碧は照れるのを誤魔化すように、手元のノートを千乃の方へ差し出す。

「もしかして、小説?」

 千乃は受け取ったノートをめくった後、そこに大切なものがあるかのように、碧の文字をそっと指で撫でた。

「ううん。アイディア帳というか、まとまりのないアウトプット先。どんな話が書きたいのか、まだわからないんだ。でも、何でも書ける作家になりたいな……なんて夢だけはスケールが大きい。でも、まだスタートにも立ってないんだよなぁ」

 碧は気まずさを感じ、苦笑いを浮かべる。

「最初から小説を書き始められる人なんて、いないんじゃない? プロの小説家だって、たくさん考えて、準備してから書くんだろうし。書こうと思った時が、もうスタートなんじゃないかな」

「そう、かな。そうだといいな」
「佐倉くんが夢を教えてくれたから、私もカミングアウトしちゃおうかな」

 碧は思いも寄らない言葉に、息を呑んだ。

 『カミングアウト』という表現から、ただならぬ雰囲気を感じる。

 だから、碧は背筋を伸ばして、まじめな表情を作った。「うん、もしよければ、教えてほしい」

 千乃は少し困ったように笑い、空を見上げる。

 遠くには入道雲ができていて、濃い青色が夏らしさを感じさせる。

 強い陽光は日陰にいる二人には当たっていないが、少し場所を変えれば、肌に刺すような刺激を与えてくるだろう。

 千乃からすうっと息を吸う音がして、碧は視線を向けた。

「私ね、イラストレーターになりたいの」
「イラストレーター?」

「そう。だから、美大に行って、絵の勉強がしたい。だけど、うちの両親は大学に進学して、いい会社に就職してほしいって思ってる。両親の考えもわかるよ。

 大学に行って、安定した職につく。具体的な職業が目標になっている人以外は、なんとなく思い描く道かもしれない。それを否定するわけじゃないし、嫌なわけじゃない。でも、私の道じゃない気がするの」「自分らしくない?」

「そう。私らしくない。私のやりたいことじゃない。イラストレーターの道が厳しいことはわかってるよ。美大に入るのだって、簡単なことじゃない。絵を仕事にできる人が一握りだってこともわかってる。それでも、私は諦めたくない」

 千乃の横顔からは強い決意を感じる。

 まっすぐ前を見ている千乃は、かっこよく見えた。

「諦めたくないよね」
「うん。でも、両親は猛反対。絶対に美大は認めない。どんな学部でも、どこの大学でもいいから、普通の道を歩めって……『普通』って、そんなにすごいのかな。私の夢は、そんなにダメなことなのかな」

 千乃から、自信と強さが消えていく。

 頼りなく、不安で、悲しい。

 そんな表情に、碧は思わず千乃の手を取り、ぎゅっと握った。

「俺だって、小説家だなんて、なれるかもわからない夢を描いてる。才能があるかもわからない。才能があっても、それを仕事にできる人が少ないことも知ってる。俺なんて、まだ両親にも話せてないんだ。星宮さんはすごいよ。俺なんかよりも、ちゃんと夢と向き合ってる。前に進もうとしてる」

 千乃は碧の真剣な表情を見て、ふふっと笑った。