「好き……」

僕の鼓動がドキッと高鳴った。

それは夏休み。
お盆間近の真夏の太陽の日差しが容赦なく照りつける午後のこと。

僕ー藤本 和樹は水色のTシャツに黒色のチノパン、スニーカーを履き、演劇の練習をするために自転車を漕いで家から少し離れた場所にある河川敷へと向かった。

その河川敷は流れの緩やかな川を跨ぐように大きな橋が1つかかっていて、その橋の上を列車が走っていた。
橋の下の土手部分は階段状に長方形のコンクリートブロックが丁寧に敷かれている。

僕は河川敷の橋の(たもと)近くに自転車を停め、そこから2段下の階段へと下りて腰を下ろした。
橋のお陰で照りつける太陽の日差しを避けることができ、
時折、僕の髪の毛や服の裾を撫でるように心地よい風が通り抜けてゆく……。
僕は肩掛け鞄の中からペットボトルを取り出して自分の側へと置き、次に青色の表紙の台本を取り出して、ハンカチで汗を拭いながらそこに書かれたセリフを声に出し、ページを捲っていった。

しばらくすると、そこへやや茶色がかったミディアムヘアの髪の毛を揺らしながら、九分袖の白シャツに鮮やかな黄色いスカートを履いた同じ高校に通う1つ年上で片思い中の演劇部副部長である松井 莉子先輩がやってきて僕の隣に腰を下ろすなり、『好き』と告げたかと思えば……

「好きだよ」

と、さらに言葉を紡いだ。

ドキッ!!

僕の鼓動は先程よりもさらに大きく飛び跳ね、頬が熱を帯びていくのが分かった。

「えっ、あっ……ちょ、なっ……なにいっ……」

突然のことに戸惑い、素っ頓狂な声を発しながらも必死に言葉を紡ごうとする僕の声は莉子先輩の声にいとも簡単にかき消されてしまった……。

「ちがーう!」
「へっ……?」
「『好きだよ』って言われたら『俺も好きです』でしょ! ほらっ、言って!!」
「え、あっ……」
「ほらっ、早く!!」

確かに僕は莉子先輩に想いを寄せているけれど……そんな急かされて、しかも半ば強制的に言わされるのはどうなんだろう……
なんて、思っていたら莉子先輩の鋭い叱咤の声が飛んだ。

「もーしっかりしなさいよ! せっかく掴んだヒロインの相手役棒に振る気?」
「えっ……」
「今、私が言ったのはセリフよ、セリフ!! その台本の終わりの場面に主人公とヒロインがそういうやり取りするシーンがあるでしょ?」
「……っ!!」

そこでようやく僕は気がついた……。
莉子先輩が突然、紡いだ『好きだよ』《ことば》は僕を想っての告白ではなくて、僕が手にしている台本に書かれているセリフを言ったまでと、いうことに……。

カーッ!!

その瞬間……僕は自分の勘違いに気がつき、恥ずかしさが一気に全身の血液を沸騰させ、ものすごい勢いで駆け巡った。
全身が熱く、顔を茹でダコのように真っ赤に染めた僕を見て莉子先輩が言った。

「……もしかして……告白されたって、思っちゃった……?」
「ーーっ!!」

僕は言葉を失った。
図星だったから……。

僕の様子を見て、莉子先輩が申し訳無さそうに言った……。

「……勘違い……させちゃった……?」
「あ、いや……せ、んぱいは悪くないです! 僕が勝手に勘違いしただけですからっ!」
「……ほんと?」
「ほんとです。だから、気にしないで下さい」
「そう」

ホッとしたような表情を浮かべて、莉子先輩がニコッと微笑んだ。

とくんっ……。

莉子先輩の微笑みが僕の胸を高鳴らせると共に冷たくしめつける……。

……そう、だよ。
そんなことあるわけない……。
分かってる。

だって、莉子先輩は誰に対しても親切で気立てが良く、勉強も運動も人並み以上にできて、その上演劇にも詳しい。
莉子先輩は役者だけでなく、音響や照明、舞台装置係等演劇に関することだったら何でも一通りこなせる人で時に台本も書いて新入生歓迎会や文化祭で上演したりもする。
その評判もなかなかで、莉子先輩の書いた台本で劇を上演してほしいという声も耳にするくらいだ。
とても素敵で魅力的な莉子先輩(じょせい)を男子生徒がほっとくわけもなく……莉子先輩に好意を抱き、ちらほらと告白をする男子生徒もいるようだった。

かくゆう僕も莉子先輩に想いを寄せる男子生徒の1人だ。


僕が莉子先輩を好きになったのは中学3年の時のこと。

まだ日中は少し蒸し暑さを感じる10月の下旬ーー。

ホームルームが終わり、放課後の教室はざわめいていた。
鞄を持ち下校する者、この後どうするか話をする者、まだ教室の席に座ってノートにシャーペンを走らせて何かを書き記している者等、各々が思うように過ごし始めていた。

僕も帰宅するために鞄を手にした瞬間……

「藤本!」

仲の良いクラスメイトの田中(たなか) 圭吾(けいご)に声をかけられた。

「ん?」

なんだろう……?
僕は眉を寄せ、田中を見た。

「なぁー今週末、兄貴が通ってる高校の文化祭に行くんだけど、一緒に行かないか?」
「えっ……文化祭……?」
「そっ! 俺の兄貴、バンド組んでて高校最後の文化祭、ステージで演奏するから見に来いってうるさくって……。行ってやってもいいんだけどさ、1人じゃつまんないからさ、頼むよ藤本っ!」

パンッ!!

拝むように顔の前で両手を合わせ、田中が僕に懇願してきた。

「え、あっ……」

どうしよう……。

「急だし……もしかして、予定……あるのか?」
「あ、いや……」

予定はない。
だから、一緒に行くことはできる。
けれど……僕はインドア派なので、休日はできることなら外出せずに家でのんびりと過ごしたい。
そう正直に言っていいものか……。
もし、そう言ってしまったら……田中を嫌な気持ちにさせてしまわないか……。

僕はいろんなことを考え、返答に困ってしまった……。

「ないなら、頼む! 一緒に行ってくれ!!」

そんな僕に対して田中はさらに深く頭を下げた。
ここまでされてしまっては到底、僕の性格上断ることはできず、「分かった」と、了承するしかなかった……。


迎えた週末ーー。

学校近くの駅で田中と待ち合わせをして、田中の兄が通っている高校へと向かった。

初めて行く高校の文化祭……。
僕はどんな雰囲気なのかさえも想像がつかず、不安と緊張で前日はなかなか眠れなかった……。
やや寝不足のまま、田中と並んで華やかに彩られた校門をくぐり抜けるとそこは中学校の文化祭とは全く違っていた。

