中央大陸の絶対的王者である李帝国は、古代より不可思議な力で守られている。いくつもの王朝を変え、王座を争いながらも李帝国は栄えてきた。

 しかし、李帝国を守る瑞獣の恩寵は薄れつつある。

 その兆候は、先々代皇帝の急死に関与したとされている先々代皇后による凶行以降、治まることなく、少しずつ進行していた。

「……空が割れた」

 李帝国の最北端に位置する断崖絶壁の山々に囲まれた豪雪地帯を領地とする玄家当主の娘、(シュエン) 香月(シャンユエ)は険しい顔で夜空を見上げていた。

「厄日か、災厄の前触れか」

 香月は占術の類が得意ではない。

 玄家に代々伝わるのは武功や呪術の類ばかりだ。

 ……結界の綻びが激しい。

 夜空は眩い光を放つ満月と様々な星で彩られ、多くの帝国民は気にもせずに凍える日を過ごしていることだろう。

 ……父上に報告しなければ。

 香月は夜空を睨みつける。

 香月の目には帝国を覆い尽くす結界が視えている。しかし、常に作動しているはずの結界に亀裂が入り、それは次第に大きくなっていく。

「どちらにしても厄介なのには変わりはないな」

 李帝国を覆う結界はまもなく意味をなさなくなるだろう。空が割れるほどの綻びは守護結界の方陣を編み出した仙人にしか直せない。

 それほどの規模になる前に手を施さなければならなかった。

 ……死者が動かなければいいが。

 キョンシーとなった死体は人を襲うことがある。死者の世界から戻ってこないようにする為の結界の亀裂が広がりつつあることを考えれば、キョンシーによって襲われる人が現れてもおかしくはない。

 人を襲う怪物を倒すのは道士の役目である。

 ……それも時間の問題か。

 香月には、結界の亀裂を直せない。

 李帝国の守護結界を維持するのは皇帝の義務だ。しかし、皇帝は自らの力を削ることなく、皇帝の後継者が生まれ育つ場所である後宮を利用し、その義務を果たしてきた。

 守護結界の方陣を覆い隠すように後宮がある。

 そのことを知る人は少ない。

 だからこそ、先々代皇后は当時の四夫人の暗殺という暴挙に出たのだろう。手に入れてしまった権力に溺れ、欲に溺れた先々代皇后は四神の怒りを買い、非業の死を遂げた。

 香月は先々代皇后の悲劇を知らない。

 しかし、それは二度と起きてはならないことだと幼い頃から父親に言い聞かされてきた。

 ……後宮に異変が起きたのだろうか?

 香月は後宮に関係する物事の詳細を知らない。

 香月は後宮に関わることがないように育てられており、今では北部地域を代表する玄家の次期当主であり、玄家が誇る道士でもある。玄家にだけ伝わる武功や呪術の多くを自分のものとし、その実力は玄家の祖である初代当主に迫る勢いだ。

 だからこそ、異変に気づいてしまった。

 ……守護結界は四夫人の気功によるもの。

 本来、守護結界に皇帝の力を注げばいい話だった。

 皇族である李家に流れる瑞獣、麒麟の力を元に作られたものを四神の守護を持つ四大世家の力を代用しようなどと考えたのが、間違いだったのかもしれない。

 ……四夫人になにか起きたのか?

 嫌な予感がする。

 皇帝の妃である四夫人の一人は、香月の異母姉だ。

 父親の妾が産んだ娘であり、玄家の一員として認知するなどの条件を受け入れ、三年前、後宮に送られていった。

 先代皇帝の急死に伴い、若くて即位をした皇帝の為に大幅な人員の入れ替えが起きたことにより、四夫人も再構成されたのだ。代々四夫人は四大世家から輩出することが決められている為、玄家は急遽当主の娘を用意しなければならなかった。

 ……翠蘭(スイラン)姉上。

 そこで選ばれたのが異母姉だった。

 異母姉、(シュエン) 翠蘭(スイラン)は物静かな女性だった。

 奥屋敷の寂れた物置小屋に足の悪い母親を手伝いながら、その日暮らしを強いられてきた。息を潜めて、不平不満を心の奥に閉じ込め、ただひたすらに母娘だけで生きていた。

 翠蘭の日常は、瞬く間に変わってしまった。

 母親の待遇改善と母親の幸せを願い、武功を身につけることなく、後宮の賢妃の座に座らされた。

 そんな哀れな異母姉の姿を思い出していた。

 ……貴女の身になにか起きたのだろうか。

 香月は翠蘭と言葉を交わしたことはない。

 三年前、賢妃になることを条件として一族に迎え入れられた日に翠蘭は籠に乗せられ、宮廷へと連れて行かれた。その姿を遠目で見ることしかできなかった。

 なにひとつ、声をかけることができなかった。

 許されなかったのだ。

 次期当主候補の筆頭である香月は翠蘭を認めていないという姿勢を貫くように、実母からきつく言い聞かされていた。実母は妾の存在を快く思っておらず、翠蘭の後宮入りにより本邸に居場所を与えられた妾を敵視していた。

 香月も実母の思惑を知っていた。

 しかし、逆らうことなどできなかった。そうすれば、愛娘を弄んだと言いがかりをつけて当主の妾を甚振るだろうと、簡単に想像できたからだ。

「香月お嬢様!」

 名を呼ばれ、香月は慌てて振り返る。

 慌ただしく駆け寄ってきた青年、(ワン) 雲嵐(ウンラン)の顔色は青ざめていた。

「雲嵐? 夜分は外に出るなと言い付けただろう」

 香月は雲嵐の頬に手を伸ばす。

 ……冷たい。

 吹雪は止んだが、雪が溶けることなく積もっている。武功で体温を上げている香月とは違い、武功の習得に恵まれなかった雲嵐の体は冷え切っている。

 雲嵐は病弱なわけではない。

 しかし、香月よりか弱く、男性にしては細身である。顔さえ見られなければ女性と思われてもおかしくはない見た目をしていた。

「お、お嬢様。その、手を離してください」

「どうして?」

「距離が近いのです。乳母子とはいえ、旦那様に叱られてしまいますので」

 雲嵐は目線を泳がせながら、必死に言い訳を口にする。玄家当主の娘と玄家に仕える女官の息子では、まともに近づくことさえも許されない。

 雲嵐の言葉は正しかった。

 ……寂しいと思うのは私だけだろうか。

 香月は雲嵐の頬に触れるのを止め、腕を下ろした。