「…………」

 蘭は目の前の光景に絶句していた。
 奇声を上げて相手に向かっていく気迫と、絶え間無く聞こえる甲高い金属音。そしてバタバタと人が倒れる様。その苦悶の表情……

 信長の弟の信勝の軍との戦いの時は音だけで実際に戦の様子を見るのは初めてだった蘭は、余りの迫力と残酷さに思わず目を逸らしたくなる。それでも自分の役目を思い出しては、俯きそうになる顔を必死に堪えていた。

「それにしても……ホントにここで戦が起きるなんて……」
 別に家康を信じていなかった訳ではなかったが、歴史に名を残す有名な争いを目の当たりにして文字通り一歩も動けない。しかも今回の場合、未来を知っている蘭が教えた奇襲作戦という事で、どうにも変な気持ちだった。

 家康の言う通り今川の軍は間もなくしてここ、桶狭間にやって来た。耳を澄ましてみるとどうやら何処かの城を落としたとかで義元は機嫌が良く、戦中にも関わらず休息をとるようだった。
 その流れはまさしく歴史のテキスト通りで茫然としていると、家康の合図を受けた信長が馬に乗ったまま現れて、あっという間に織田軍と今川軍の戦い。つまり桶狭間の戦いが勃発したのだった。

 蘭はその時一瞬信長と目が合ったような気がしたのだが、圧倒的なオーラと凄まじい殺気に怯えている間にその姿は消えていた。そして何も出来ないまま、今に至る。

「あ!義元だ……」
 蘭は群集の向こうに織田軍相手に苦戦している今川義元を見つけた。
「情なんて沸かないと思ってたけど、一年以上も世話になったからやっぱり複雑だな……」
 義元を見つめながらそう呟く。しかし頭を振ってその思いを捨てると目を凝らした。

「あいつが『物体取り寄せ』の力を使う素振りを見せたら、俺は信長に合図をする。」
 握りこぶしを作って今一度気合いを入れた。

 義元は今は刀で応戦しているが、いつか絶対に力を使って得意の槍を取り寄せて反撃すると蘭は踏んでいた。
 それは信長の父親の信秀との戦いの時、突然槍が現れて驚いたという信長の話からもわかる通り、義元の奥の手だという事なのだろう。地元では「海道一の弓取り」と呼ばれているらしい。

 そんな義元を相手に何の対策もないまま戦うのは不安でいっぱいだった蘭はある事を思いついた。
 一年以上の間義元の側にいて、しかも『物体取り寄せ』の能力を使うところを何度も見てきたからこそ、力を使う時の義元の癖に気づいていた。

 力を使う前、義元は必ず目を瞑って右手を開いたり閉じたりする。それを数回繰り返した後に目を開き、次の瞬間には思い浮かべた物体が手の上や大きい物は中庭に現れるという流れであった。
 それを思い出した蘭は自分なら義元の癖を見抜けると確信して、今回この作戦を自ら提案したという事だった。

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