心結side



あの日から2週間が経った今日、凛律は留学へ行く。



空は嫌味ったらしいほど快晴だ。



そんな中呑気に川沿いなんて自転車で走っている俺は、彼女の泣き顔が目に焼き付いて、離れないままでいる。



凛律と出会った日に見た涙とは別の感情を含んだ涙。



それは、諦めの裏にある「まだ終わりたくない」という叫びを隠しきれていなかった。



その雫が滴っていった果てには、辛かったあの頃以上の苦難しか待っていない。



でも、その事実を受け入れてしまった涙の色が、見惚れるほど美しくて。



最近、俺は思っていた。



彼女は“綺麗そのもの”だと。



でもそんな彼女は、俺の元から離れていった。



いや、離されたという方が正しい。



九条の後継者という立場には、俺には想像もできないほどの責任や我慢が伴うのだろう。



彼女にそんな立場は似合わない。



凛律には、もっと自由な生き方が似合っている。



今まで過ごした4回の土曜日で、俺は少しの自由しか凛律に教えてあげられてない。



そのまま、凛律は今日遠いところへ行ってしまう。



いや、元々知ってたけど。



俺、こんなにダメなやつだったのか。



自由を知らない少女一人守れない、ダメなやつ。



そう思いながら、飛行機どこかな、なんて空を見上げると。



視界が滲んでいるのだ。



一度ペダルを漕ぐ足を止める。



………あれ、なんだこれ。



え、泣いてんのか、俺?



あまりにも静かな後悔で、気づいた時には既に、大粒の涙で顔が大変なことになっていた。



手の甲や手首で拭っても拭っても、瞳という名の雨雲は雨上がりを知らなくて。



この4回の“毎週土曜日”が、俺たちにどれほどの生きている実感を与えてくれる存在だったか。



それを、泣いている自分から改めて実感する。



「………」



だった……いや、“だった”?



なに、簡単に諦めてるんだよ、俺。



散々諦めに浸っておいて、今この時ハッとする。



心の中で誰かが、嫌味になるほど何回も言うのだ。



『まだ囚われたままでいる彼女を、救い出さないといけないだろう?』と。



それはきっと、自分だって両親に囚われたままなくせに、自由を知った気になって慢心している、本当の自分。



同じように囚われている凛律を救い出すことで、両親なんかに屈さず自由になれると信じている自分。



それが報われない“信じる”だとしても、俺たちはそんな根拠の無いものにでも縋っていないと、前へ進んでいけないのだ。



楽しませるとか、笑顔にするとか。



そんなこと、これくらいで折れていたらいつまで経っても成し遂げられない。



俺は、“信じる”んだ。



そう強く決意し、俺は8月の猛暑日の中、空港へ向かって全力でペダルを漕ぎ始めた。



滑り落ちる汗が焦りを煽る。



凛律が何時に飛び立つのかは聞いていない。



もしかしたらもう飛行機に乗り込んでいるかもしれない。



だから無駄になるかも知れないけど、急がずにはいられないのだ。



君の助けを求める声が頭に響くから。



1秒でも早く着かなければ。



凛律、大丈夫だ。



俺のカメラの中で輝いているのは、いつだって凛律だから。



自由を手に入れた君の笑顔を見てみたいという俺の欲もあるけど、何よりも、誰よりも願う。



君の自由を。



──────────



そして、空港に到着した。



どこにいるんだ、凛律!



周りの目線なんて気にせず、空港の中を駆け回る。



非常識だと言われたっていい。



凛律のために全力になれる自分を、恥ずかしいとは思わないから。



凛律は、案外すぐに見つかった。



幸いまだ飛行機には乗り込んでいないようで、父親らしき人と一緒に、壁の近くで佇んでいた。



凛律は暗い表情で俯いている。



そりゃそうだ。



本意でない留学を目前にして、上を向けるわけがない。



そんな凛律を早く救いたくて、凛律とその父親の元へ走った。



「凛律!」



俺に呼ばれ、顔を上げる凛律。



酷い顔だ。



でも、俺が来たことに驚いている表情は可愛いと思った。



「えっ、心結?どうしてここに……」



「誰だお前は」



1歩踏み出して俺の前へやってきた男。



「……凛律、この人は?」



「……私の、お父さん……」



だと思った。



スーツを上手く着こなしているその姿からは、プライドの高さが伺える。



いかにも社長という感じだ。



「お前は誰だと聞いているんだ」



威圧的な態度。



自分の父親を見ているようだ。



「小園心結です」



わざと生意気に名前だけを答えてやった。



上から見下ろしてりゃ俺がビビるとでも思ったか?