ズラッーと、立ち並んだたこ焼きや綿菓子、クレープ、お茶にジュース等の食べ物と飲み物の屋台。
教室では展示物やお化け屋敷、ちょっとしたアクセサリーを手作りできる催しが行われいた。
学校全体がとても華やかで賑やかな場所と化していて、僕にとっては何もかもが新鮮だった。

「はい、どーぞ!」

田中と校舎を回っている際に渡された1枚のチラシ。
僕は何気なくそのチラシを見つめた。

それは演劇の上演時間と上演内容が書かれたチラシだった。

演劇部……。

これまで一度も演劇を観たことがなければ、興味すらなかったのに何故かその時渡された演劇のチラシが気になって仕方がなかった。

「田中」
「どーした」
「……劇が観たいんだけど……」
「劇?」

田中はやや不満そうな声で言った……。

あっ、これはダメかも……。
でも、もしかしたら……と、いうこともあり得るし……。

僕は半ば諦めつつも微かな希望にかけてみることにした。

「そう、劇。観に行ってもいいかな……?」
「うーん……」

田中は正門をくぐり抜けた際に渡されたステージのプログラムが書かれた紙を見ながら考えこんだ。

「兄貴のバンドの出番までまだ、結構時間あるし、観に行こうぜ」

ニッと、田中は笑い、「ありがとう」と、僕はお礼を伝えて演劇が上演される体育館へと向かったーー……。


秋の気配が少しずつ近づいているとはいえ、10月下旬の体育館内はやっぱり昼間は暑くて冷房機器を使用して体育館内を冷やしても空気はむっとしてて蒸し暑く、じんわりと汗が滲んだ。
そんな中、上演を知らせる合図(ブザー)が体育館内に響き渡ると同時に舞台の幕がゆっくりと上がっていき、舞台上をライトが照らした。

パッと、舞台中央でスポットライトを浴びる人物ー女子生徒(かのじょ)の第一声に僕は衝撃を受けると共にひたむきに夢を追う少女の物語へと(いざな)われた。

そして、惹かれた……。

舞台上で発せられる女子生徒(かのじょ)の透明感のあるソプラノの声。
舞台全体を使い、描かれる物語の世界。
演劇部員達(やくしゃたち)が演じる登場人物達のやり取り。
舞台から少し距離を置いてズラッと一定の間隔で綺麗に並べられた観客席のパイプ椅子に座った僕の場所から舞台上の演劇部員達(やくしゃたち)までは距離があるにも関わらず、劇中内で演劇部員達(やくしゃたち)が演じている登場人物達の1人1人の感情がストレートに伝わってきた。
特に主役の女子生徒(かのじょ)の演技力は抜群で、演劇のことを何1つ知らない僕が見ても群を抜いていた。
群を抜いているとはいえ、それが悪目立ちしているわけではなくて、他の演劇部員達(やくしゃたち)の演技とのバランスは絶妙かつ調和が取れていて、僕は夢中になって目の前で繰り広げられる演劇を夢中になって観ていたーー……。


トントン……。

ーーっ!!

不意に肩を叩かれて、僕はハッとした。

「終わったぞ」

劇が終わってからもしばらくの間、僕は余韻に浸っていて隣に座っていた友人に肩を叩かれるまで、上演終了と共に次々と客達が体育館を後にしていることさえ気づかずにいた。

それほどまでに僕はその劇に……女子生徒(かのじょ)に魅了されたんだーー……。


「志望校を変える!?」
「ちょっと、待ちなさい!」
「どういうつもりなんだ、藤本!」

初めて演劇を間近で観た僕はすっかり演劇の魅力に惹かれ(正確には主役の女子生徒(かのじょ)だが)、高校入試を4ヶ月後ににも関わらず、僕は両親や先生に言われるがままに何となく決めた志望校をあっさりと変えた。

「ホント、何考えてるの!」
「今さら志望校変えるヤツがどこにいる!!」
「藤本……よーく考えろ。この先……将来のことも視野に入れて考えるとだな……」

志望校を変えたことを知った両親や先生からは猛反対され、何度も話し合いの場を持たれてしまった……。

こんなにも猛反対されたのは受験日が迫っていることと何より僕が通いたいと言い出した高校は僕の成績ではギリギリ合格出来るか……と、いう感じらしく、親としても先生としても高校受験失敗だけは回避したかった、いや……僕の将来のことを考えれば回避しなければならない……と、思ってのことだと思う。

両親や先生と話し合いをすればするほど僕の気持ちは揺るぎないものとなって、頑として両親や先生が進めた志望校への受験はしないときっぱりと言い張った。
絶対に女子生徒(かのじょ)がいる高校に受かり、演劇部に入部して、一緒に演劇をする!! と、いう強い想いを胸に僕は必死に受験勉強に打ち込んだ。

その甲斐あって努力は実り……無事、女子生徒(かのじょ)がいる高校に合格することができた。


桜舞う4月ーー。
入学式を終えて、僕ははれて高校生となり、迷うことなく演劇部へと向かった。

「あっ、キミ!」

演劇部の部室に入ると僕が挨拶をするよりも早く、女子生徒(かのじょ)が声を発した。

「去年の文化祭の時見に来てたよね?」

足早に僕のところにやってきて、女子生徒(かのじょ)がパッチリとした大きな瞳で僕を見つめた。

「えっ」
「劇が終わってからもじーっと熱心に舞台の方……見てなかった?」

さらにずいっと僕の方へと顔を近づけて、距離をつめた。

ち、近っ……。

「あ、えっ……と……」

女子生徒(かのじょ)との距離の近さにびっくりすると共に舞台を観て惹かれた相手が目の前にいる喜びと緊張で僕はたじろぐ……。

「……違う、かな……?」

戸惑いなかなか答えない僕に女子生徒(かのじょ)は眉を寄せ、ボソリと呟いた……。
その声は先程の弾むようなソプラノの声とはうって変わって自信なさげな声だった……。

あ、ヤバい……。

「あ、いえっ……あ、ってます!」

僕は慌てて言葉を口にするも動揺してしまって上手く喋れなかった……。

「ホント!?」

コクッ。

すぐさま頷く。

「良かった〜」

ドキッ!!

安堵する女子生徒(かのじょ)の微笑みがとても可愛らしくて僕の胸は大きく高鳴った。

客席が薄暗い中、どうやって顔の判断をしたのだろう……。
上演前、まだ客席が明るいうちに客席を眺めていたのかな……?

