帰蝶(きちょう)
「え?」
 聞き慣れない言葉に振り向く。そこには今まで見た事のない悲しそうな、淋しそうな表情の信長がいた。

「帰蝶?」
「蘭丸に聞いた。未来と連絡が取れたって?」
「えぇ。市さんとイチが……あ、イチというのは私の家の家政婦なんですけど、『共鳴』の力を使って繋がる事が出来ました。本当に市さんには感謝してもしきれません。」
「それでお前の父親がタイムマシンとやらを作ってくれるそうだな。もしそれが完成したら……お前は帰るのだろう?」
「当たり前じゃない。それが何?ダメだって言うの?」
「いや、ダメじゃないさ。お前達が元いた世界に帰れるなら、それに越した事はない。」
「じゃあ何で、そんな顔するのよ。調子狂うでしょ。」
 わざと明るく言ってこの重い空気を軽くしようとするが失敗した。信長の表情は依然変わらない。

「お前はいつか帰る。それは運命なのだろう。運命には抗えない。……お前の名は蝶子だったな。」
「え、えぇ……」
「だから帰蝶。いつか帰る蝶。俺がそう命名した。今からお前は濃姫ではなく、帰蝶だ。」
「帰蝶……」
 小さな声で呟く。それがこれからの自分の名前だという。蝶子は変な気持ちになりながらも質問した。

「どうして名前を変えるの?」
「この世界では、女は嫁ぐと名を改めるのが普通だ。本来ならお前もいつまでも『姫』ではないのだが、良い名が浮かばなくてな。先伸ばしになっていた。そんな時、お前達がいつか帰るという現実に直面した。それで一番初めに思いついたのがこの名だ。気にいらないか?」
「ううん。帰蝶って素敵だなって思ってた。ありがとう。」
 満面の笑顔でお礼を言うと、何故か信長が息を飲む。蝶子は不思議そうに首を傾げた。

「……用は済んだ。もう戻っていいぞ。」
 パッと顔を逸らしてまるでハエでも追い払うような仕草をする信長に、蝶子はムッとした。そのまま動かないでいると突然何かが飛んできた。

「キャッ……!」
「早く行けと言ってるだろう!」
 柱に当たって下に落ちたのは扇子だった。さっきとの変わりように驚いた蝶子の足は、ガクガクと震えて止まらない。出て行きたいのに体が動かなかった。

 このままでは殴られるかも知れない。そう思って目を瞑った時、頭に何かが触れた。それは信長の手だった。
「すまん。悪かった。俺が出るからお前は落ち着いたら戻ればいい。」
 そう言うと足早に部屋を出て行った。

「……怖かったぁ~…」
 信長の背中を見送って数秒後、蝶子は座り込んだ。
「帰蝶……か。何だかんだ言って信長も淋しいのかな。」
 ポツリと呟いた。

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