彼女との日々は、本当によく見るストーリー。
若者の恋愛を儚く描いた、物語。
僕が主人公で、彼女がヒロイン。
突然の出会いで、いつの間にか惹かれて。
たくさんの思い出を作って、そしてそれを大事にして。
でも、それだとありきたりだから?
だから運命は違うの?
僕は彼女と、ありきたりだとしても一緒に生きたかった。
ただ、それだけだった―。
「ずっと会いたかったよ」
本当になんでもない、ある夏休みの1日。
僕、松江 瑞瀬はほとんど人の通らない田舎町の河川敷で図書館の帰りに日影で本を読んでいた時、初対面の全く知らない少女にそう言われた。白いシャツに、黄色いスカート、少し茶色がかった髪を肩まで伸ばした少女。
でも、自分にむけて言ったわけではない可能性がある。彼女は僕の近くにいる誰かにそう言っているだけで、決して僕に向けて言っているわけではないかもしれない。そう思って黙々と本を読み続ける。視界に入る彼女の横顔はなんとなく透明感のある、綺麗な雰囲気だった。
「…なんで無視しちゃうの?」
少女が頬杖をつきながら顔を覗き込んでそういうから、今度は確実に僕に言っていると分かった。
「人違いではないですか…?」
「ううん、君に、会いに来た」
「勘違いです」
「だから違うって。松江 瑞瀬くん」
「名前……」
「ね、人違いじゃないでしょ」
いたずらをした子供のように舌を出す彼女の様子から見て、本当に僕に用があるらしい。
「…僕に何の用ですか」
「私、風夏です。瑞瀬くん、私と付き合ってください!」
言葉が出なくて、頭が真っ白になって、恋愛経験がない僕にとってどういう表情を取ったら良いのかわからない。この世に存在する混乱を表す言葉を使っても表しきれない混乱。そんな感じ。
でも彼女のどことなく真剣な表情と緊張しているのか少し震えていた声から、からかっているとは思えなかった。
「本気…ですか。」
「本気です。本気で本気なんです。誰よりも君を想っている自信があります。……だめ、ですか。」
彼女の表情を見ていると駄目です、なんて言い切れない。
「駄目ってわけではないんですけど…なんていうか…何で僕っていうか……顔が良いわけでも、とてつもなく人気者ってわけでも、なんでもないんです。だから…」
「だめじゃないっていうことは良いんですか!?嬉しい。嬉しいです!よろしくお願いします!瑞瀬くん!」
だからって言ったあと、自分でなんて言おうと思ったかすら覚えていない。緊張を隠しきれない彼女の表情が一瞬で明るくなって、すごく喜んでくれて。それくらいしか覚えられないほどの速さだった。それくらいの速さだったのに顔がすごく赤くなって、読んでいた本を落としそうになっちゃって―。本当に、よくわからない。素直な感想がそれだった。
「海行きましょ!」
「なんで海!?」
「海に行くのに理由なんてなくて大丈夫ですから!」
海はこの川のもう少し先にある。彼女は僕の手をひき、立たせた。そして「これこれ」という表情で僕が乗ってきた自転車を指差した。
「二人乗りで大丈夫ですよね!」
髪の先を指でくるくると回しながらそう笑った。
知らなかった。人の笑顔でこんなにも自分が染まっていくこと。そしてそれが、何も窮屈に感じないこと。
今日出会って、今日知って、今日会いたかったって言ってもらって、そんな彼女の存在が、こんなにも短い、あっという間の時間でも少しだけ大きくなっている気がする。いつもなら友達が冗談を言っている時、冗談にのれずに冷めた返事をするだけだ。でも、でも。
自転車の鍵をポケットから出してスタンドを外す。海がある方向へハンドルを向けた。
「やった!後ろ乗って良いですか?」
「二人乗り…だから…」
「乗りますね!行きましょう!」
彼女が空に突き上げた拳がスタートの合図のようにペダルを力強く踏む。