当然のことだけど上演中は舞台のみが明るくて観客席は薄暗く、また僕が座った席は舞台よりも離れた後ろの方だったので人がいることは分かっても顔までは分からなかったはずだし、観客も多かったから、どんな観客がいたかなんて把握しようにもできるわけがない……。
僕がいたことさえ分かってはいないと、思っていたから、女子生徒(かのじょ)の発言や女子生徒(かのじょ)の方から僕に話しかけてきてくれたことがとても嬉しかった。

「私……偶然、舞台袖から見えたの。私、2年の松井(まつい) 莉子(りこ)。莉子って読んでね。よろしく!」

ニコッと莉子先輩は柔らかな笑顔を浮かべて、すーっと僕の前に白くて細い手を差し出した。

「よ、よろしくお願いします」

僕は緊張した面持ちで女子生徒(かのじょ)を見つめ、握手を交わした。

こうして僕は女子生徒(かのじょ)ー莉子先輩との再会を果たしたのだったーー……。


それからーー。

演劇部に入部した、までは良かったのだけれど……演劇初心者とはいえこんなにも下手くそで目も当てられないほどのひどいありさまやつは滅多といないはずだ……。
僕はなかなか腹式呼吸が上手くできず、台本の読み合わせをすれば、セリフは棒読み。
周りの部員達は僕がセリフを口にする度に肩を震わせて笑いを堪えるのに必死な様子だった。

莉子先輩に逢いたい……。
一緒に演劇をしたい……。

そう思って入部した演劇部だったが、これほどまでにひどいありさまの僕をきっと莉子先輩もあきれているんだろうな……と、さえ思えてきて、僕は周りにいる部員どころか莉子先輩の顔もまともに見れなくなって、部活に行くことさえ嫌になりつつあった……。


そんなある日ーー。

「ちょっと、来て」

梅雨の中休み。
久しぶりに顔を覗かせた太陽の日差しを眩しく感じながら受けた午後の授業がやっと終わりを告げた放課後。

僕は憂鬱な気分を抱えながらも演劇部の部室に向かって、鉛のように重たく感じる足に何とか力を入れて、のっそりと歩いていた。
その時……莉子先輩に声をかけられた。

「えっ、あっ……」

突然のことに戸惑う僕の様子を気にすることなく、莉子先輩はさっと、僕の手を取ると玄関の方へと歩き始めた。

「え、ちょっ先輩!?」

理由も分からずにただ莉子先輩の後ろをついていくしかない僕が戸惑いの声を上げるも……やっぱり莉子先輩は気に留めることもなくて、グイグイ僕の手を引っ張って、前へ前へとずんずん歩き続けたーー……。


「ーーっ……」

ようやく……莉子先輩がピタッと足を止めたのは河川敷の橋の下だった。

……なんで、こんなところへ?
ますますわけが分からない……。

眉を寄せて莉子先輩を見つめると……

「始めよっか」

そう言って、莉子先輩は階段状になっているブロックの1つに鞄を置くとブレザーを脱いだ。

えっ……。

「な、なに……やってるんですかっ……!」
「なにって、邪魔だから。ほら、藤本くんも!」

莉子先輩はさらりと言い、僕の肩から鞄を取ると同時にブレザーに手をかけた。

「せ、んぱい!?」

僕は慌てて、先輩から距離を取った。

「何、慌ててんの?」

平然と莉子先輩が言った。

ーー何慌ててんの?ーー

って、慌てるに決まってるっ!
誰だって何の説明もなく、いきなりブレザーを脱がされそうになったら……。
先輩は一体何がしたいんだろう……?

状況を理解しようと必死に思考を巡らすが、パニック状態の頭では冷静に物事を考えられなくなっていて、思考が上手く働かない……。
焦り戸惑う僕に莉子先輩は声を張り上げて言った。

「まずは発声練習!」
「えっ……」

思わずきょとんとしてしまった……。
莉子先輩を見つめるも……戸惑う僕のことは気にならないのか、はたまた気がついていないのか……分からないが、マイペースに言葉を口にしてゆく。

「ほらほら、時間もったいないよ! 発声練習するよ」
「ちょっ、あの……なんで? そもそもどうしてこんな場所で……?」
「人目気にしなくていいでしょ?」
「えっ……」
「藤本くん、すごーく人目気にしてるよね」
「ーーっ!!」
「周りの反応から自分がとてもヘタだって、気がついてるよね?」

うっ……。

それは事実だけど……あまりにもストレートな莉子先輩の物言いにショックを受けるも「気がついていたんだ……」とも思った。

「それが原因で藤本くんが練習が出来なくなってるのが気になって……。これは私の思いなんだけど……たくさんある部活の中から演劇部を選んで入部してくれたこと……すごく嬉しかったの。しかも去年の文化祭の劇を観て……って、言ってたよね?」

あっ……。
そうだ。
確かに言った……。

演劇部に入部届けを出しに行った時に莉子先輩が僕のことを覚えていてくれたことがすごく嬉しくて……入部理由を聞かれたわけでもないのに……僕は言葉を紡いでいたんだ。

そんな些細なやり取りも覚えていてくれてたなんて……。
嬉しい。
嬉しすぎる……。

とくん……。

僕の鼓動が高鳴った。

「楽しいだけじゃない。現に今、ツラい思いをしてるんだもの……けれど、私は藤本くんに演劇の楽しさをいーっぱい知ってほしいし、一緒に舞台を作っていきたいと思ってる」
「……莉子先輩……」
「だから、おせっかいって思われるかもしれないけど、ほっておけなくてここに連れてきたの。さっきも言ったけどここは通学路から外れているし、滅多と人も来ない。多少大声を張り上げたとしても列車が上を行き来するからかき消されることもあるから、あまり迷惑もかからないと思うの。それと、ね……恥ずかしいんだけど、私も演劇部に入部した時ものすごーくヘタだったの」
「えっ、いやいや、そんなこと……」

そんなこと言われても想像が出来ない……。
今まで演劇を観たことがなかった僕が莉子先輩の一声で魅了され、演劇に興味を持つきっかけになったんだ。
そんなことあるわけ……。

「ホント、ホント。ヘタさでいえば藤本くんといい勝負じゃないかな〜。私が演劇を始めたきっかけも藤本くんと同じなの」

苦笑いを浮かべながら莉子先輩がぽつりぽつりと自分の過去のことを話し始めた。

「私が小学6年生の時、夏休みにママが子ども向けミュージカルに連れて行ってくれて、そこで1人の役者さん…ヨウさんに惹かれたの。あっ、ヨウさんって知ってる?」
「あっ、はい。今、もっとも注目されてる役者さんですよね?」

莉子先輩が主役を演じた劇を観てからというもの僕はあらゆる劇団の演劇も観るようになっていた。
それぞれの劇団は全く異なった特色を持っていて、どの劇団にも魅力的な役者さんが溢れていた。
その中で逸脱していた人物が莉子先輩が憧れを抱き、演劇のきっかけになったヨウさんだ。

「そう! 感情表現豊かで女性だけど、どんな役でも巧みにこなしちゃう!! ずーっと舞台一本で活躍してきた人なんだけど、最近はドラマやバラエティー、モデル……さらに活躍の場を広げてる。凄いよね。今もずっと憧れてる役者さんなんだ」

