「なあ、教えてくれよ、婆さん。アンタの目には俺はどう映っているんだ?」

 それは考えても答えのないことだと知っていた。

 だからこそ、伊織は問いかけることを止められなかった。

「婆さん」

 消耗品として使い潰されるのが当然だった時代に生まれた姉弟の中でも、美香子は伊織のことを弟として可愛がっていた。

 そのことを忘れてはいない。

 忘れられないからこそ、縋りつくような真似をしてしまいそうになる。

「年を重ねた。人間は年を重ねるとおかしくなる。言葉も忘れちまったのか」

 人として生きた時代のことを思い出す。

 自分自身のことを人間だと信じていた時代は色褪せた。

 しかし、未だに伊織の中に残っている。

「人の子なんてそんなもんだ」

 年月と共に色褪せていく思い出は苦しいものばかりだ。

 今となっては、なぜ、自分自身のことを人間だと思えていたのか、わからない。人の身では使いこなすことさえも困難な大きな力は、人の姿を真似しただけの化け物としか思えない。

「なにも期待なんかしちゃいないさ」

 年月の中に埋もれていくだけの日々とは比べ物にならない時間を生きてきた。

 たかが二十数年の記憶に縋りつくのは意味のない行為だと自覚をしていながらも、人であった頃を手放す覚悟ができなかった。

「気を使うことなんかないさ。婆さん。アンタの親と同じ言葉を吐き捨ててくれても構わないぜ」

 無口で厳しかった父と穏やかな母の最期の言葉は同じだった。

 死んでいく彼らにしか認識ができない伊織の姿に対して怒りを示した。恐れを抱いた。そして、遠のいていく意識の中、彼らは伊織を返してくれと懇願した。

「この姿を視られた時には言われるだろうって覚悟を決めてるんだ。そうでもしなきゃ墓参りなんて出来やしねえからな」

 化け物だと拒絶した声はもう思い出せない。

 息子を返してくれと縋りついた両親の顔を思い出せない。

「はは、泣き叫んだってかまわねえよ。婆さんが泣き叫んでいようが、こんな寂れちまった田舎町じゃあ誰も聞いちゃいねえよ」

 両親には、鬼と化した伊織は息子ではなかったのだろう。

 呆然とした表情を浮かべている美香子にとっても、対峙している伊織は異常な存在として映ることだろう。

 行方をくらました七十年前よりも若々しい容姿、人ではないことを主張する角、悲痛な笑みを浮かべる伊織の口元からは鋭い牙が見えている。

「俺は生きている。アンタの弟だった山田伊織はずっと生きていた」

 生きている家族には理解のできない言葉を吐きながらも懇願した。

「戦火の中に燃え尽きちまった兄貴たちの元に逝ってねえよ」

 傍にいる伊織を見つけることもできず、遺品に縋りつく家族の姿は視ていられなかった。その光景だけが頭の中から消えてくれない。

「どいつもこいつも好き勝手なことを言いやがって腹が立っていたところだ」

 あやかしになりたくない。その手で殺してくれと何度も懇願した。

 人のままで死なせてくれと何度も縋りついた。

「アンタを食い殺しちまえば、くだらねえ過去から解放されるのかって思っていたところだ」

 その声は届くとはなく、伊織の帰りを泣きながら願い続けた両親の声を無視することもできずに七十年間生き続けてしまった。

 人間性は欠け落ちていく。

 待ち望んだはずの両親との再会は地獄のようなものだった。

「なーんてな。誰も信じやしねえことくらいはわかってんだよ」

 その姿は伊織の記憶の中に刻まれ、長い年月と共に記憶の奥底に埋もれていくことだろう。

「だから、なんとでも言えよ」

 彼らは伊織が生きていることを信じ、日々、激しくなる戦時中も生き抜いていた。いつか、再会をする日が来ることを心から信じていたのだろう。

「婆さんの言葉一つで振り回されるような生き方はしてねえからよ」

 それが叶ったのは彼らの死に際だった。

 個性的な兄たちは戦場で命を散らした。兄たちはどこにでもいる人間だった。

 姉や妹にも苦渋な日々が待っていたことだろう。

 ……あぁ。ダメだ。話が止まらなくなる。

 その時代を共に生き抜くことはできず、姿を消した伊織のことを恨んでいたのならば、どうしようもないことだったのだと諦めることができただろう。

 誰一人として、姿をくらました伊織に恨み言の一つも言わなかった。

 ……その目に映していてほしいと願ってしまう。

 人の身には相応しくない力を持っていても、どうすることもできなかった。

 国の為に兵器となる道を選び、人の道を外れた。

「……それとも俺のことなんて忘れちまったか。美香子姉さん」

 美香子はなにも言わない。

 それを咎めるようなことはせず、静かに美香子の腕を外した。

「それじゃあな、婆さん。精々長生きをしろよ」

 歩き始めようとする伊織の腕が再び掴まれた。

 本来ならば簡単に避けることのできる速さだ。それなのにもかかわらず、最低限の動きしかしなかったのは美香子の転倒を防ぐ為だった。

「伊織」

 美香子の声は震えていた。

「アンタ、生きとったんだねえ」

 それは年を重ねたことによるものなのか、今、目の前にしていることに対する理解が追い付いていないからなのか、わからない。それでも、この機会を逃すものかと言わんばかりの表情を浮かべていた。

「……なんだ。信じるのか」

「信じるも信じないもないよ。弟の顔を忘れるもんかい」

 美香子の言葉に対し、伊織は困ったように笑った。

 九十代となった美香子の目は昔よりも悪くなっていることだろう。

「あたしは一度だって忘れたことなんかなかったよ」

 年相応の変化が訪れている美香子とは異なり、人であった頃よりも若返っている伊織では感じるものも違うのかもしれない。

「母さんたちの命日になると菊を供えていったのはアンタだったんだねえ」

 美香子の皺だらけになった顔が歪む。

 必死に笑顔を作ろうとしているのにもかかわらず、涙脆くなった目からは大粒の涙が零れ落ちていく。

「終戦記念日に兄さんたちが好きだった酒や饅頭を供えていったのは、やっぱり、アンタだったんだねえ」

 それを確かめたかったのだろうか。

 地面を濡らす水を厭うことなく、美香子は年相応じゃない涙に濡れた顔を隠そうともしなかった。

「あたしは、きっと、そうじゃないかって、ずっと思っていたんだよ」

 ……バカバカしい。

 これは感動の再会ではないということを伊織は知っている。しかし、それを口にするのは野暮なことだとわかっているからこそ、美香子の涙を指で拭った。

「怖くねえのかよ」

「弟を怖がる姉がいるもんかい」

「両親は俺を否定した」

 ……この姿を視て怯えてくれた方が何百倍もいい。

 そうすれば諦めることができるだろう。

 こうして未練がましく墓参りをしなくてもよくなるだろう。