彼女が鼻歌を歌いながら進み、5分もしないうちに浜辺へ着いた。海から少し離れた所に自転車を停める。
彼女は僕の手をひき、海へ走っていく。途中で靴下を急いで脱ぎ、浅瀬へと走っていった。
「瑞瀬くんもおいでよーーー!」
肩の下まで伸ばした少し茶色がかった髪と黄色のロングスカートを揺らしながらそう笑った。
靴下を脱ぎ、少しだけズボンの裾を折る。
「来た来た!」
いつもより少しだけ早歩きで彼女の元へと駆けた。
いつもと違う、夏が始まる―。
「この前の海、久しぶりで楽しかったな」
「うん」
君に会いたかったと言われたあの日から、僕にとっては非日常が続いている。
今日は彼女に連れられて、少し遠出をすることになった。家族以外の誰かとどこかへ一緒に出かけること自体が珍しい。
「もうちょっとで駅着きますね!楽しみだー!」
「あのさ、敬語じゃなくて良いよ」
クラスメイトからも敬語を使われるくらい誰かと話すときは敬語を好む僕だけど、彼女から敬語で話されるとなんとなく距離を感じてしまう。その理由は僕にも分からない。恋人という関係、僕にとっての彼女になっているからか!?僕が断らなかったことが今を導いているのに、一人で考えて一人で顔を赤くする。
「じゃあ、そうするね」
「うん」
まだ顔が熱い。熱があるんじゃないかと思うくらい。
「着いたー!」
田舎町のこの町にとっては一つの貴重な駅。のはずなのに、相変わらず人はまだらだ。
「えっと、新幹線に乗り換えられる駅に行きたいから…」
「じゃあこの切符だね」
少し錆びた路線図の一つの駅を指差し、切符発行のボタンを示す。
「おー!詳しいね」
「産まれてからずっとここにいるからね」
「そっか!じゃあその切符買おう」
2人で同じ切符を手にし、ホームへ向かう。
ずっと昔からあるホーム。こんなに電車に乗るのが楽しみになったことはあるだろうか。少しずつ非日常が日常になっていく気がする。そんなことをぼんやりと考えているうちに、電車が来たらしい。彼女が電車に足を踏み入れ手招きしている。
「瑞瀬くん?行こ!」
「うん」
こんなに軽い足取りで電車に乗るのは初めて。彼女は僕にたくさんの初めてをくれる。
「結構遠いね」
10分ほど電車に揺られていると隣に座る彼女が退屈そうにそう言った。
「しょうがないよ、田舎の中の田舎って感じだし」
「確かにね」
「君はさ、ずっとこの町にいた?見たことないし、名前とか聞いたことがないっていうか…」
「…いたよ。」
もう聞かないで。そう聞こえたような気がする。ずっと明るい口調の彼女からは想像できないような、ちょっと寂しげな、そんな声。その後の沈黙がやけに静かに感じて彼女が消えてしまったのかと思った。我に返って隣を見ると白いワンピースを身にまとったいつもの彼女がいて安堵する。
「ねぇ」
珍しく真正面を見たまま口を開く彼女の姿に少し驚く。
「びっくりした!?私、いないと思ったでしょ?」
「…?」
「ちょっとびっくりするかなって思って黙ってみましたー。私にとってはすごい難しかったんだよ、いつもずっと喋ってるからかなぁ」
いつもの表情に戻って笑顔を見せる彼女を見て前よりも深い安心に包まれる。
「うん、びっくりした」
「でしょ!退屈だったからちょっとドッキリ仕掛けてみました」
初めて話したときみたいに舌を出して笑う彼女。
夏が終わって、秋が来ても、このままこの笑顔の隣にいたい。そんな願いを願ってしまう。
―僕は君に、恋したのかもしれない。
「やっと着いたーーー!」
「ここからまた新幹線でしょ」
「切ないこと言わない。」
「…はい」
「どこから新幹線乗れるんだろ」
「さすがにこんな大きい駅初めてだからわかんない」
「スマホで調べちゃおっか」
少しスマホを操作してから「わかった!」と声を上げわかったことを伝えられた。
「こっち!ついてきて!」