ホント、すごーく好きなんだな〜。

ほんのりと頬を赤く染めて莉子先輩が瞳を輝かせながら、声を弾ませてヨウさんのことを話す莉子先輩を見ているとヨウさんという1人の役者さんのことがとても好きで、憧れていることがよく分かった。

「その時のヨウさんが演じた役は華やかな役ではなかった。むしろ、その人が演じていた役は嫌われ者の役だったんだ……。けれど、ただ単に嫌われ者の役じゃなくて、そこにはきちんとした理由があって、あえて嫌われ者の役を買って出てるっていう役どころだった。その登場人物の繊細な心の動きがまるで本当にそこに存在しているかのようにリアルに伝わってきて物語に惹き込まれていた……。それからその人が出てる演劇が他にもないか調べて劇場に足を運ぶようにもなったし、演劇にも少しずつだけど興味を持ち始めた。偶然、進学した中学校に演劇部があって、迷うことなく入部したの」

当時のことを思い出しているのだろう……。
莉子先輩は目を細めて、遠くを見つめながら懐かしそうに話を続けた。

「最初はね、演劇を出来ることが嬉しくてしかたがなかったの。憧れてるヨウさんに近づいたような気がして。でもね……練習していくにつれて段々と自分のヘタさに気づいて、向いてないかも……って、思うようになっていた。そんな時に偶然、ヨウさんのインタビュー記事を目にしたの。そこには『演技はまだまだだけど、好きだからこそ頑張れる。一歩、一歩進んでいきます』って、凛とした表情でまっすぐに前を向いたヨウさんの姿が映ってた。
ヨウさんの言葉に励まされて、私は憧れてるヨウさんに少しでも近づくために今よりももっとたくさん練習しなきゃ追いつけないって思ったの。だけど、人前で練習するのは恥ずかしいし、ヘタさを笑われるのもイヤ……。人目を気にせずに1人で思いっきり練習できる場所はないかと探していた時に見つけたのがこの河川敷だった。以来、ずーっとここで練習してるんだ。ここは私の練習場所でお気に入りの場所でもあるんだ」

そうだったんだ……。
初めて知る先輩の過去。
才能に溢れてるわけじゃなかったんだ。
誰よりもたくさん練習していく中で自分と向き合いながら少しずつ演技の技術を磨いていて、人を魅了する役者へとなっていったんだ。
すごいな。
演劇が好きということもあったのだろうけど、何より憧れているヨウさんに少しでも近づくために諦めずにコツコツと努力を惜しまなかった結果なんだと、僕は思った。

「さーてと、そろそろ練習しよっか。 まずは発声練習からね!!」
「はい!」

僕はハキハキと返事をして、ブレザーを脱ぎ、シャツを腕まくりすると莉子先輩の隣に立って一緒に発声練習を始めたーー……。


「もっと、腹式呼吸を意識して発声してみて」
「恥ずかしがらないでセリフ言ってみよ」
「ここの感情もう少し出せる?」
「もっと、こうした方がよくない?」

その日をきっかけに河川敷で僕は莉子先輩と一緒に演劇の練習するようになった。
まだ人目が気になり、嫌だな〜と思う気持ちが完全になくなったわけではなかったけど莉子先輩の言葉を胸に頑張ろうと決めた僕は部活にもきちんと顔を出していた。
部活がある平日は部活が終わってから、休日はお互いに都合が合えば、莉子先輩と都合が合わない時は1人でも練習をした。

気がつけば、あっという間に1年が過ぎ去り……桜舞う4月ーー。

1つずつ学年があがり、僕は高校2年生、莉子先輩は高校3年生の受験生となった。

学年があがっても河川敷での2人だけの練習は続いていて、莉子先輩は受験生であるにも関わらず、以前と変わることなく河川敷へと足を運んでくれて、練習に付き合ってくれていた。
そのことが申し訳なくて僕は発声練習と台本読みを一通り終えて、台本や飲み物を鞄におさめて帰り支度をしている莉子先輩に僕は声をかけた。

「莉子先輩……」
「なーに?」

片付けている手をピタリと止めて、莉子先輩が僕を見つめた。
僕はごくっと、生唾を飲み込んで口を開いた。

「大丈夫です」
「えっ?」
「もう、大丈夫です。僕、1人でも十分に練習できますから、莉子先輩は受験勉強に集中して下さいっ!」
「なーに、言ってるの! 私のことは気にしなくていいから」
「で、でもっ……!」
「気にしなくていいんだってば! 私が好きでやってることだもの。それに勉強だってちゃーんとやってるから心配しないで!」
「……っ……」
「ありがとうね、藤本くん」

ニコッと莉子先輩が優しく微笑んだ。

とくん……。

莉子先輩の笑顔を見る度に僕の心は高鳴ると共に切なさも感じていた……。

僕のことよりも受験勉強に集中してほしいという気持ちから莉子先輩に「大丈夫」と、言ったけれど本当は、莉子先輩と2人だけの練習ができなくなってしまうのは嫌だったから言いたくはなかった……。
莉子先輩の返答を聞いてホッと安心し、まだ一緒に練習ができるんだという嬉しさを感じている自分がとても身勝手だな……と、複雑な気持ちを抱いた……。

部活はもちろん河川敷での練習でも莉子先輩は僕に親切に分かりやすく発声練習の仕方やセリフの言い回し等演技や演劇に関することを丁寧に教え続けてくれた。

もっと上達したい!
少しでも早く演技が上手くなって莉子先輩に近づきたい……。

一緒に演劇をしたいという気持ちと莉子先輩を想う気持ちが日に日に強くなっていった。

莉子先輩のお陰で僕は少しずつだけど腹式呼吸を使っての発声ができるようになり、台本読みも棒読みではなくて感情を込められるようになっていったーー……。

そして……。

しとしとと雨が降り続く6月。
梅雨の鬱陶しさと少し物悲しく聞こえる雨音を耳にしながら、演劇部の顧問が出来立ての台本を手に部員達を目の前に言った。

「今度の文化祭で上演する劇の配役だが……」

ドキドキ……。

僕の実力じゃまだまだ大きな役はもらえないと思っているけど……新しい台本をもらい、配役を言い渡される瞬間はいつもドキドキする。

僕はいつ呼ばれるだろう……。
どんな役かな……?
叶うことなら台本内に出てくる登場人物の役がほしい。
そうすれば、莉子先輩と同じ舞台に立てる……。
この文化祭が莉子先輩と共にお芝居ができる最後の舞台だから……どんなに小さな役でもほしいし、いつも以上に願ってしまう自分がいた。

1人、また1人と名前が呼ばれてゆく……。
1つ、また1つと役がうまってゆく度にまだか、まだか……と、自分の名前を呼ばれるのを待つ……。

とうとう……あと、2役。
ヒロインとその相手役だ。

望みが薄い中、僕は必死に願った。

お願いします。
僕の名前を……。
僕の名前を読んで下さいっ……!!

