「どこ行くのー。」
 と言われたから、とりあえず「月。」と答えておく。
 母親はカラカラと笑って言った。「嘘だあ。」

 まあ、嘘だ。

「で、本当はどこ行くの?」
「海。」
「行ってらっしゃい。気をつけてね。」

 ん、と曖昧な返事をして、優也は家を出た。真っ白い日差しが眩しい。青空が目一杯に広がっていて、こんなに青いんなら空も海みたいに水でたぷんたぷんに満ちていて魚が泳いでいるんじゃないかとまで錯覚してしまう。
 白い自転車がとめてある。黒いサドルが熱々に焦がされている。鉄板に座るみたいで嫌だな、と思いながらも、仕方がないので普通にまたがって、地面をキックする。

 ゆるやかに漕ぐ。
 本当はガンガンスピードを出すのが癖になっているのだが、こんなに暑い日に……しかも休日にあくせくしても意味なんてない。適当に走らせ、下り坂の時は足を休めながら、アスファルトの上を海上の舟みたいにサラサラ流れていった。

 途中で自動販売機に寄って、水を買った。

 その時にはすでに潮の匂いが風に乗ってそこら中に吹き撒かれている。汐風に晒されて錆びたガードレールやアスファルトの上にうっすら積もった砂が、すぐそこに海があることを知らせている。

 そこからは自転車を降りたまま、適当に押して海まで行った。

 きちんと舗装されていて、砂浜なんて全然ない方向へとわざわざ回る。絶好の日陰スポットがあるからだ。対岸の方までしっかり見渡せるし、水平線を見るより普通の光景を見る方が日常感があって好きな優也にとってはとてもいい場所だ。こうして見ると川みたいだな、と思いながら、自転車をとめて腰を下ろす。

 どっかのおまけでもらった白いエコバッグに放り込んでいた本を取り出して、そのまま適当に読み始めた。

 ペラリ。
 時々ページをめくりながら、時間を潰す。
 静かに風が吹く。黒い影に座っているからだろう。まあまあ涼しく感じる。とはいえエアコンでガンガンに冷やされた氷室みたいな家や学校やスーパーの空間と違って普通に気温は高いので、体温も上昇傾向にありそうだ。鏡を見たら俺の顔はりんごだろうな、と、「ほっぺがりんごみたいに真っ赤だぞー。大丈夫?」と家族みんなに言って回るのがマイブームになっているらしい姉の顔を思い浮かべながら思う。彼女の厄介なところは、せめてもの反撃として彼女自身の顔が赤いことを指摘しても、「あっ、ほんとだー。」とのほほんと笑うだけで終わるところだ。

 とりあえず、この場に姉はいない。
 そろそろ喉乾いてきたな。ペットボトルから水分補給をしてから、優也はまた一枚、ペラリと紙をめくった。

「————あれ、月見くんだよね?」

 んぐ。
 飲んだばっかりの水が喉に詰まりそうになった。
 慌てて飲み下して、顔を上げる。

 ……知らない顔がいた。

 いや。ちょっと待て。考えてみれば、どこかで見たような気がする。どこで? ……学校で? 多分、そう。学校で、見たことある。同じ学年の……えっと……名前はさすがに出てこない。

「あ、自己紹介しないとだね。佐々山硯です。」

 おそらくは、隣のクラスの女子生徒だ。記憶が曖昧でうろ覚えだけど、多分あってる。

「……ささやま、すずり…」
「そうそう、硯っていうのは、書道で使う道具ね。墨汁溜めて、最後洗うのがめんどいやつ。あれ、漢字そのままだから。」

 珍しいから覚えやすいっしょ、と彼女は言うが、大変申し訳ないことに、今の今まで何も覚えていなかった。

 白いシャツに黄色い短パン。まさに、これぞ夏! という格好の佐々山は、明るく茶色がかった髪をサラサラと風に揺らして涼しそうだった。いや、本人的には結んでいる方が何倍も涼しいんだろうが、見た目的には風に舞っている髪の方が涼しく見える……ような気がする。もしかして、夏に髪を垂らす女子はみんな周囲を涼しくする目的であの髪型なのか? などという、至極どうでもいいし絶対に間違っている推論を立ててみる。

