくらい? どのくらい走ればいい?
わからない。
横から、前から、後ろから、激しい息遣いが聞こえる。誰もが限界を突破しようとして走ってる。
……奇跡だ、と。
誰かが頭の片隅でささやく声が、聞こえた気がした。
去年のお前は、上位集団になんて組み込めていたか?
それだけじゃない。お前の学校のロードレース部の先輩、同輩、後輩、その全員を集めて聞いてみろ。お前ほど前方をキープできた人間はいたか?
そうだ。誇れ。こんなにも好成績を残せる奴は、お前以外にいなかった。
お前は今そこを走っているだけで……十分に奇跡を起こしてる。
ふっ、と。
気が遠くなりそうになった。
足に入る力が弱まりかける。あ……と思う。俺も上位集団から脱落する……
そう、思いかけた時だった。
————次の大会終わったら、やめる予定だけど。
ぐ、と、ペダルを踏み込んだ。
視界が怪しい。極彩色のランプが夜中に点灯しているかのようだった。貧血起こしかけてるかも、と思う。喉の奥に血の味がする。カラカラだ。本当に喉の血管切れてるんじゃないか、なんて思う。
それでも。
踏み続ける。
絶対にペースは落とさない。
前の人の背中を追いかける。ペダルが重い。重いペダルをものすごい勢いで漕ぎ続ける。
ぐん、と。
急に目の前の人間が迫ってきた。うわ! とびっくりする。衝突する……でもなぜ? 自分のペースが急に上がった? 絶対違う。相手のペースが急激に落ちた。でもそんなことってあるか?
などと思っていると、ガクンと自分のバイクの進みが遅くなるのを感じた。
————三日月坂。
その単語が頭に蘇ると、急に力が湧いた。
もう、レースも終盤に差し掛かっていたのだ。いつの間に? わからない。けれど今は、ここを踏ん張ればいい。それだけを考えればいい。
腰を浮かせた。
立ち漕ぎ。
棒のようになった両足を馬車馬みたいに働かせて、ガムシャラに漕ぐ。ちょっとでも力を緩めた瞬間に逆流するんじゃないか、と思った。ひゅるうーと下に向かって、川下りの筏みたいに、あっさりと。そうなれば楽だな、幸せだろうな、と思う。
でも自分はそれを選ばない。
たとえ前が地獄でも。それでも自分は、前に進むことを選ぶ。
ひゅっと体が楽になる。
三日月坂を抜けた。
あとは直線のコース。最後のラストスパート。
全員が同じことを考える。くたびれきった体を、破裂しそうになっている肺を、最後の叱咤で動かす。上位グループの中でもまだ余裕のあった者が二人、一緒に絡まり合うように飛び出していくのが見えた。
追わなくては、と思う。
もう無理だ、とも思う。
上がったペースについていけなくて、三人くらい脱落していく。目の前で真っ赤なヘルメットの奴がゼイゼイ言っていて、彼も危ないだろうなとぼんやり思う。
吐き気がする。乗り物に酔ったみたいになってる。ああ、でも、ここで吐いたらダメだ。道路を汚す。そんなことをぼんやりと考えて。
限界なんかとっくに越していて。
それでも。この目だけは、自分たちを突き放していった二人の選手を夢幻のように追っている。
————ロードレースを続けて……日本一有名な“月見選手”になってくれる?
なれるかよ馬鹿野郎。
そんな泣き言ばかりが脳裏に浮かび、けれど足は必死に回転し続ける。
こんな地方の大会で。同年代と戦って。こんな必死になってるのに、ここでのメダルすら取れなくて。
こんな自分が日本一になれるなんて。
どうしてお前は、そんなおめでたいことを考えられたんだ?