「ヒロインの相手役は……」

一呼吸間を置き、顧問の先生がゆっくりと口を開いた。

「2年、藤本 和樹」
「……っ……」

己の耳を疑った……。

えっ、まさか……本当に……?

思いもよらぬ状況に僕は返事をすることさえ忘れていて、顧問の先生がキョロキョロと周りを見渡しながら、僕の名前を呼んだ。

「藤本! 藤本はいないのか!?」
「え、あっ……はい!」

僕は慌てて返事をすると顧問の先生は頷き、最後にヒロインの役の生徒の名前を口にした。

「3年、松井 莉子」
「はいっ」

えっ……。

僕は再び、己の耳を疑った……。

ーー3年、松井 莉子ーー

顧問の先生の言葉が頭の中で繰り返された……。

そんなことって……。
莉子先輩と同じ舞台に立ちたいと願ってはいたけれど……まさか、『ヒロインの相手役』に大抜擢されるなんて……しかも『ヒロイン』は莉子先輩。

こんなことがあっていいのだろうか……。
一生分の運を使い果たしてしまったような気がしたし、夢じゃないかと疑い、周りにいる部員にバレないように手の甲をつねった。

痛い。

手の甲を鋭い痛みが走り、僕は眉を寄せた。

本当に、本当……。
現実、なんだ。

いまだに信じられないでいる僕の肩をポンと軽く莉子先輩が叩いて顔を覗きこみ、声を弾ませて言った。

「やったね、おめでとう!」
「……莉子……先輩……」
「一緒に頑張ろうね! いい舞台にしよう!!」

莉子先輩が満面の笑みを浮かべて僕に微笑んだーー……。


こうして、文化祭の演劇の配役は決まったけれど……僕に対して少なからず納得がいかず、面白くないと感じる部員はいて……

「なんであいつが」
「ありえない……」
「あーぁ、今回の舞台は失敗だ」
「自分の実力のなさに気づいて、役降りろ!!」

影で悪口を言われたり、あからさまな意地悪もされた……。
そういう人達がいても当然だと思う。

演劇部の中で僕はきっと表現力も演技力もまだまだで、台本内に出てくる登場人物を演じるよりも音響や照明、大道具・小道具係に回った方が演劇部の評判も落とすことはないだろう……。

それは僕が一番よく分かってる……。
なんで……。
どうして、僕なんかが……。

周りの心ない言葉達が僕の心に鋭く突き刺さって、負の感情に支配されそうになった瞬間……これまで演劇部や河川敷の橋の下で莉子先輩と練習してきたことが一気に頭の中を駆け巡った……。

……忘れてた。
僕はどうしてここに来た……?

莉子先輩に逢いたい……。
一緒に演劇がしたい……。

そう思って、両親や先生が進めてきた学校を受験せず、必死に勉強してこの高校に入学したんじゃないか!

ずっと抱いていた思いがようやく叶おうとしているのに……それを手放すのか?
それでいいのか……?

この舞台がきっと僕と莉子先輩が一緒に立てる最初で最後の舞台。
最高の舞台にしたい……。
いや、絶対に最高の舞台にするんだ!!
誰よりもそう強く願い、最高の舞台を実現するために僕ができることはなんだ?

それからの僕は『ヒロインの相手役』という大きな役に戸惑いながらも今まで以上に懸命に練習に打ち込んだ。

どこに行くにも台本は鞄の中に入れ、いつでも見れるようにした。
発声練習をするために朝晩河川敷へと通った。
セリフの言い回しや演技等些細なことでも分からないとこや気になるとこは劇の演出をする顧問の先生に確認したり、莉子先輩に相談したりもした。

その中で少しずつ募ってゆく莉子先輩に対する『好き(おもい)』……。

こうして僕が『ヒロインの相手役』に抜擢され、憧れの莉子先輩と一緒の舞台に立つことができたのは莉子先輩のお陰だ。
発声もまともにできず、台本読みは棒読みのひどいありさまの僕に親切丁寧に演技や演劇に関することを教えてくれたから……感謝してもしきれないほど感謝してる。

そんな素敵で魅力的な莉子先輩だからこそ、こんな勉強もスポーツも容姿も至って普通で人よりも優れていること1つない自分なんて釣り合うわけがない。。
莉子先輩にはもっと相応しい相手がいる。
もしも僕が莉子先輩に気持ちを伝えることができたとしてもきっと困らせるし、迷惑になるだけだ……。

そう、自分に言い聞かせることで莉子先輩に対する気持ちをぐっと心の奥にしまい込み、莉子先輩に憧れ、演劇が好きになった1人の後輩として先輩の隣にいよう。
そう、それがいい。
そうすることで僕と莉子先輩の関係は壊れることはないのだから……。


「ーーそろそろ……終わろっか」

莉子先輩の声で僕は日が傾き始めていることを知った。
それだけ集中して練習に取り組んでいたのか……と、驚いてしまうほどだ。

「すごーくよくなってる」
「ホントですか」
「うん、いい感じだよ」
「ありがとうございます!」

お互いにペットボトルや台本を鞄の中にしまい、帰り支度をしていると……

「あっ……」

不意に莉子先輩が声を上げた。

「どうかしました?」
「……悪いけど私……明日からお盆が明けるまでおばあちゃんのとこに行くの。だから……こっちに戻ってくるまで練習一緒にできそうにないの。ごめんね」

莉子先輩が申し訳なさそうに言った……。

「何言ってるんですか、僕のことは気にしないで楽しんで来て下さいね」
「ありがとう」」
「……たしか、去年も……そんな話しましたよね?」
「そうね。おばあちゃんの誕生日が8月だから、誕生日のお祝いも兼ねて毎年、行ってるの。今年は受験生だから、無理しなくていいって両親には言われたんだけどね、ずーっと勉強するのって難しいじゃない? おばあちゃんの家に行っても適度に気分転換しつつ、受験勉強もするつもり。今年は1人で電車を乗り継ぎながらのんびりとおばあちゃんのとこに行くんだ」
「それは楽しそうですね」
「ねっ! 楽しそうでしょ? そう決めてからずーっとわくわくしてるんだ。両親はいつも通り車で、おばあちゃんの家で会うことになってるの」
「そうなんですね。明日は何時の電車に乗るんですか?」
「朝の10時頃、〇〇行きの電車に乗るの」
「道中気をつけて。あと、電車の旅も楽しんで下さいね」
「うん!」

声を弾ませて莉子先輩が満面の笑みを浮かべた。
僕もつられるように笑ったんだ。

この時、僕は次の日に思いもよらぬことが起こるなんて知る由もなかったーー……。


翌日ーー。

「えっ……」

昼過ぎに起きてきた僕は部屋着姿のまま、何気なくつけたリビングのテレビの画面に映し出されたニュースの映像に息を呑んだ……。
その映像は電車の車両がレールを外れて横向きに倒れ、その後ろに連結されていたであろう車両が次々と前の車両へと突っ込んでいた……。
先頭車両に向かって突っ込んだ車両の前方部分がグシャリと潰れて原型をとどめておらず、衝撃の強さを物語っていた……。

『今朝、10時頃起きた〇〇行きの……』

聞こえてきたニュースキャスターの言葉に僕はハッとする。

ーー朝の10時頃、〇〇行きの電車に乗るのーー

ソプラノの柔らかな莉子先輩の声が脳裏に蘇った。

……ま、さか……そんな……。
そんなことって……。

悪い予感が頭を(よぎ)っり、僕は居てもたっても居られなくなって、急いで着替えをすませると肩掛け鞄を手に家を飛び出していたーー……。


一刻も早く事故現場へ……!!
莉子先輩……無事でいて下さいっ!!