そう言って手を引かれ連れられると着いたのはどうみても在来線のホームだった。
「…あれ?」
「これ、在来線だよね」
「…どうみても…」
何もしてない僕なのに、この状況が面白くて笑ってしまった。
「ちょっと、笑わないでよー!」
そう言いながら彼女までつられて笑う。これが、日常になる。その事実が嬉しく感じる。
「もっかい調べる!」
「調べてあげるよ」
「上から目線やめてください」
「…こっちだね」
しょうがない、という様子で後ろをついてくる彼女。その様子も少し可笑しく思えてきて歩きながら一人で笑ってしまった。
「何笑ってんのー」
「別に…」
と言いながらも笑う僕を見て彼女が眉を寄せる。
「ばかにしないでよ?」
馬鹿みたいに笑いあう今が初めて感じた心からの幸せかもしれない。ありがとう…直接言う勇気は臆病な僕にはないから、その5文字を頭に浮かべる。浮かべないよりはましだよね、そう言い聞かせながら。
ちゃんと伝えればよかった。そんな後悔しないこと、心の何処かで密かに願っていた。
「ほら、着いたよ」
「私だって本気出せば着けたし。だいたい、なんか堅苦しい雰囲気かなって思って、和らげてあげようっていうか、なんていうか。笑わせてあげようと思って分かってたけど在来線の方行って笑わせたっていうか…とにかく!私は分かって…」
「切符買った?」
「人の話は最後まで聞くって習わなかった?」
「買ってなかったらあそこの窓口いかないと」
「ねぇ!」
「…」
「知ってる?死んじゃった人って、聴覚が最後の最後まで残るんだよ」
「…」
「だから人の話をちゃんと聞くのってすごい大切」
「…」
「ずっと黙ってんじゃん!もういいよ!切符買いに行こ!」
窓口に並んでいる間にも少しずつ列は伸びていく。
「都会って人多いねー」
「僕も思ってた」
「意思疎通したね!」
「別にそういうわけではないと思うけど」
「冷たいな」
「もうすぐ順番来るよ」
「冷たいな!」
2人分の席を取り、あと少しで新幹線に乗れるからとお昼ご飯を買ってホームで待つことになった。
僕はおにぎりと漬物のセット。彼女はサンドイッチとパスタサラダと唐揚げとカップに入ったスープ。
「よく新幹線で漬物食べれるね。周りが漬物って感じの匂いになっちゃうじゃん」
「炭水化物こんなに大量に摂る人初めてみたよ」
「私は周りの人に迷惑かけてないからだいじょーぶ。」
「…。」
「言い返せないね、どんまい」
「いつからかわからないけどすごい上から目線になったよね」
「褒め言葉ありがとう」
車内の清掃が終わり、1番に乗り込む彼女。荷物は僕が代わりに持っていることを忘れているらしい。
「新幹線、初めて乗る」
「修学旅行とかは?」
「んー、たぶん風邪ひいてたんだと思う。だいたい風邪ひいてるからなぁー瑞瀬くんは病気しないの?」
「一回入院したことあるかな」
「元気そうなのに!なんで?」
「中学生の頃、事故で怪我しちゃって」
「んーそうなんだ、退屈でしょ?入院とかって」
「そうでもないよ。病院の屋上とかだと患者さんと話したりするし」
「誰かと仲良くなった?」
「んー、病院にあんまり男子がいなかったから仲良かったのは同じ年くらいの女の人とかと話したかな」
「そうなんだ…」
そう言いながらまだ発車もしてない車内でサンドイッチの袋を開ける。食べるのかと思ったらカップサラダの蓋も開けてその上に置いて。唐揚げも開けてその蓋に箸を置いて。とどめはスープを開けてスプーンでかき混ぜる。ランチセットの準備を発車までの時間で丁寧にこなした。すこし圧倒されながらも漬物を開けると「フランスとかイギリスって感じの雰囲気を漬物臭が邪魔してきた」と怒られた。だから入っていたビニールの中で爪楊枝にさしてギリギリまでビニールに入れたまま口に運ぶ。そして入れた瞬間に爪楊枝をビニールに入れてすぐさま結ぶ。そんな高度な技術を使う羽目になった。
