海から帰ってくると、姉がいた。

「おっ、優也じゃん。」

 どこ行ってたの、と言われて、とりあえず「月。」と返しておく。嘘だあ、と、母親と全く同じ反応をする。母娘って似るものだな、と思いながら、「海。」と答え直す。姉は得心が言った顔で頷いた。

「あー、海かあ。」

 貝殻集めでもしてたの? と言うので、本読んでた、と答える。へー、インテリ。本読んでただけでインテリはないだろ。いやあ、だって私はそんな勤勉じゃないし。姉ちゃんはもうちょっと勤勉になれ。へいへい。……などと一連の会話をしてから。
 ふと、姉が首を傾げた。

「で、本はどこ?」
「………あ。」

 さっぱり頭から抜け落ちていた。
 慌てて自転車のカゴを確認しにいく。案の定、ない。というか、入れた記憶がそもそもないのだから当たり前の結果だった。
 つまり、あれだ。
 白いエコバッグもろとも、海に忘れてきた。

「うわ、めんどくさ……」
「ほっほう、弟よ。きみも案外抜けているところがあるのだねえ〜。」
「姉ちゃんは黙ってろ。」

 “本を読んでいた”という自己申告を嘘だと思うのではなく、“本を忘れてきた”という事実をすぐさま見抜くあたり、姉の洞察力もなかなかのものだと言える。が、それを認めるのは癪だった。

「………。」
「私が取りに行ってあげようかー? 一日に二回同じ道を通るのって、思ったよりメンタル削れるよねえ。」
「……いや、いい。」

 ロードレース用のバイクを出してきて道路をぶっ飛ばしてやろうか、などという過激なアイディアが頭にむくむくと湧きかけたのを、姉の発言が鎮火してくれた。普通に事故を起こすし危ないので、この点姉には感謝しなければならないが、やっぱり頼りたくないものは頼りたくない。

「……夜になって気温が落ち着いてから、自分で行く。」

 ふうん、と姉は言った。
 妙に神妙な声を出すんだな、と少し不審に思う。顔を上げると、姉は真顔でこんなことを言った。

「でも、あそこ……出るらしいじゃん。」
「出るって?」

 姉は、両手を前に突き出してだらんと垂らした。

「ほら、あれだよ。幽霊。」

 そして突き出した手を、ゆらんと揺らす。

「え……」
「大丈夫? 怖くない?」
「いや、俺もう十五だし。つくならもうちょっとマシな嘘をついてほしいっていうか、」
「“すずちゃん”っていう幽霊。」
「………。」

 突然黙り込んだ優也を、姉はびっくりした顔で見た。

「えっ、なに? 心当たりとかあるの?」
「………。」
「怖い怖い! えっ、ちょっと待って!」

 佐々山硯。すずり。すず……

 ……すずちゃん?


 嘘だろ、と思う。さすがに、と。“すず”がつく名前なんて世の中腐るほどあるだろうし、ちょっと名前が似てるくらいは偶然の一致に過ぎないだろう。

 しかし、と思う。妙に気にかかる。
 ちょっと聞いてみよう、といった調子で、優也は姉に問いかけた。

「ちなみに、それ、どういう幽霊?」
「え……っと…。なんか、海で死んじゃった女の子が、出没するとか、なんとか。」

 普通すぎる怪談だな、と優也は言う。
 そうだよ…………そう、だよね? と、なかなか怖がっているらしい姉が言う。

「シンプルだからこそ迫真に迫ってる感じもするけど。」と優也が言うと、姉はわかりやすく動揺した。

「ちょ、ちょっと、ギョッとさせないでよ!」
「先に怖がらせようとしたのはそっちだろ……」

 いやいや私の場合はあんたが絶対に怖がったりしないだろうという確信あっての行動でありそれに比べて今のあんたは私を戦かせようという目的の元に口と舌を動かしたまごうことなき確信犯……どうのこうのと喋っているのを全て無視する。

「まあいいや。夕飯食べ終わったら行ってくる。」

 ねえきみ、私の話聞いてたあ?! と涙目になる姉に、心の内だけで返す。

 もちろん聞いてない。

 ポーカーフェイスを崩さずに二階へ上がる。もし、今の自分の感情に真っ正直な表情を浮かべたとしたら、と思ってみる。きっと優也は、姉に対して勝ち誇ったような顔を浮かべているだろう。

 まあいいや。筋トレしよ。と。メトロノームに従うピアニストみたいに淡々と思う。
 マットを敷いてその上で適当に運動して、それが終わったら夕ご飯をかっこんで、ぼんやり休憩して、それで……

 夜の海へ、肝試しに行ってみるとしようか。

 置いてきた『銀河鉄道の夜』の表紙を脳裏に描きながら、優也は思う。





 ぬるい夜の風が吹いている。
 ここの海は入江になっていて、ほとんど波も立たない。ヒュオオオオ、という風の音だけがあって、ドプーンザプーンというありきたりな海の音は全然しない。

 ……どこに置いたかな。

 白く浮かび上がるエコバッグ。自転車をとめてウロウロしていると、あっさり見つかった。
 それにしても、拍子抜けなくらいに何も起こらなかった。

 黒くのたくったように澄んでいる水。月が照らす夜の海。どこか不気味で寂しげな雰囲気を醸し出しておきながら、ここはただの街の一角。現代社会にはとても幽霊なんて割り込める余地はなくて、怖いものがあるとしたなら生身の人間、すなわち不審者のようなものだけ。そしてここは人っ子一人いないのだから、そのわずかな恐怖の可能性すら排除されているということであり、優也は来た時と同じように、ただ自転車にまたがって帰ればいいというわけで、