そう、強く願いながら、タクシーへと乗り込み、事故現場へと向かった。
その間、ずっと莉子先輩の携帯電話にメールや電話をかけたけど、一向に返信もないし、繋がらなかった……。

電車の脱線事故が起きたのは駅と駅の間で、しかも線路内。
線路内に入ることは許されないにしても事故現場付近に行けば何かしら莉子先輩に関する情報が得られると思ったけれど……僕が思っていた範囲よりも広めに規制線が張られ、交通規制も行われていた。

「もうこれ以上は進めないね〜。別の道ならもしかしたらだけど、目的地に行けるかもしれないけど、みーんな迂回してるからね。かなり時間かかると思うけど、どうする?」

タクシー運転手さんがハンドルを握り、前を見つめながら
言った。

「分かりました。降ります」

そう、言ってタクシーから降りるなり僕は少しでも莉子先輩に関する情報が得られないか……と、規制線貼られている付近を歩き回った。
もっとも事故現場に近いであろう場所には野次馬がわらわらと集まっていて、その人混みをかき分けながら規制線の側まで近づくと警察官が立っていた。

「あのっ!」

僕の声に警察官がジロッと睨んだ。

「し、知り合いを探してるんです! その人が無事かどうか知りたいんです。もし……」
「調査中だ」
「何か……」
「調査中だ」

警察官は相変わらず僕を鋭い瞳で睨みつけながら、冷ややかに一言……同じ言葉を繰り返すだけだった……。

そんな言い方しなくても……こっちは無事かどうか確かめたくて必死なんだよ!

警察官の冷たい対応に苛立ちながら、僕は必死に思考を巡らす。

どうしたらいい?
ここにいても情報は得られない……。
どうしたら情報を得ることができる……?

その時。

僕の耳に届いた救急車のサイレン。

……もしか、したら……。

あれだけの大きな車両事故なんだ、重軽傷を負ってる可能性だって十分にある。
乗っていた電車の車両の状況にもよるだろうけど救助活動が順調に進んでいれば、すでに事故現場付近の病院に搬送されて、治療を受けているかも……。
僕は事故現場近くの大きな病院を手当たり次第あたることにしたーー……。


……ここにも、いなかった……。

大きな病院を巡ったけれど、莉子先輩を見つけることはできなかった……。

車両8台が絡む大事故。
僕が思っている以上に軽重症者が多くて事故現場周辺の大きな病院じゃ、軽重症者を受け入れきれなかったのか……。

そう思った僕は事故現場周辺にある小さな個人病院も手当たり次第にあたってみた。

しかし、莉子先輩はいなかった……。

……どこに?
先輩……。
今、どこにいるんですか?
無事……なんですよね?
無事でいてほしい……。

どうしたらいいのか分からず途方に暮れる僕はいつの間にか、莉子先輩の自宅前まで来ていた……。

僕が莉子先輩の自宅を知っているのは、初めて河川敷の橋の下で2人だけの練習をした時……

「大丈夫よ」

練習を終えて、1人で自宅へ帰ろうとする莉子先輩に僕は半ば強引に自宅まで送ったんだ。
それ以来、僕はずっと莉子先輩を自宅まで送り続けていた。

僕が莉子先輩の自宅前に着いたとほぼ同時に1台の車が停まった。

あっ……。

車から降りてきたのは莉子先輩の母親。
それと……父親だった。
俯き、涙を流す母親とその側に寄り添う父親の姿を目にした……。
その姿を見て僕は悟った……。

……う、そ……だ。
そんなの……嘘だ!!
信じたくない。
信じられない。

事細かにことの真相を両親に確かめるべきなのは分かっている……。
けれど、それを受け入れることは今の僕には到底できないし、したくなかった……。
目の前に突きつけられた現実をどうしても否定したくて、僕は莉子先輩の両親に声をかけずにその場を立ち去ったーー……。


気がつけば、僕は河川敷にいた。
ここにどうやって来たのか、どうしてこようと思ったのかは分からない……。
僕はいつもの場所に座って莉子先輩が来ることを願った。

しかし、お盆が終わっても莉子先輩は河川敷に来ることはなかった……。

1日、1日と時間(とき)だけが無情に過ぎ去ってゆく……。

……やっぱり、そうなのか……。

いい加減現実を受け入れろ……と、いうことなのか……。
……そんなの嫌だ。
絶対に嫌だ!!
……莉子先輩。
ーー明日からお盆が明けるまでおばあちゃんのとこに行くのーー
って、言ってたじゃないですか!
もうお盆はとっくに終わりましたよ。
莉子先輩っ……。

太陽の光を反射させながらキラキラと輝きを放ちながらゆっくりと流れる川。
そこにかかるガッチリとした大きな橋。
その橋の上を時折、ガタゴトと音を立てて走り去る電車。
橋の下斜面に段々と規則正しく階段状に置かれたコンクリートブロック。
変わらない。
あの日……。
いつものように莉子先輩と発声練習や台本読みをして、さよならした日から何一つここは変わってはいないのに……。
……莉子先輩。
変わってしまった……。

こんなことになるのなら……告白すれば良かった……と、後悔する心……。
それは莉子先輩の自宅前で両親の姿を見てからずっと僕の胸の中を巡り続けていた……。
身勝手で都合のいい自分を嘲笑う……。

自分自身に自信がなくて、こんな自分じゃ釣り合わないと自分勝手に莉子先輩を想う気持ちを心の奥底にしまい込んだくせに……。
本当は怖かったんだ……。
想いを告げた瞬間……莉子先輩に振られてしまうのが……。
それによって、河川敷での2人だけの関係も終わってしまうのが……怖くて言えなかったんだ……。
こんなにも先輩のことを想い、後悔するのであれば……振られてもいい覚悟でさっさと告白するべきだったんだ。
そしたら、こんなにも後悔せずにすんだのかもしれないのに……。