「……ぐ……っ…」
夜の街が蜃気楼のように揺らめいている。汗が目に入る。ぼやけて何も見えない。苦しい。苦しい。息ができない。
そんな状態で……優也の足は、スパートをかける。
隣に並んでいた奴を抜かす。
抜かされた奴が必死に漕いでいるが、こっちも必死だ。絶対に抜き返されてなるものか。
漕いで、漕いで。
漕ぎ続けたその先に。
一体、何があるのだろう。
わからない。
多分、何もないのだと思う。
でも。
……そこに、何もないからこそ。
「————優也!」
どうやってゴールしたのか。そんなのは何も覚えていなかった。
バイクから下りて。地面に倒れ込んで。待っていた仲間に頭から水をぶっかけられたり、保冷剤入りタオルを首に押し当てられたり。
ぐるぐる回る不快な目眩がおさまった時には、だいぶ、心も落ち着いてきて。
「大丈夫か、月見。」
「……はい。」
気付けば、そばに監督がいた。
いつも自分を煽ぐために使っているうちわで、こっちを煽いでくれている。いいです、すみません、とそれを遠ざけようとしたら、黙って煽がれとけ、と監督は有無を言わさぬ口調で言った。
しばらく、そのまま時間が流れる。
ポツリと。優也は呟くように、聞いた。
「俺の……順位は。」
「六位。」
監督の返事は端的だった。これ以上ないほどに短く、事実だけを述べている。
彼が、本当は色々言いたかっただろうことは、その表情から読み取れる。しかし監督は、それ以上何も言わなかった。
うちの部の創設以来の快挙だ。お前はヒーローだ。よくやった。今夜はゆっくり休んで、そうして明日は羽目を外してみんなでパーティーだ。送別会で祝うネタができてよかったな。
……などと。そんな思いがある一方で。
監督はきっと、優也が本気で優勝を狙っていたことを知っていた。
無謀な目標だった。
しかし驚くほど、優也は縋り付いてみせた。
ギリギリまで追い縋った。すぐそこに、優勝の文字が見えていた。すぐ目の前にあって、けれど絶対に届かなかった、表彰台。
惜しかったからこそ、悔しいということがある。
あともうちょっとで、という感情が、全てを大波の嵐のように揺さぶる。
「………。」
六位。
それを、改めて自覚した途端。
涙が溢れていた。
ぐ、と喉が鳴る。痙攣した喉は少しも言うことを聞かず、気づいた時には既に嗚咽が漏れ出していた。
……悔しい。
初めて、それを思った。
いや。
何度も何度も、自分はそれを思ってきた。
ただ。
一度もそれを、人前で出したことがないだけ。
監督が背中をさすっている。熱い手に擦られて、摩擦で火傷しそうに熱く感じる。
涙が止まらない。監督は黙って優也を見守っている。
静かな夜。
優也は恥も外聞もなく、泣いている。
むこうで、控えめにこの光景を見ているチームメイトがいる。
この時の優也は全く気づいていなかったが。悔し涙を流して嗚咽する彼を、部のメンバーたちは複雑な顔で見ていたらしい。
俺……吐いた月見先輩は何度か見たことありますけど、泣いてる月見先輩は初めて見ました。
そんなことを言ったとある後輩に。同輩の鈴木と淀川は言ったそうだ。
…………ああ。
………俺らもだよ。
まったく……わかんねえ奴だよな。というのが。彼らの一致した意見だった。
赤く翳り出した日光が仄暗く輝いている。
うんざりするくらいギラギラしていた昼間を過ぎると、だんだん過ごしやすい時間が近づいてきたんだなという実感が湧いてくる。
夕方になる。影が伸びる。ライトがピカピカと光り始め、ネオンに照らされた市街地が奇妙な道化のように歪んで見える。
『ロードレース三日月』
この地方ではかなり有名な大会だ。
最後の坂がものすごい急勾配で、三日月型に反っている(もちろんそこまでキツイ傾斜なわけはなく、自転車で登ろうとするとあまりの辛さにそう感じるというだけである)ために、この名前がついた。
ネーミングに合わせて、三日月が見える時期と時間帯を考慮して開催している。もちろん優勝カップやメダルも三日月がモチーフだ。