発車に次の駅につく頃には2人共フードファイターなみに食事を第一に考えている感じが醸し出されていた。少し恥ずかしくなって今更だけど漬物をしまっておにぎりを食べることにした。でもツナマヨを買ってしまったから食べ終わったらしょっぱいものが食べたくなってしまって仕方なくまた漬物を開けた。
こんな調子で2人優雅なランチタイムを嗜んでいるとあっという間に最寄り駅に着いてしまった。午後の3時くらい。ちょうど日差しが差す時間で目的地は眩しい日差しと多くの人で体感温度はすごく高い。
「このあとどうするの?」
何もプランを聞いていなくて彼女に任せっきりの僕はただひたすらにハンカチで汗を拭き取ることしかしていない。
「よし!じゃあ帰るか!」
「すごい電車乗って、新幹線も乗ってここまで来て、僕汗を拭くことしかしてないよ」
「しょーだん!冗談冗談!どんな顔するかなって思ってさ。面白かったよ」
「ありがとうって言うべきなの?」
クスクス笑う彼女の手にはこの地のガイドブック。
「ここ行こ!」
彼女が指差す場所は氷や雪に囲まれた教会のような場所だった。
「雪…見たいの!行こ!」
連れられてバスに乗る。ここからそこまで遠くはないらしい。10分ちょっとバスに揺られると目的の教会についた。
「着いたね!楽しみ!」
楽しみ、嬉しい、そんな言葉を連呼しながら走っていく彼女をゆっくり追いかける。荷物は僕が代わりに持っていることを忘れているか、忘れているふりをしているらしい。それでも走っていく彼女の笑顔がすごく眩しく見える。ずっと隣りにいたい、そう思った。
―僕は彼女に、恋をした。
「ほんとにすごいね」
夏休みでも平日だからか、教会の中は人が少なかった。窓越しに見える氷のオブジェや雪の結晶がモチーフにされたガラス張りの部屋。どれもが夏とは思えない、涼し気な様子。長い螺旋階段の真ん中には噴水のようなオブジェ。全てが美しい、その言葉では足りないくらいの綺麗で見入ってしまう魅力を持っている。
建物の真ん中の結婚式が行われる部分へ足を運ぶ。
「うわぁ……!」
「すごい」
「ね!」
高い天井に描かれた空の模様。幻想的。神秘的。そうなんだけど、その言葉では表しきれない。誰か、ぴったりな言葉を教えてほしい。そう願うほどのものだった。
それから何時間も同じところへ行ったりきたりしながら閉館の時間近くまで見てまわる。そろそろ閉館だからと外へ出ると空はもう暗く、夜になっていた。
「楽しかった…綺麗だった…雪って、こんな感じなんだなぁ……」
今日という時間を噛みしめるように言う彼女は表情を明るくして言った。
「お腹すいたね!ホテルとったんだよ、あ、ホテル代は私が出すから気にしないでね」
「そんな、悪いよ」
「大丈夫大丈夫、ついてきてくれてありがとう」
「…でも」
「大丈夫!バス来るよ!」
午後に降りたバス停からホテルに直通するバスが出ているというのでそこへ向かう。5分ほど夜風にあたって涼んでいるとすぐにバスが来た。
「本当に、一緒に来てくれてありがとう」
そう言いながら彼女はバスに乗り込んだ。僕も続く。今度は自分で荷物を持っていた。バスで移動している時も静かな時間が流れていく。教会をあとにしたのが悲しいようで、経験が嬉しいようで、複雑な表情を浮かべる彼女に僕は何も言えなかった。
「着いたね、ここだよ」
「え…!?」
「どうした?降りるよ?」
想像していたホテルと違って、驚いた。本当に高級そうというかなんというか。一流芸能人が止まるようなホテルだった。
「本当にここ?」
「そうだよ、スイートルームとかじゃないやつだけど許してねー」
軽くそう受け答えしながら彼女はチェックインをしに行ってしまった。今までに来たことがない大きなロビーを田舎者のように見渡す。本当に田舎者だということを少し忘れていた。ぼんやりと館内の装飾を見ていたら彼女が2つの鍵を持ってきた。
