* * *

 キーボードを叩く小気味よい音だけが、静かな室内に響いている。

「ねぇ、こっちに来て」
「ちょっと待って! 今、大事なところなんだ」

 ちょうど『、』を入力したところだった。

「お願い!」

 俺は彼女の必死な声に小さく笑い、『上書き』を押した。

 立ち上がると、椅子がギッと音を立てる。

 長時間座っていても腰が痛くならない椅子は、彼女からの誕生日プレゼントだ。

 俺も、お揃いの椅子を贈った。

 彼女も同じように、長く座って仕事をするから。

「どうしたの?」

 俺は仕事部屋から出て、隣の部屋を覗く。 彼女の表情を見て、思わず笑ってしまった。

 夢見る少女のような笑顔を浮かべ、気持ちの昂りを抑えきれない。

 そんな姿が微笑ましく、愛おしい。

「完成したの!」
「どれ?」

 俺の行動がもどかしいとでも言うように、彼女は手を強く引き、パソコンの大きな画面を指差した。

 高校生の二人が川辺で並び、男の子は顔を赤くしている。

 余裕が見られる女の子とは対照的だ。

「いいね」
「でしょ? 二人が夢を共有する大切なシーン。この瞬間は挿絵から外せないよね」

 腰を屈めていた俺を至近距離から見つめている瞳は、キラキラと輝き、まるで葵の心を射貫くかのようにまっすぐだ。「ありがとう」

 色白の頬に唇を寄せ、そっとキスをする。

「それだけ?」

 不満そうに唇を尖らせた彼女を抱き寄せ、唇を奪う。

「愛してるよ」
「どれくらい?」

 彼女の言葉に、笑いを堪える。

「俺には、君しか見えないくらい」
「いつから?」
「ずっと前から。これからも、永遠に」

 彼女は満足そうな笑みを浮かべ、ぎゅっと抱き着いてきた。

 しっかりと抱き締め返す。

 小説の方も完成が間近だ。

 「ありがとう」

 俺の言葉に、腕の中から幸せそうな笑い声が聞こえた。



 『この泡沫の恋が消えてしまいませんように』 
       著:星野 朔良



 了