優也が所属するロードレース部はあまり人数が多くない。そしてさらに、距離や性別などによってバラバラにされる。一応はこの中学生男子5kmの部に出場する人数が一番多いにも関わらず、それでもせいぜいが二、三人といったところだった。
「よーしオメーら、ちょっと集まれ。」
監督の呼び声に、集合する。
青いジャージを着た監督が、うちわでバタバタ赤い顔を煽ぎながら、前に立った。
三年生はこの大会で引退だとか、だから一生懸命頑張れだとか、ごくごく一般的な激励の文句をつらつらと言って。
それが全部終わったら。
監督はいつものように、こう言う。
「じゃ、恒例の……レース直前に選手の一言! はい、鈴木から。」
「うぇっ?!」
いきなり呼ばれた鈴木は慌てながらも、セリフは考えてきていたのだろう。澱みなく「最後のレースっすから、悔いのないようにはしたいと思ってます。けど、力みすぎてあの『三日月』で体力の底ついてたりしたら本末転倒なんで、そこらへんの配分はまあ練習通りに考えてやっていきたいっすね。」などと真面目に答えた。
この監督は毎度、「試合前のルーティーンがあると緊張が抜けるだろ?」などと言って、こんな風にレース直前の一言を言わせるのだ。意味はあるのかは正直よくわからないけれど、まあ、思い出にはなってる気がする。将来この部活にいたメンバーで飲み会とかやったら、絶対この『レース直前に一言』はネタにされる。
「んじゃ、淀川。」
「えー、コケない接触しない怪我しない、の安全第一でやります……って感じですかね。」
「まあお前はそれがいいだろうな。」
派手に周囲を巻き込んで転倒し大惨事を引き起こした実績を持つ淀川に、監督はうんうんと鷹揚に頷く。
「……で、最後は月見か。一言、言ってみろ。」
優也は間違いなく、この部のエースだ。
期待の目が集中する。
優也は、少し考える。
急勾配の三日月坂。
それを抜けたゴール。引かれた線は月の白色。
表彰台。三日月を模した形に飾りつけられた、不思議な台。
……このレースには、たくさんの“月”がある。
「……月の散歩に行ってきます。」
余裕の表情。淡々と言う、自分を見て。
監督が、息を吐く。
「あーそうだな、お前はそんくらい肩の力抜いてた方が力発揮できるタイプだよ。」
そして、監督はニヤリと笑った。
ぐるりと、全員の顔を見渡す。
「————行ってこい。みんな。」
はい、と力の籠った返事をしながら。
優也は胸の内で、血の出るほどの全力の決意を滲ませた。
(……奪る。)
何を? ……優勝の栄冠を。
白銀の三日月の描かれた金メダルを。
たった一人の人間にしか許されない……表彰台のてっぺんを。
俺のものにする。
絶対に。
今年だけは。
スタート地点につく。
審判のバイクが前方の位置についているのが見える。
数十人の色とりどりの高校生が、グリップを握り直したりサングラスやヘルメットをいじったり、頬を叩いて深呼吸したりして奇妙なざわめきを生んでいる。
優也の位置は悪くない。
上位争いができる実力があるから、少し前の方に行って、そして周囲もそれを受け入れる。
「————用意。」
審判の声。
刹那の静寂。
————パンッ!
ピストルの音。全員が飛び出した。
最初は全力を出さない。集団が塊になっているため、あまりスピードを出すと接触事故を起こすためだ。割合ゆっくりとスタートして、特に遅れる選手もいない状態でレースは始まる。
しかししばらくすると、すぐに小さな集団が形成され始める。
上位グループ。そして中位、下位のグループ。
実力に見合わない場所にいても後で失速するだけ。それでも遅れたくなくて必死に追い縋ろうとする者たちもいるが、やはり無理だと判断すれば勝手に彼らは落ちていく。
優也は上位グループに食いついた。
ここでこのペースについていけなければ、優勝など夢のまた夢。
————月見くんの自転車って、ブルーじゃないんだね。
————あっ、そっか。……勝負色がブルーで、いつもはもっとゆるくホワイトな気分で自転車に乗るわけだ!