もうその威圧には慣れてんだよ。



そんな俺の自己紹介に、凛律の父親は不快そうな表情を浮かべる。



「お前が凛律と会っていた高校生か。ここに何をしに来たのか知らないが、娘はこれからカナダへ留学に行くんだ。その邪魔をするつもりなら……」



「1ヶ月と少し前」



凛律の父親の言葉を遮って、俺は話し始めた。



「………?」



「あんたの娘が家を黙って出たことがあったんじゃないか?あんたは怒っただろうよ。おかしな真似はするな、ってな。これを凛律があんたらに言ったのか知らないが、あの日凛律は自殺しようとしたんだ。雨の中、川に身を投げて」



「!?」



どうやら知らなかったようだ。



その原因が自分だということも、知らないんだろうな。



そんな凛律の両親には呆れるしかない。



「何を言って……」



「原因はあんたらだ。凛律の大好きな小説を凛律から奪ったから。そんな権利があんたらにあると思ってるのか?いくら家のためだからってそんなこと、許されるはずないだろ!?」



「違う!」



凛律の父親は、俺の言葉に何を思ったのか、大きな声を上げた。



何が違うんだよ?



と怒りを覚えながら凛律の父親の言葉を待つ。



「私は……家のためにやったのではない。いずれ九条をまとめる立場につく凛律に、社会で生きていけるようになって欲しかったんだ。このあまりにも重たい立場で生きていくためには、足元を救われないようにするしか……しかし、私は間違っていたのだな。大切な娘に、自殺という選択をとらせてしまうなど……」




「え、お父さ……今、大切な娘って……」



どうやら、その大切に思う気持ちは娘には微塵も伝わっていなかったようだ。



実際、この父親はやり方を間違った。



そしてその娘を思う気持ちを伝えれていなかったことも、父親としての役目を成し遂げられていない証拠だ。



でも、そうか……



凛律は、愛されていないわけではなかったのか。



そのことはとても嬉しく思う。



もしかしたら、俺の親も……



なんて、10年ぶりくらいに親への期待を感じた瞬間だった。



いや、今となっては意味が無い期待だ。



例え俺の両親もやり方を間違っただけだったとしても、俺はその両親を許せるほど心が広くないから。



もう、遅い。



凛律の父親は、本気で自分を責めているようだった。



そんな父親に俺は言う。



「それは、あんたら自身、社会を恐れているということか?なら、俺たちはあんたらじゃなくて社会に反抗する。逃げ場のない社会のせいで夢を諦めるなんてこと絶対にしない。だろ、凛律?」



「っ……」



凛律はまだ、父親へ抗うことが出来ないでいるようだった。



せっかく父親は自分のことを愛してくれていると分かったのに、それじゃ勿体ない。



そのことに気がついてほしくて、俺は凛律に伝える。



「凛律。俺たちなら、迷子同盟なら、恐れるものなんて何も無い。俺たちが“勇気ある反抗”という武器を手にした時、俺たちは自由になれる。凛律にも夢があるだろ?まだ間に合う。凛律の気持ちを、伝えてみるといいんじゃないか?そして俺に、凛律を心の底から笑わせるって約束を、果たさせてくれ」



「っ……!」



凛律が満面の笑みで笑ってくれるとしたら、それはきっと自由の中にあると思うから。



凛律に夢を諦めてほしくないんだ。



それに、凛律なら絶対夢を叶えられる。



大丈夫、怖くない。



そんな気持ちを込めた瞳で、凛律を見つめる。



そして凛律は、自分の気持ちを話すことを決意したようだった。



「お、お父さん」



「………ああ」



「私ね、小説家になることが夢なの。勉強ばっかりで不自由な生活の中、小説を読むことだけが私の生きがいで。私、お父さんの言う通りになれるよう頑張ってた。なのに、小説を書いてることを知ったらお父さんは私を怒った。すごく、悲しくて辛かったよ」



「……凛律……」



「もう死んじゃおうと思ったんだけど、心結が大事なことに気づかせてくれて、まだ生きたいって思えたの。そんな心結に恩返しするためにも、この夢を叶えたい。すごくわがままだって分かってる。でも、お願いします。留学には行きたくありません。そして、私の小説を否定しないでください……っ」



「っ……」



凛律、よく頑張ったな。



そして、最後の選択肢は凛律の父親にある。



凛律の父親は、少しの間目をつぶって、凛律の名を呼んだ。



「凛律。顔を上げてくれ」



「………」



「今まで、本当にすまなかった。凛律を苦しめるものなど、良いはずが無いのに……私が間違っていた。留学はやめにして、小説家になるという夢も応援する。でも、これだけは覚えていてくれ。本当に馬鹿で不器用な父さんと母さんだが、凛律のことは本当に大切に思っているよ」



「っ……うん、絶対忘れない。それと、小説を認めてくれて、ありがとう」



一件落着か。



「凛律、良かったな」



「うんっ」



そう言う彼女を、俺はまた写真に収めた。



そうして、飛行機のキャンセルなどがある凛律の父親を残して、俺たちは空港を出た。



「心結、本当にありがとう」



そう言った凛律の瞳は、完全に輝きを取り戻していた。



「っ……いや、凛律が勇気を出したからだろ?この自由は、紛れもなく凛律のものだ」



そう言うと、凛律は嬉しそうな表情を浮かべた。



そして、俺は凛律に言う。



「それで、凛律。来週の土曜日、いつもの橋の下に来てくれないか?」



自由になった君に、伝えたいことがあるんだ。