「夜は寝る直前まで私の部屋でゲームかなんかしようね」
「別にいいけど」
「決まりね!お部屋行こっか!」
館内の構造の想像もできない僕はただただ彼女についていく。エレベーターで7階まで上って、何回曲がったか分からないほど曲がって着いた隣り合った2つの部屋が僕達の部屋だった。
鍵を開けてからドアノブに力を込めた瞬間に、驚いた。広い。綺麗。大きい。初めて泊まる大きなホテルに頬が緩んだ。
「なにニヤニヤしてーんの」
ニヤニヤしながらそういう彼女の声で我に返り、「荷物置いたらゲームしに行くから」とだけ言ってドアを閉めた。荷物を置く動作なんて1分あれば終わるけど、ちょっとルームツアーという名のものがしてみたくて5分後くらいに彼女の部屋をノックした。
「遅かったね。部屋が大きくて気になっちゃった?」
またもニヤニヤしながらそう言う彼女の言葉で顔を赤らめる。
「別に…?」
「顔赤いよ、私がありったけの勇気を振り絞って告白した時くらい」
「別に…?」
「ま、良いや。ゲームでもする?ビデオゲーム持ってきたんだぁ」
だからあんなに荷物が重かったのか。何度も持たされたあのバッグの重さの理由がやっと解明された。
有名なゲームをいくつかしながら冗談を言い合って笑う。そんなことを夜中まで続け、彼女が眠いと言い出したので自室に戻ることにした。戻る直前、彼女はなるべく早く寝たいという思いが伝わる速さで言った。
「明日、10時のバスに乗って帰るから9時半、ドアの前集合ね!瑞瀬くんは朝苦手って感じだから8時には起きてね!」
よく重い瞼でそれを噛まずに言ったと思う。その後は僕が出ていく前にベッドに突っ伏して寝ていた。
朝、けたたましく響く電子音で7時半に目が覚めた。こんなに大きな音でアラームはつけていなかったから不思議に思い音に近づいて驚いた。そこには絶対に僕のではない目覚まし時計が入っていた。思い出した。一度だけ、荷物上に上げてあげるよ、って新幹線で彼女に荷物を預けたことがあった。あの時だな。そこからはあと30分しか寝れないし、10分ごとに鳴る目覚まし時計の止め方がわからなかったから仕方なく部屋を出る準備をすることにした。彼女のと思われる目覚まし時計の所為、いやおかげというべきか、30分前にはチェックアウトの準備ができていた。暇だから小説でも読もうかとバッグから本を出そうとした時。
「みーずーせーくん!起きたー?起きたよねさすがにー!」
「あのさ、時計…」
勢いよくドアを開けると「そんなに勢いよく開けると危ないじゃん」と頬をふくらます彼女がいた。
「僕のバッグに目覚まし時計入れたでしょ」
「えばれた!」
「逆にどこをどうしたらばれないと思えるの?」
「まぁまぁ、感謝してください!おかげで時間に余裕が持てるでしょ」
「僕遅刻したことないけど…」
「良いから良いから!さ、帰ろ!」
そう言いながら僕の背中を押しながら来た時みたいに様々な角を曲がってエレベーターに乗る。鍵を返してチェックアウトを済ませ、またバスに乗り込む。ホテルの窓側に座った彼女が「楽しかったなぁ」と声を漏らす。
「また来れば良いじゃん。教会も」
「……そうだね。」
少し寂しげな表情をしながらゆっくり進むバスの所為で見えなくなっていくホテルを名残惜しそうに見つめる。窓に手を置いて見ようとした時、何かに気がついてすぐに窓から手を離した。駅に直通するバスだから来る時よりもはやく駅に着くことができた。朝ご飯は各々で食べたからお昼の分だけ買っておく。彼女のお昼は行く時より少ない。
「食欲ないの?」
「ううん大丈夫」
終始寂しそうな彼女だったから行く時よりは少ない会話を交わしながら新幹線に乗った。
「今度は真面目に荷物上げてあげるよ」