街のネオンに照らされた青いバイクを疾風の如くに走らせる。
俺の勝負色。
海の色。
空の色。
自転車屋で適当に選んだけれど。
けれど、使ううちに愛着が湧いて。
いつの間にか、世界一好きになった色。
……佐々山が、見ていてくれた色。
(……ふう。)
レースでは、一人。
血のように真っ赤なヘルメットを被ったやつが、ものすごい勢いで突出していった。そのまま加速して、あっという間にカーブを曲がって姿を消す。
しかし誰も、そいつのことは気にしない。
(……あいつは三中の小田だな。いつも最初だけぶっ飛ばして、後でものすごく減速してくる奴だ。)
あんな走り方をしては最後まで持たない。小田はその走り方でかなり好成績を出すとんでもなく変な奴なのだが、真似するバカはいない。上位集団は落ち着いて自分たちのペースを守る。
早くも先頭交代が始まっていた。
先頭の人間は風を強く受けるために不利になる。実力者はフェアプレー精神に基づき、くるくるとその嫌な役回りを受け持って交代していくのだ。
……俺も、と、思って。
息が上がっている自分に気付く。まだレースが始まって序盤なのに。肺はすでに『もう少しペースを落とすべきなんじゃないか?』と提案してくる。
「……ぐ、はあ、はあ…」
負けてたまるか、と思う。落ち着いて走れ、と頭の片隅が警告してくる。
でも。
————まだいける。
ペダルを高速回転で踏み込む。カーブは全員が減速し、しかしそれでもまだ物凄いと言えるスピードでジャッと一瞬で通り過ぎる。まるで新幹線だ。新幹線が人間に化けて走ってるんじゃないかと疑った昔の日を思い出す。
————今は、俺が新幹線だ。
漕ぐ。ひたすらに漕ぐ。漕ぐことの他は何も考えないくらいに、漕ぐ。
汗が垂れる。気にしない。街のライトがチカチカと光る。星みたいに、月みたいに光る。まっすぐ前だけを見据えて、邪魔なものは何も見ない。
漕いで、漕いで、漕いで。
漕いで。
漕いで、漕いで。
漕ぐ。
漕ぐ。
………漕ぐ。
限界だ、と思った。
どのくらい漕ぎ続けているのかわからない。
優也は練習の時より、明らかに速いペースで走っていた。
さっき、と思う。
上位集団から脱落した人間が一人いた。それが誰か、気にする余地もなかった。
ぜいぜいと呼吸する喉が枯れている。
あとどのくらい? どのくらい走ればいい?
わからない。
横から、前から、後ろから、激しい息遣いが聞こえる。誰もが限界を突破しようとして走ってる。
……奇跡だ、と。
誰かが頭の片隅でささやく声が、聞こえた気がした。
去年のお前は、上位集団になんて組み込めていたか?
それだけじゃない。お前の学校のロードレース部の先輩、同輩、後輩、その全員を集めて聞いてみろ。お前ほど前方をキープできた人間はいたか?
そうだ。誇れ。こんなにも好成績を残せる奴は、お前以外にいなかった。
お前は今そこを走っているだけで……十分に奇跡を起こしてる。
ふっ、と。
気が遠くなりそうになった。
足に入る力が弱まりかける。あ……と思う。俺も上位集団から脱落する……
そう、思いかけた時だった。
————次の大会終わったら、やめる予定だけど。
ぐ、と、ペダルを踏み込んだ。
視界が怪しい。極彩色のランプが夜中に点灯しているかのようだった。貧血起こしかけてるかも、と思う。喉の奥に血の味がする。カラカラだ。本当に喉の血管切れてるんじゃないか、なんて思う。
それでも。
踏み続ける。
絶対にペースは落とさない。
前の人の背中を追いかける。ペダルが重い。重いペダルをものすごい勢いで漕ぎ続ける。
ぐん、と。
急に目の前の人間が迫ってきた。うわ! とびっくりする。衝突する……でもなぜ? 自分のペースが急に上がった? 絶対違う。相手のペースが急激に落ちた。でもそんなことってあるか?
などと思っていると、ガクンと自分のバイクの進みが遅くなるのを感じた。
————三日月坂。
その単語が頭に蘇ると、急に力が湧いた。
もう、レースも終盤に差し掛かっていたのだ。いつの間に? わからない。けれど今は、ここを踏ん張ればいい。それだけを考えればいい。
腰を浮かせた。
立ち漕ぎ。
棒のようになった両足を馬車馬みたいに働かせて、ガムシャラに漕ぐ。ちょっとでも力を緩めた瞬間に逆流するんじゃないか、と思った。ひゅるうーと下に向かって、川下りの筏みたいに、あっさりと。そうなれば楽だな、幸せだろうな、と思う。
でも自分はそれを選ばない。
たとえ前が地獄でも。それでも自分は、前に進むことを選ぶ。
ひゅっと体が楽になる。
三日月坂を抜けた。
あとは直線のコース。最後のラストスパート。
全員が同じことを考える。くたびれきった体を、破裂しそうになっている肺を、最後の叱咤で動かす。上位グループの中でもまだ余裕のあった者が二人、一緒に絡まり合うように飛び出していくのが見えた。
追わなくては、と思う。
もう無理だ、とも思う。
上がったペースについていけなくて、三人くらい脱落していく。目の前で真っ赤なヘルメットの奴がゼイゼイ言っていて、彼も危ないだろうなとぼんやり思う。
吐き気がする。乗り物に酔ったみたいになってる。ああ、でも、ここで吐いたらダメだ。道路を汚す。そんなことをぼんやりと考えて。
限界なんかとっくに越していて。
それでも。この目だけは、自分たちを突き放していった二人の選手を夢幻のように追っている。
————ロードレースを続けて……日本一有名な“月見選手”になってくれる?
