山麓の村付近に見るも無惨に放られていた"人間"は、似合わない血の池地獄に身体を埋めていた。背中は胴を袈裟切りされたであろう悲痛な紅い線。蝿が集り、犬が側に寄って来ている。

 風の如く近づくと同時に犬を思い切り突飛ばした。加減なんて出来るわけがない。既に息をしていないだろう。そんな犬を文字通り放って人間を抱き上げた。触れた瞬間に現実が、感情と共に一気に脳に押し寄せてきた。

 咆哮、慟哭。その声は大江山を飛び越えて遠くの村にまで響き、大地を揺るがす叫びはさらに数刻程続いた。

 優しく腕に包まれた人間は奇しくも鬼と同じ苦悶の表情をしている。どれだけ辛かっただろう。苦しかっただろう。今の私と同じように、誰にも届かない叫びを上げていたのか。

 人間か。同じ人間がお前を切りつけたのか。妖怪に育てられたからか。それともお前が人間ではなく妖怪として生きることを選んでしまったからか。

 鬼は強すぎた。強すぎたが故に生まれてからの100余年、何かを失うことなんて味わったことはない。考えもしなかった。そもそも、群れるようになったことすら最近のことであったのだから。
 
 だから知らなかったのだ。喉よりも更に奥、胸から込み上げてくるこの感情が一体なんなのか。とにかく頭を介さずに言葉を羅列することしかできなかった。

 この嘘つきの裏切り者め。
 約束一つ守ることも出来ない軟弱者め。
 悔しかったら言い返してこい。

 糾弾の声も遂には虚しく響くだけ。叫び果て、疲れ果て、力なく"それ"を置いて立ち尽くす鬼の姿は、血にも涙にもまみれた変わり果てた姿であった。

 この年、大江山の『乾鬼姫』は二つの意味で死んだのであった。