いつも使っていた肩掛け鞄に入ったままになっていた台本を鞄から取り出して、僕は握りしめた……。

この台本は莉子先輩が書いたもので、3年生にとって最後の文化祭であり、演劇部員として上演する最後の舞台だ。

莉子先輩……。
もしも叶うなら、僕は貴女と同じ舞台に立ちたい……。

ようやく掴んだ『ヒロインの相手役』。
ずっと、莉子先輩の隣で演じることを夢見て頑張った。
莉子先輩がいつも側にいてくれたから自分のヘタさに落ち込み、演劇をやめようと考えたこともあったけど頑張ることができたんだ……。
それなのに……。

ズキッ……。

鋭い痛みが胸を刺し、僕は唇を噛んだ……。
口の中に広がる鉄の味……。
僕があまりにも強く唇を噛んだために出血してしまったようだ。
不快感を感じるであろう血の味も今はどうでもよかった。
胸をしめつける痛みがより一層強くなって、苦しい……。

莉子先輩……。
逢いたい。 
逢って伝えたい……。

「藤本くん!」

不意に耳にした懐かしいソプラノの声に僕はハッとした。

ま、さか……。

恐る恐る僕は声のした方へと顔を向ける……。

「ーーっ!!」

息を呑んだ……。
視線の先にニコッと笑顔を浮かべる人物ー莉子先輩が立っていたから……。

僕は莉子先輩の姿を目にするなり駆け出し、両腕をのばして莉子先輩を抱きしめた。

「ふ、ふじっ……もとくん、ちょっ……」

突然のことに莉子先輩が戸惑いの声を上げるも僕は気に留めず、もしも、もう一度先輩に逢うことができたら……今度こそは絶対に伝えようと心に決めていた想いを紡いだ。

「好き……」
「ーーっ……」
「好きです」
「えっ、ちょっ……あっ、あ〜それって、台本のセリフ? あれから2人での練習全然出来てなかったもんね、だから早く練習しようってことね。でも、そのセリフは藤本くんが言うセリフじゃないし、それに……」

莉子先輩の言葉を遮るように僕は叫んだ。

「セリフじゃないっ!」
「えっ……」
「セリフなんかじゃないっ!!」
「……どう、いうこと……?」

莉子先輩は眉を寄せ、戸惑っていた。

「莉子先輩に対する僕の想いです。僕は3年前に文化祭で莉子先輩が主役の劇を見てから、先輩のことが気になって、その気持ちは段々と好きに変わっていって……それから、ずっと想い続けています」
「……っ……」
「だけど……発声練習もまともにできない、演技もヘタ、他人よりも優れていることなんて何一つない僕が告白しても先輩を困らせるだけでなくて、きっと迷惑にもなると思ったし、振られるのも怖かった……。何よりこの河川敷で先輩と一緒に演劇の練習ができなくてってしまうのがすごく怖くて嫌だったから……告白しないって決めて、その気持ちは胸の奥へとしまい込みました。でも……あの日……電車の脱線事故のニュースを知った時……後悔したんです。先輩に対する気持ちを告白しないって決めたことを……だから……」
「……藤本……くん……」
「莉子先輩……僕と付き合って下さいっ!!」

僕の腕の中で莉子先輩は大きく瞳を見開いて僕を見つめた。

「……っ……」
「……っ……」

束の間の沈黙……。

これほどまでに長く、空気の重たい沈黙を過ごすのは初めてのことだった……。

気まずい……。
やっぱり、こんな僕じゃダメか……と、不安な気持ちがどんどん大きく膨らんでいく中……。

「……ホント?」

上目遣いに莉子先輩が僕を見つめながら尋ねた。
その真っ直ぐな澄んだ瞳に僕の鼓動がドキッと、高鳴る。
頬が熱を帯びてゆくのを感じながら僕も真っ直ぐに莉子先輩を見つめて、ハッキリと言った。

「はい」
「……嬉しい」
「ーーっ……!」
「すごく嬉しい……」
「……先輩……」
「私も好きです」

莉子先輩が頬を赤く染めながら真っ直ぐに僕を見つめ、ポツリポツリと言葉を紡いでゆく…。

「私もね、藤本くんと同じ……3年前から気になってたの」
「……えっ……」
「私が役者として舞台に立ってから、あんなにも熱心に瞳をキラキラ輝かせながら、劇を観てくれる人にこれまで出逢ったことがなかったから……」
「……?」
「藤本くんに出逢う前は私がそうだった。ヨウさんが出てる舞台をいつもそういう瞳で見つめ続けていたの。1人の役者として演劇に関わり続けていく中で少しずつだけど、私もいつか瞳をキラキラと輝かせなが舞台を熱心に観てもらえるような役者になりたい。舞台を作りたいって思うようになっていったの。藤本くんが劇を観に来てくれた時にその想いが叶ったと思ったし、同時にもっと多くの人に演劇の楽しさや感動を知ってほしい……って、欲も出てきちゃったの。それと、もう1つ……藤本くんも演劇しないかな〜、一緒にできたら素敵だなって」

莉子先輩は照れくささと喜びを混ぜ合わせた表情で声を弾ませながら言葉を紡ぎ続けた。

「だって、あんなにも瞳をキラキラさせて演劇見てる人って、そうそういないと思うんだよね。そういう人と一緒に演劇ができたらもっと楽しくて、とてもいい舞台ができそうって、心が躍ったし、そうなることを切に願ってもいたんだ。 そしたら……本当に藤本くんが入部してきて、あの時、すごく驚いたし、すごく嬉しかったの。また願いが叶ったって。だから藤本くんが落ち込んで元気がなくなった時はすごく哀しかった……。藤本くんに演劇をやめてほしくなくて、私なりにいろいろ考えて、ここで一緒に練習することを思いついたの」

そういう想いを持ちながら僕に接していてくれていたなんて……全然知らなかったし、気づきもしなかった……。
初めて知る莉子先輩の想いに僕は驚くばかりだった……。

「それから、この場所で藤本くんと2人だけで練習していく中で少しずつ演劇に対してひたむきに頑張る藤本くんの姿がとても素敵で段々と惹かれていった……。この時間がずーっと続けばいいのにとさえ思うほどに。でも、告白する勇気はなかった……。理由も藤本くんと一緒。好きだけど振られるのが怖かったし、何よりこの場所で一緒に練習できなくなるのが嫌だったから……この気持ちは伝えないって決めたの。けど……1日、1日と藤本くんと過ごす日々が過ぎてゆく中でこのままでいいのかな……とも思うようにもなって……そんな時……」

莉子先輩は一度、言葉を切って小さく息をついた。
それから少し遠くを見つめるように視線を向け、語り始めたーー……。


「松井、台本書いてみないか?」

高校3年生に進級して1ヶ月が過ぎた頃……ホームルームが終わり、教室がざわめき始めた放課後。
職員室に戻る前に演劇部の顧問であり、担任の先生に突然、そう提案されたのだった。