ホテルを出てから久しぶりに見た彼女の笑顔に少し安心する。
「できれば目覚まし時計引き取ってくれると嬉しいけど」
「あげる。私のしょうこだね」
「証拠ってなに?」
何も言わず微笑む彼女は時計を出さずに僕の荷物を上に上げた。少しだけご飯を食べて、僕は眠くなってしまった。
「寝ていいよ」
「眠くないの?」
「私は起きてたいから大丈夫」
「そっか」
「うん…」
彼女はじっと窓の外を見つめている。少しうたた寝をして起きた後も、何一つ変わらず景色を見つめていた。ずっと、今見ている景色を目に焼き付けるように。
「瑞瀬くんもうすぐ着くよ!本当に一緒に来てくれてありがとう」
彼女は何かを振り払うように明るい声でそう言った。
「ううん、楽しかった」
「そっか、それなら私も嬉しい!」
在来線に乗り換える駅へ到着したことを知らせるアナウンスが鳴り、2人で荷物を持ってホームへ降りる。もうそれが普通になっていたから彼女の荷物も持とうとした。
「いいよいいよ!私自分のちゃんと持てる!」
「最初はずっと僕が持ってたけどね」
「ごめんごめん、持ちます持ちます!」
「うん。行こうか」
「そうだね!もう迷わないから着いてきて!」
「在来線のホームに行くのは得意だもんね」
「やっと特技が活かせるよ!」
張り切って大股で在来線のホームへ向かう彼女の後ろを少し小走りで追いかける。ちょうどホームに電車が来ていたから2人で乗り込んだ。
「最後の電車だね」
「ここからが長いけどね」
「まぁね、短いよりいいよ」
少しずつ田畑が増え、最寄り駅が近づいていく。
「終わっちゃうな、」
「また来よう」
「うん……。」
まだ終わってほしくない、という僕らの思いに逆らう時の流れは残酷だ。こんなにも楽しかったと思えた旅行は初めてだったから、終わってほしくないという思いは僕の中にも確実にあった。2人で少しずつ人が減っていく車内を眺めながら思い出話をする。2人で優雅なお昼ご飯を食べたねとか、遠い教会に行ったねとか。少しでも忘れるのが遅くなることを願いながら。それでもやっぱり何にでも終わりという瞬間が来るから、最寄駅へと到着してしまった。
「着いちゃった」
外はいつもの田舎町が広がっている。日は沈み始め、綺麗な夕日が海の水面で光り輝いている。最後の切符を改札で入れ、少し切ない気持ちになった。彼女はなぜか駅名が書かれている木製の看板を写真に収めた。
「この看板ならいつでも見られるよ」
「確かにそうかもね」
その後彼女はでも、と続ける。
「撮っておきたいの。……瑞瀬くん。本当に、ありがとう。楽しかったよ。ありがとう。」
「うん…君はありがとうってよく言ってくれるよね」
「いつ言えなくなるかわかんないからね。言える時に全部言おうと思ってるの」
少し茶色の髪を耳にかけて微笑む。
それを見て、思った。伝えられるうちに、伝える。僕は君に惹かれたこと。君の隣にこれからもいたいこと。
僕の想いを全部、君に伝えよう―。
「ちょっと歩こう?」
彼女が僕に会いに来てくれた場所で、伝えたかった。だから、少しだけ一緒に歩きたかった。
5分くらい2人で冗談を言い合いながら河川敷へ歩いた。
あの日と同じように2人並んで座って、昨日から撮った写真を少し眺めた。全ての写真で思い出を懐かしむように話したあと、僕は君に想いを伝えようと口を開く。
「あのさ、」
「うん?」
「…僕に会いに来てくれて、ありがとう。」
「どうしたの急に!」
「ずっと、思ってた。今までのたくさんの思い出ももちろんすごく大切で、大事で。
でも、ここで、君が告白してくれなかったら―。
僕と付き合ってなんて、言ってくれなかったら―。
だから、ここで君が初めて〝ずっと会いたかった〟って言ってくれた瞬間が、僕にとって何より大事な宝物になった。僕が道端に自転車を止めて河川敷で本を読んでいた時、君は白色のシャツに黄色いスカートで頬杖をつきながら僕の顔を覗き込んで言ってくれた。