 ……究極の時間の無駄だった。

 何が目的で近づいてきたのか、佐々山はキラキラと宝石みたいにエメラルドがかった瞳を煌めかせながらこちらに向かって笑いの表情をむけている。
 理由がわからない。怖い。
 などと思っていると。

「それ、」

 佐々山が、優也の持っていた本を指差した。

「なんていう本なの?」

 一瞬、答えるべきか黙っているべきか逡巡して。別に答えてはいけない理由なんてないのだという当然ことを思い出して。口を開く。

「銀河鉄道の夜。」
「うわ、無難! びっくりするくらい無難!」
「……無難で悪かったですね。」
「いや、悪いとは言ってない。」

 言ってないんかい。
 思わず心の中で突っ込む。
 佐々山が、びっくりするくらい自然な動作で、すとんと優也の隣に腰を下ろした。居座るつもりなんかい。また突っ込む。口には出さないけど。

「私、それ読んだことないんだよね。どう、面白い?」
「普通。」
「じゃあなんで読んでるの?」
「暇つぶし。」

 つまんないー、と佐々山が言う。つまんない答えを返してるんだから当たり前だ、と優也は思う。

「……でも、それってさ。悲しい話なんでしょ?」

 唐突に佐々山が言ったから、優也は顔を上げる。

「ほら……友達が川で溺れて死んじゃう、みたいな。そんな最後だって聞いたことあるんだけど。」
「まあ。概ねそういう話ですよ。」
「宮沢賢治の作品って、そういうの多い感じするなあって思うんだよね。月見くんは、どう思う?」
「悲しくも美しい人間のドラマ。そういうテーマは、手っ取り早く人間の心を掴みますからね。彼の作品にそういうのが多いってのはその通りだと思いますし、まあだからこそ大勢の人間にうけて現代まで残ったんでしょう。」
「へえ〜。じゃ、月見くんも、その大勢の人間のうちの一人ってわけだ〜。」
「………。」
「……えっ、図星?」
「いや違いますけど。これは親の本棚から適当に取ってきただけで、暇潰し以外の何でもないですよ。」

 パタリ。その言葉を証明するように本を閉じる。
 ふーん、と。つまらなそうに佐々山は口を閉じた。

 彼女は、ふと、優也の自転車を指差す。
 そういえばなんだけどさ、と言って、優也の方を振り返った。

「月見くんの自転車って、ブルーじゃないんだね。」
「……え。」

 なぜそれを、と言おうとして、優也は踏みとどまった。……別にありえない話ではない。ただ、不意打ちだったからちょっとびっくりしただけ。誓ってそれだけだ。
 佐々山は「月見くんと言ったら青! って感じだと思ったんだけど……意外とそうじゃないのかな?」などと呟いている。しばらく見ていると、彼女は勝手に「あっ、そっか。」と納得してくれた。

「競技用のバイクと普段使いのバイクを使い分けてるってことだ! 勝負色がブルーで、いつもはもっとゆるくホワイトな気分で自転車に乗るわけだ!」
「……よくできました名探偵様。」

 イエイ、と佐々山は喜ぶ。

 そう。
 月見優也はロードレーサーだ。
 自転車でやるマラソン、といった感じの競技で、道路を猛スピードで駆け抜けていく。瞬発力も持久力も、両方求められるかなりキツいスポーツだ。……まあ、本気でやってキツくならないスポーツなんて、ほとんどこの世に存在しない気もするが。

 うふふ、と笑いながら。佐々山は言った。

「私、月見くんのファンなんだぁ。」
「……え。」
「それにしても……」

 ぐい、と。
 こちらを見上げる。思わずちょっと顔を後ろへ下げる優也に、彼女は小さく眉を上げて言った。

「間近で見ると、きみ、ふっつうーだね。」
「……普通で悪かったですよ。」
「いや、悪いとは言ってない。」

 どこかで聞いたようなやり取りだな、と思いながら、優也は本を開き直す。

「ごめんって。不貞腐れないで。」
「不貞腐れてないです。」

 自分でも当然わかっている。優也の見た目は本当に『どこにでもいる学生』でしかない。別にそれがいいとか悪いとか思うつもりもないし、気にしてもいない。ただ、ロードレースで走行中の優也しか知らない人にとっては、確かに多少はショッキングなことなのかもしれない。
 キラキラ光を反射するヘルメットとメタリックなサングラス。ぴっちりした鮮やかな色のユニフォームをバッチリ着込み、物々しい形状をしたレース用のバイクにまたがる。
 まるでサイケデリックなスポットライトを浴びて疾駆する、風の神様みたいな存在。
 それがレース中の優也だから。