思いもよらない提案に莉子はビックリしてしまった……。
そんな莉子に先生はハッキリと告げる。

「松井が書いた台本は好評だし、高校生活最後の演劇だ。台本……書いてみないか?」

……どうしよう。
どうしたらいいのかな……。

迷い、返事に躊躇っている莉子に先生はやんわりと言った。

「まぁ……他にも台本の候補があがるから、選ばれるかどうかはわからないし、受験勉強もある。大変だとは思うが……ちょっと考えてみてもらえないか?」
「……っ……」
「じっくり考えてどうするか決まったら、教えてくれ。」

そう言うと先生は職員室に戻っていったーー……。

どうしよう……。

莉子とても迷っていた。
台本を書くのは楽しいし、受験勉強もそこそこしている方だと思う。
もし台本を書くと決めたとしても支障はないと思った。
何よりいい思い出になる。
だけど……何を書こう……。
アイデアが1つも浮かばない……。
今まではあれこれとアイデアが溢れてきて忘れないようにとアイデアのノートに必死に書き留めようとするも追いつかない程だった。
それがここ最近はパッタリとアイデアが思いつかないどころか、物語さえ書けなくなっていたのだ……。


翌日ーー。

莉子は登校するなり、先生を訪れた。

「先生……私、書きません」

正確には『書けない』と言うべきなのだろうが、そう言えば心配されそうな気がして言わなかった……。

「そうか、分かった」

……それだけ?

こうもあっさりと返答されるとは思っていなかったので、莉子はびっくりしてしまった……。

「あ、の……先生」
「ん? なんだ?」
「どうして、私に台本を書いてみないかって、言ったんですか?」
「それは昨日も言った通り、松井の書く台本は好評だし、高校生活最後の文化祭だから。それと、これは昨日言わなかったが……」

それと……。
なんだろう……?

「思い悩んでないか?」
「えっ……」
「なんとなくだが、少し前から思い悩んでいるように見えてな。何に思い悩んでるかまでは分からないし、そもそも思い悩んでるのかさえ定かではないが……。もし、思い悩んでることがあるならそれをテーマに台本に書いてみたら今までとは違う雰囲気の作品が出来上がるんじゃないかとも思ってな」

先生の言葉に莉子はドキッと、してしまった……。
何でもないように隠していた、隠し通そうと決めた藤本への想い……。
何に思い悩んでいるのかは分からないにしろ、思い悩んでいること自体がいとも簡単に気づかれてしまった……。
分かる人には分かるんだ……と、思うと共に……

ーーおもいなやんでいることがあるならそれをテーマに台本を……ーー

先生の紡いだ言葉が頭の中をぐるぐると巡っていた。

「そういう思いもあってな、声をかけたんだ」
「……」
「……松井?」

無言でいる莉子の様子に先生は眉を寄せ、心配そうに尋ねた。

「気を悪くさせたか? それなら……」
「ーーま、す……」
「えっ」
「書きます! やっぱり台本書かせてくださいっ!!」

そう、叫ぶと莉子は早々に職員室を後にし、足早に教室へと戻ると、自分の机にかけていた鞄の中から一冊のファイルを取り出した。
そのファイルは挟んでいる用紙が取り外し可能であり、莉子が思ったことや感じたこと等、様々な想いやアイデアを書き留めるノートで、時に物語を書き綴ったりもしていた。
莉子は新しい用紙にお気に入りのシャーペンを走らせ、文字を綴っていったーー……。


「そんなことが……」
「うん」

コクッと、莉子は頷いた。

「まさかそういうやり取りをきっかけに書かれた台本だったなんて……」
「実は、ね。台本を書くと決めてからいろんなことを考えて想いを巡らせたわ。高校生活最後の文化祭……どうしても藤本くんと一緒に舞台に立ちたい……。好きっていう気持ちを伝えることができない意気地なしの私……。せめて舞台の上だけでも伝えることができたら……って。そして、強く願った。今の藤本くんなら絶対にヒロインの相手役になる。絶対に抜擢されるって。台本が選ばれるかも分からない時からずっと、願ってたの。藤本くんがヒロインの相手役になった時はすごく嬉しかった。藤本くんは私にとって好きな人であると同時に願いを叶えてくれる人でもあるの」
「莉子先輩……」
「それとさっき、ごめんねって言ったのは……こんなにも私のことを想ってくれてる人をすごく心配させて、哀しませてしまったんだ……って、思ったから……。あの日……藤本くんは私が電車の脱線事故に巻き込まれてもう逢えないって、思ってしまったんだよね……? そう思うのは当然だよね……連絡もなく、こっちに戻ってくるのも予定より遅かったから……それに私を見た時……お化けを見たような顔してすごく驚いていたんだもの……」

そんなにもひどい顔してたんだ……。
莉子先輩に言われて初めて気づいた……。

「ごめんね、本当にごめんなさい……。あの日、私一本早い電車に乗ってて、事故に遭わずにすんだの。
偶然、乗り換えの駅構内のアナウンスで事故のこと知った時に両親やおばあちゃんに連絡しようと思ったんだけど……携帯の調子が悪くて……しかも、おばあちゃんが住んでる地域は電波も入りにくくて……。連絡が取れたのはそれから数時間後……おばあちゃんの家に着いて、そこで電話をかけさせてもらったの。両親に連絡すると「すぐに連絡しなさい!!」って、ママに泣きながら怒られちゃった……。その電話口で「荷物を取りに帰って、改めておばあちゃんの家に行くから……」とも言われたの」

……と、いうことは……僕は荷物を取りに両親が家に帰ったところを見て、勘違いしてしまった……と、気がついた……。
今、思うと……自分勝手にとんだ勘違いをしてしまったことがとても恥ずかしく思えてしまった……。

「あと……藤本くんに言ってたよりもこっちに帰ってくるの遅かったのはおばあちゃんの具合が悪くなって入院したの……。それで、よくなるまでママと一緒に看病してて……」
「そう……だったんですね」
「……うん。本当にごめんなさい……」

深々と申し訳なさそうに頭を下げる莉子先輩の姿に僕は慌てて言葉を紡いだ。

「あ、頭を上げて下さいっ! それにもう謝らないで下さい。先輩が無事で本当に良かった」
「藤本くん……」
「先輩、練習しましょう。素敵な舞台を成功させるために……!」
「うん、そうだね。一緒に舞台成功させよう!」
「はいっ!」

満面の笑みを浮かべて頷く莉子先輩に向かって僕も笑顔で笑った。

そして、久しぶりに莉子先輩を見た瞬間に驚きのあまり落としてしまった台本を拾い上げて埃を払い、ページを捲ったーー……。