〝付き合ってください〟
それが、一生忘れちゃいけない、大事な瞬間。
本当に、ありがとう。
君が駅で話してたことを聞いて、伝えないとなって思った。僕らの始まりのこの場所で。
この先も君が隣で、ずっと笑っててほしい―。」
彼女は少し驚いた表情で見つめる。
鼓動が聞こえてしまうくらいはやくなる―。
「……瑞瀬くん…」
「…」
「海、行こ」
「…え」
「海へ行くのに、理由はいらないんだよ、今度は自転車がないから、2人で歩こう?」
「うん…」
「よし!決まりね!行こう!」
そう言って僕の手を引く。あの日のように。2人で走ったり歩いたりを繰り返して夕日の差す浜辺に着いた。途中で靴下を急いで脱いで浅瀬に走っていく。あの日みたい。でも一つ違うのは、僕もついて行った所。誘われる前に、自分から靴下を脱いで彼女に手を引かれて、一緒に海へ入った。
「めずらしいね、自分から来るなんて!」
「うん」
「…瑞瀬くん、ごめんね。
君と私は、ずっと、一緒になれない。
私ね、幽霊なの―。
この前新幹線で、瑞瀬くん話してくれたよね。中学生の頃入院してた時に、会った女の人と病院の屋上で話したって。その時言ってくれたこと、今でも覚えてるよ。
学校も行けない、普通じゃない私に、君は大丈夫だよって、この先もちゃんと生きれるよって、言ってくれた。
あのね、その人、私だよ。
余命宣告もされてて、もう死んじゃう私だったけど、その時から大丈夫って思えた。
死んじゃったけど、人生楽しかったって思えた。
―瑞瀬君に、会えたから。
ありがとう、おかげで何故かは私もわからないけど、この夏だけはまた会いに来れた。
ずっと会いたかったよ。
たくさん思い出を作れて良かった。
ずっと入院っていう人生だったから、初めて雪も見れた。
本当に、楽しかった。
君が、好きだったよ。
今も、大好きだよ。
でも夏が終われば消えちゃうんだ。
ごめんね。
帰りのバスで、窓に手をついた時、手の周りが透けてる気がしてびっくりしちゃったよ。
でも、私がいた証拠があるから。
瑞瀬くん。私と一緒に夏を生きてくれて、ありがとう―。
またね―。」
そう言いながら薄れていく風夏の影を、ただ見つめることしかできない。あんなに眩しかった夏も、いつの間にか終わりを迎えていた。でもいつか、風夏が言っていたことを思い出す。
『死んじゃった人って、聴覚が最後の最後まで残るんだよ』
「ありがとう。ありがとうありがとう。ありがとう―。」
声のかぎり、叫ぶ。誰もいない海に。
風夏が最後、僕にかけようとした海水が彼女のいない海に雨のように落ちた。
あれから彼女の姿を見ることはなく、夏休みは終わり、9月になった。彼女が消えてしまった日からは夏の前の日常のように1人で向き合う時間が増えた。自然にスマホを触ることも減り、最後に河川敷で話しながら見た時以来、彼女との写真を見返すことがなくなってしまった。
「そろそろ、しっかりしないと」
自分を奮い立たせて制服に腕を通す。今日は始業式だ。また、普通の日が始まる。
ゆっくり歩きながら久しぶりにスマホを見返す。
涙が溢れた―。
彼女がいなかった。何の写真にも、いなかった。
『でも、私がいた証拠があるよ。』
あの日家から帰ってきてからベッドの枕元にずっと置いてある目覚まし時計。
彼女は確かに、いた。
僕は確かに、今でも彼女に想いを馳せている―。
彼女との日々は、本当によく見るストーリー。
若者の恋愛を儚く描いた、物語。
僕が主人公で、彼女がヒロイン。
突然の出会いで、いつの間にか惹かれて。
たくさんの思い出を作って、そしてそれを大事にして。
そして突然別れもやってくる。
あまりにも残酷な形で。
そんな僕の人生はまるで、青春小説。
僕の人生は、青春小説みたいだった―。