 それに比べると、普段の優也は……水色のTシャツに、グレーのズボン。特徴の全くない、その代わりに嫌味も全くない、ごく普通の格好をしている。顔に関しても同じことが言える。姉は「イケメンは平均だって説があってね。世界中の人の平均値の顔をつくるとけっこういい感じになるらしいんだけどさ……あんたを見てると、その説にすごく納得するわ……。」という、褒めたいのか貶したいのかよくわからないことを言ってくれたことがある。

 つまり、つまらないのだ。

 そして、つまらないことは悪いことばかりではない。
 つまらない格好をしてつまらないことを言う優也は、だからこそどこでも普通にやっていける。出る杭は打たれると言うし、あんまり尖りすぎてもいいことなんてない。ロードレースという特殊な環境下でのみ輝いて、みんなで交わる日常ではつまらない人間になる。このバランスをいい感じにミックスすると、いい感じに生きやすい人生が出来上がる。

「この前の試合、見に行ったんだよ。ダントツ一番だったね!」
「……まあ、あれは小規模も小規模なお遊び大会ですけど。」
「それでもすごいよ。」

 感動した、と、佐々山は笑う。
 ここで、ありがとう、とお礼を言うのはなんか違う気がして。
 優也はただ、口をつぐんだ。

 それを見て、佐々山が不満そうな顔をする。

「褒められてるのに、嬉しそうじゃないね。」
「………。」
「なんで、凄い人って、みんなそうなんだろう。勝手に自分の功績を卑下した発言して、全然喜ばなくて。もっと素直に笑ってたらいいのになーって、私は思うんだよね。」

 それを聞いた時。
 別に、と。
 思わず口からこぼれ出ていた。

「……別に、ロードレースなんて好きじゃないし。」

 いっそのこと突き放すような淡々とした口調で、言う。

「なんとなく、適当にやってる習い事って感じだし。将来働く時にはこんなスポーツのことなんか全部忘れてるだろうし、勝ち負けとか目先のことにこだわっても何の意味もないだろうって感じだし、今は暇だから空いた時間を潰すためにやってるだけの趣味だし、」

 だから、と言う。

「そんな風に褒められたところで、何の感慨も湧かないですね。」

「………。」

 佐々山は、じっとこちらを見つめていた。
 宝石みたいにエメラルドがかった瞳が、ただ、じっと見ている。

「————月見くんは、どうしてロードレースを始めたの?」


 う、と。
 自分の喉が詰まった音が聞こえた気がした。

 記憶がフラッシュバックする。


 あの日の夜、漕いでいた。
 小学校四年生の夏だった。坂道を、自転車で登っていた。
 立ち漕ぎして、うっすら息を上がらせながら、上を目指していた。汗でTシャツが張り付いていた。

 ブーン、という、音がした。

 背後から迫ってくる。
 ブーン。ブーン。ブーン。
 どんどんどんどん、音は大きくなる。

 焦って、必死に漕いだ。
 しかし。

 次の瞬間————のほほんとしたとぼけ顔のおじいさんが、隣を通り過ぎるのを見ることになる。電動自転車で、楽々とこちらを追い越して行った。

 ブーン。電動の音が遠ざかる。

 呆然として。
 そして、小学校四年生の優也は。血が出るほどに強く強く唇を噛み締めた。

 遠ざかっていくおじいさんの背中が見える。

————のほほんとした奴に負けてたまるか。



 それが、全てだった。

 優也がロードレースを始めた理由。それはとんでもなくしょうもなく。ガキっぽく。くだらない。そんな、とても他人には言えないようなきっかけだったのだ。





「……別に。親に言われたから始めただけですが。」
「ふうん。」

 つまんないの。
 佐々山は言った。つまんなくて悪かったですよ、と優也は言って。

 それで、海でのひとときは終わりだった。