ようやく、海岸に到着した頃には、すっかり夜になっていた。

空には月と星が輝いている。

明かりのない砂浜では、海と浜の境すら分からない。
それでも、足の裏の砂の感触と、風に乗って流れてくる潮の匂い、昼と変わらぬ響くような波の音が、海の存在を知らせていた。

先輩は、ふらふらと海へ近付いていく。
慌てて僕も後を追う。
離れたらきっと、見失ってしまう。

先輩は、波打ち際まで駆け寄った。
ぱしゃり、と、先輩の足が水をかぶった音がした。
そこでようやく、先輩は立ち止まる。

僕は先輩の隣に行く。
靴が濡れる。
あっという間に、素肌にまで海水が浸透する。
波が寄せるたびに、くるぶしが水に浸かっては出てを繰り返す。

先輩の様子をうかがう。

先輩は肩を震わせていた。
しゃくり上げるような呼吸音が聞こえて、泣いているのだと気付いた。

どれくらい、そうしていただろうか。

先輩はふらふらと後ずさると、尻餅をつくようにして砂浜に座り込んだ。

僕も隣に座る。

「ありがとう。
一緒に来てくれて」

先輩は、静かにそう言った。
少なくとも、不機嫌さや、追い詰められた様子は、感じられなかった。

「気は済んだよ。
二葉くんのおかげ。
……ありがとう」

どうやら、目的は達成できたらしい。
でも、先輩が何をしに来たのか、僕にはまだ分からなかった。

「……もう、いいんですか?」

「よくはないけど、でも、私にはそんなこと言う資格はないから」

どういうことなのか。
僕が戸惑っていると、先輩が微かに笑った気配がする。

「ここに来れば、会えるかと思ったの」

誰に、と聞きかけて、口をつぐんだ。
海で、それも波打ち際の向こうで会える人。
……わだつみは、黄泉の国だ。
黙っている僕に、先輩は再び話し始める。

「二葉くん、河川敷にいたでしょ。
川を見て、思ったんだ。
流れちゃったんなら、行き着く先は、海だなって」

流れちゃった。
血の気が引く。
まさか、そういうことだったのだろうか。

「……私には、悲しむ資格なんてないの。
だって私のせいだから。

でも……私以外の誰も、悲しんではくれなかった。
あの人も、私の親も。
みんな厄介者扱いするの。
流れてよかったなんて、そんなひどいこと言うの。

……だから……」

思い出す。
今はお盆だ。
墓標のない魂のために、先輩は、迎えに行こうとしたのだろう。

「……一緒に悲しんでくれる人が欲しかったの。
ごめんね、巻き込んで」

かぶっていた黒のメッシュキャップを、胸に抱く。
先輩が黒を選んだ理由が分かった。
大っぴらには誰にも言えない中、僕にだけは、喪に服して欲しかったのだろう。


……先輩は、きっと、ずっと苦しかったのだ。

河川敷に来た時だって、寝ても覚めてもいられずに、着の身着のままで出歩いていたのかもしれない。

たまたま僕を見かけて、海へ行けば会えるかもと思いつき、弔いの旅の伴侶に僕を選んだ。

弱いくせに無理やり強い酒を飲んだり、わざわざ徒歩で行こうとしたのは、もしかしたら自傷の1つだったのかもしれない。
心の痛みに、体がついていかなくて、それで余計につらくて。
『自分を大切にしてほしい』と言われて黙り込んだのも、とてもそんな気になれなかったからなのだろう。

どこか情緒が不安定だったのも、感情がぐちゃぐちゃになってしまっていたからかもしれない。


「……二葉くん」

「はい」

「二葉くんがいてくれて、よかった。
本当に、そばにいてくれるだけで、よかったの」

本当は。
彼氏にいてほしかったのだろうと、思う。
『二葉くんだったら、よかったのに』
という呟きは、きっと、そういうことだったのだ。

「二葉くんは、彼女を大切にしてあげてね。
自分の子どもも、大切にしてあげて」

「はい」

「決して、勢いでしたりしないように」

「しません」

「……まあ、公園での様子からして、大丈夫だとは思うけどね」

先輩の声が、少し柔らかくなる。

「せめて二葉くんは、幸せな家庭を築いて。
そうしたら私、少しは嬉しくなれる、かもしれない……」

僕はうなずく。
それが、先輩に伝わったかは分からないけれど、先輩はくるりと海へ背を向けた。

「……ありがとう、二葉くん」

さく、さくと、砂を踏む音がする。
先輩は再び、歩き始めた。


その後、最寄りのバス停まで歩いて、先輩を家まで送っていった。

先輩は、気の抜けた笑顔で、僕に手を振って、扉の向こうへ姿を消した。

僕も家に帰る。
自室のベッドの上に寝転び、先輩とのやり取りを思い返す。

幼かった頃の、優しく強い「夏苗お姉ちゃん」の姿。
その笑顔を保てなくなってしまった、深い悲しみのこと。
それに寄り添う、隣にいるということ。

黒のメッシュキャップを胸に抱く。
どうか、どうか、先輩達の痛みが癒えますように。