なれるかよ馬鹿野郎。
そんな泣き言ばかりが脳裏に浮かび、けれど足は必死に回転し続ける。
こんな地方の大会で。同年代と戦って。こんな必死になってるのに、ここでのメダルすら取れなくて。
こんな自分が日本一になれるなんて。
どうしてお前は、そんなおめでたいことを考えられたんだ?
「……ぐ……っ…」
夜の街が蜃気楼のように揺らめいている。汗が目に入る。ぼやけて何も見えない。苦しい。苦しい。息ができない。
そんな状態で……優也の足は、スパートをかける。
隣に並んでいた奴を抜かす。
抜かされた奴が必死に漕いでいるが、こっちも必死だ。絶対に抜き返されてなるものか。
漕いで、漕いで。
漕ぎ続けたその先に。
一体、何があるのだろう。
わからない。
多分、何もないのだと思う。
でも。
……そこに、何もないからこそ。
「————優也!」
どうやってゴールしたのか。そんなのは何も覚えていなかった。
バイクから下りて。地面に倒れ込んで。待っていた仲間に頭から水をぶっかけられたり、保冷剤入りタオルを首に押し当てられたり。
ぐるぐる回る不快な目眩がおさまった時には、だいぶ、心も落ち着いてきて。
「大丈夫か、月見。」
「……はい。」
気付けば、そばに監督がいた。
いつも自分を煽ぐために使っているうちわで、こっちを煽いでくれている。いいです、すみません、とそれを遠ざけようとしたら、黙って煽がれとけ、と監督は有無を言わさぬ口調で言った。
しばらく、そのまま時間が流れる。
ポツリと。優也は呟くように、聞いた。
「俺の……順位は。」
「六位。」
監督の返事は端的だった。これ以上ないほどに短く、事実だけを述べている。
彼が、本当は色々言いたかっただろうことは、その表情から読み取れる。しかし監督は、それ以上何も言わなかった。
うちの部の創設以来の快挙だ。お前はヒーローだ。よくやった。今夜はゆっくり休んで、そうして明日は羽目を外してみんなでパーティーだ。送別会で祝うネタができてよかったな。
……などと。そんな思いがある一方で。
監督はきっと、優也が本気で優勝を狙っていたことを知っていた。
無謀な目標だった。
しかし驚くほど、優也は縋り付いてみせた。
ギリギリまで追い縋った。すぐそこに、優勝の文字が見えていた。すぐ目の前にあって、けれど絶対に届かなかった、表彰台。
惜しかったからこそ、悔しいということがある。
あともうちょっとで、という感情が、全てを大波の嵐のように揺さぶる。
「………。」
六位。
それを、改めて自覚した途端。
涙が溢れていた。
ぐ、と喉が鳴る。痙攣した喉は少しも言うことを聞かず、気づいた時には既に嗚咽が漏れ出していた。
……悔しい。
初めて、それを思った。
いや。
何度も何度も、自分はそれを思ってきた。
ただ。
一度もそれを、人前で出したことがないだけ。
監督が背中をさすっている。熱い手に擦られて、摩擦で火傷しそうに熱く感じる。
涙が止まらない。監督は黙って優也を見守っている。
静かな夜。
優也は恥も外聞もなく、泣いている。
むこうで、控えめにこの光景を見ているチームメイトがいる。
この時の優也は全く気づいていなかったが。悔し涙を流して嗚咽する彼を、部のメンバーたちは複雑な顔で見ていたらしい。
俺……吐いた月見先輩は何度か見たことありますけど、泣いてる月見先輩は初めて見ました。
そんなことを言ったとある後輩に。同輩の鈴木と淀川は言ったそうだ。
…………ああ。
………俺らもだよ。
まったく……わかんねえ奴だよな。というのが。彼らの一致した意見だった。