「————月見くん。」

 ……心臓がまろびでるかと思った。

 昼間と同じ、白いシャツ。下手に真っ白だから闇に浮かんでいて、一瞬、上半身だけの幽霊に見えた。

「……幽霊?」
「えっ、いやいや、私だよ私。佐々山硯。」

 とりあえず思ったことを口に出してみると、面白いほど慌ててくれた。よく見ると、というか普通に見れば足はきちんと二本ある。別に本当に幽霊だと疑ったわけじゃない。

 幽霊だなんて酷いよ、と佐々山が膨れる。

「それで……どうして月見くんがここに?」
「肝試し。」

 『どうしてここに』はこっちのセリフだ、などと思いながら適当に返事をすると、「絶対違うでしょ!」と抗議された。
 ふう、とため息をつきながら優也は言う。

「忘れた荷物を取りに来ただけです。」
「それなら最初からそう言ってよ……」
「でも、幽霊が出るんじゃないかって少し期待してたのは本当ですよ。」
「……え?」

 これこれこういうわけで、俺の姉が“すずちゃん”とかいう幽霊の話をしていたってわけで。海で溺れた少女だとかなんとか、と説明する。
 佐々山は、「あ……」と目を見開いた。

「なるほど、そういうことか……」
「なんか知ってるんですか。」
「うん。」

 佐々山は、あっさり頷いた。へえ、と好奇心の色を含んだ目を優也は向ける。佐々山は言った。

「それ、涼のことだね。」
「すずみ……」
「“涼しい”って漢字を書いて、すずみと読む。」

 ネーミングセンスが『硯』と似てるな、と思った。というか、これってもしかして……

「うちの姉。」
「………。」

 幽霊が姉ってどういうことだ、と思うけれど。やっぱりこれも、少し考えれば察してしまったような気がして。優也は何も言えずに、押し黙った。

「ちょうど、涼が私くらいの年齢だった時だね。あの人、海で遊んでて、溺れて死んだんだよね。……それで、たぶん、そういう怪談ができた。まあ、それは私がこの辺りウロチョロしてるからってのもあるかな。私たち、すごく似てるから。幽霊の正体見たり妹ちゃん、みたいな感じ?」

 佐々山は、いつもより少し饒舌だった。
 彼女は知っても知らなくてもどっちでも良さそうなことをペラペラ喋った。私たち姉妹がどっちも“すず”の音を入れた名前を持ってるのは、両親の命の恩人が鈴さんという人だったから。詐欺被害にあって自営業の店が潰れかけた彼らの借金を鈴さんが肩代わりしてくれなかったら、二人は首をくくっていたかもしれない。そういうわけだから、子供が生まれた時は迷わず“すず”の音を使おうと決めた。それで漢字が硯と涼となるのだからちょっと変な感じがするけど、自分の名前も姉の名前もなんだかんだでけっこう気に入ってる。

「私がここで遊んでるってバレた時ね、」
 と、佐々山は言った。

「親は何も言わなかったけど。なんかすごい空気になったよ。……そりゃそうだよね。ここで涼が死んでるんだもん。」

 二人目の子まで溺れたらどうしようとか、みたいな、そういうものすごい不安が空気に乗って、私の方にのしかかってくる。怖い。怖かった。両親の重みに耐えきれなくて、というか自分でも自分自身がよくわからなくて、こんがらがってわからなくなって、結果的にフラフラ海まで出てきちゃう。夜の海。危ないんじゃないかって自分でも理解してるけど、それでもやっぱり今夜も出て来てしまった。そういう意味では、私ってやっぱり幽霊なのかもね。フラフラ、彷徨い出る。自分の心もわからずに。……あはは、こうして口に出して言ってみると、本当に幽霊みたいだよ、私。ウケる。

「………。」

 優也は自転車のサドルに座ったまま、どう動くことも出来ずにただ佐々山を見つめていた。
 これって思ったより深刻な話だったのかな、などと思いつつ。それを解決する手段も動機も自分には見つからなかったから。だから、黙っていた。

「ねえ、」と、影の下りた顔の佐々山が言って。

「ロードレースを続けて……日本一有名な“月見選手”になってくれる?」

 どう答えるのが正解なんだろう、と思いながら。
 優也は、口を開く。

「……次の大会終わったら、やめる予定だけど。」

 馬鹿正直すぎるだろアホ、と自分でも思った。が、それだけしか語れることがなかったので仕方ない。
 夏休みの最後のレースが、もうすぐ開催される。
 それが終わったら引退。そうして受験勉強に本腰を入れて。ロードレースのことなんか、きっぱりさっぱり忘れるつもりだった。

 佐々山は、一瞬喉を詰まらせたように黙った。そして言った。

「じゃあ……しょうがないね。」

 私の言ったことは全部忘れていいよ、と。
 佐々山は言って。
 そしてくるりと背を向け、夜の闇の中に、消えていく。

 遠ざかっていく背中。その背中が、ふと、その場に止まるのが見えた。

「————最後のレース、応援してるから。」

 その言葉を最後に。
 今度こそ、佐々山は去っていった。




「……ちくしょう。」

 前カゴの白いエコバッグが、妙に浮いて見える。地面を蹴って、優也の自転車は走り出した。