伊勢 春都《いせ はると》は1年生の春、同じクラスの藤原 杏《ふじはら あん》が、昨年かるた部が優勝した記録とその横に置かれているかるたに、触れている姿を目撃する。どこか懐かしむような微笑みを浮かべた彼女に一目惚れをした。

1年の冬、国語の授業で「隣の席の人について気づいたこと」を書く紙を渡され、春都は百人一首に選ばれている紫式部の「めぐり逢いて」の和歌を書き、隣の席の杏に渡したが、杏からは何も渡されなかった。
春都は、小学生の頃から百人一首が大好きだった。反対に、杏が百人一首に興味が無いことはこの1年間で分かっていたし、そもそも国語の授業が嫌いだということも分かっていたから返事が返ってこないという事も薄々分かっていた。

春になり、2年生の最初の登校日に下駄箱を覗くと1枚の封筒が入っていた。中には
「夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ」
とだけ書いていた。誰からか分からない封筒を持ちながら新しい自分の教室に入る。

係決めの時間で、去年も担任だった和泉先生が春都と杏を国語係に任命すると、早速夏のかるた大会に誰が出るかを決めることになった。この学校は2年前までかるた部があり全国的に有名だったが、春都が入学する年に廃部となった。理由は予算の問題だった。春都はかるた部に入るため強豪校であるこの学校を選んだのだが、この事を知った時はショックが大きすぎて入学早々三日程休んでしまった。

「誰か今年のかるた大会に選手として出てくれる人はいませんか?」
この学校で毎年夏休み中に行われるかるた大会は、他校からの人も集まって戦うトーナメント戦。この街全体が行う大きなイベントなため、優勝したチームは焼肉食べ放題の券が貰える。会場は本校なため、この学校に通う生徒は強制参加なのである。
本当ならどのチームもやる気を見せるのだが、このクラスは誰も興味が無いらしく各々で話をしている。 すると、クラスメイトであり杏の男友達の竹村が話しかけてきた。
「国語係の2人さ、名前からしてかるた強そうじゃん。俺らの代わりにやってくれよー」
「無理無理無理!私の国語の点数知ってるでしょ!?ギリ赤点の私なんかに百首覚えられるわけないじゃん!」
焦りつつも、笑顔で断る杏。「いや、赤点なんかーい!」とツッコミが入り、クラスにドッと笑いが生まれる。
「いいじゃん~!可愛い杏がかるたをやってる姿、私見てみたいな〜!」
札を払う素振りを見せながらギャルの森本が杏に言う。 杏は「あれの何が楽しいの…」と誰にも気づかれないような声で小さく呟いた。
話し合いの末、春都が出ることになった。

放課後、国語係として国語の教材を取りに行った帰りの廊下で春都は杏に話しかけた。
「百人一首はただのゲームなんかじゃないんだよ。当時の人の想いが詩になってるのを今の人が勝手にゲームとして遊んでるだけじゃん。どうしてあそこまで言うんだよ?」
春都は、杏の発言を聞いていた。
「…ごめんね。だけど、私はあんなのとはもう関わりたくないんだよ。」
杏は春都を見ないで言う。
「だけど俺なんかより藤原さんが出た方がみんな盛り上がると思うよ。」
春都は誰とでも仲良しな杏みたいな存在ではなく、1人で過ごすことが多い。だが、春都は“たかがかるた”ではなく、“かるたは面白い、楽しいもの”だと思ってもらいたいといつも考えていた。
そんな事を考えてる春都の横で杏は急に立ちどまり、少し泣きそうな声を張り上げた。
「別にいいじゃん!私はかるたが嫌いなの!大っ嫌いなの!!」
杏は、驚いて何も言えないでいる春都の横を走って通り過ぎる。春都はただ一人、廊下に取り残されてしまった。
 それから時は過ぎ、1学期の終業式を迎えていた。
「お前ら夏休みで予定詰め込むのは良いけど、8月3日はかるた大会が学校であるからちゃんと空けとけよ。」
担任がそう言って終礼が終わる。
クラスの皆は面倒くさいと愚痴っていたが、杏はただ周りの言葉に笑うだけだった。あれ以来、杏とはたまに国語係の仕事がある時だけ話すぐらいの関係になっていた。

春都はかるた大会が行われるまでの間、一人で練習をしていた。春都は百人一首が好きであるが強い訳では無いため、勝つために練習を数え切れないほどした。

当日、春都は緊張しながらも順調に練習の成果を出すことが出来た。
クラスからも沢山応援をもらったが、杏の姿はどこにもない。去年のかるた大会も休んでいたことを思い出しながら頬に垂れてきた汗を拭う。
「お前すげーな!やっぱかるたヲタクは違うね~!」
「ホントにスゴすぎ!!このままどんどん勝って皆で焼肉行こー!!!」
次の試合は準決勝戦。既にみんなの口は焼き肉のようだから頑張らないといけないなと思いつつ、春都は少し風にあたるため外に出る。少し歩いた所で、杏と他校らしき3人の男女が何やら話をしていた。盗み聞きは良くないとは思いつつ、少し聞いてしまった。
「久しぶりじゃん、元気?」
「試合に出なくなったから心配してたんだよ~?」
女子からクスクスと笑われながら質問されている杏の顔はとても青ざめていた。
「あの時の彼氏はどうしてんの?仲良くやってる?笑」
男の手が杏の頭を触ろうとした。咄嗟に春都は杏の元へ駆けつける。
気がつけば、春都は男の手首を掴んでいた。
「…誰だよ?」
睨みつける男は春都より遥かに身長が高くガタイもしっかりしていた。
「彼女に触るな」
春都が男に言うと、一人の女子が杏に質問をする。
「もしかしてあの時の彼氏くん?わー、すごーい。まだ付き合ってたんだ?笑」
春都には何の事なのか、さっぱり分からなかった。
もう少しで試合が再開する。相手の話を無視して彼女の手首を掴み、体育館に向かって歩き始める。
「おい、無視してんじゃねぇよ」
その声と同時に男は春都の背中を蹴る。
春都は地面に倒れ込む瞬間、手首が捻ってしまった。
「いい加減にして!暴力とか本当に昔から変わってないんだね!そんなんだから負けるんだよ!」
と杏は大声で言った。どこかで見たことがある光景だ。
女子たちは顔を赤くして怒鳴る。
「なんですって!?もういっぺん言ってみなさいよ!」
「何度でも言ってやるわ!あんた達なんかが優勝できるなら今の私だって余裕で優勝出来るんだから!!」


この言葉を俺は知ってる。なぜなら、俺も1度だけ言ったことがあるからだ。

 あれは7年前。姉が、俺たちが住んでいる県で行われるかるた大会に出たことがあり、応援するため家族で見に行った。そこで俺はかるたに興味が湧き、美しさを知り、彼女と出会った。県大会で戦っていた彼女を俺は遠くから眺めていた。俺は、試合で真剣な顔をしていた彼女の姿に心を奪われた。
試合は彼女の圧勝で、周りから注目を浴びていた。試合が終わってトレイに行った帰り、彼女が同い年ぐらいの男女に囲まれてるところに出くわした。
「どうせズルしたんでしょ!」
「この目立ちだがりや!」
俺は彼女の試合にとても感動をしたのに、そんな事を言うあいつらを許せなくて乗り込んだ。
そして俺は思ったことをそのままぶつけた。
「暴力振るうようなやつが勝てるわけないだろ!お前らなんかが優勝できるなら俺だって余裕で優勝出来るわ!!」
その後直ぐに周りが俺らのことを見始め、あいつらは捨て台詞を吐いて去っていった。
彼女は目に涙を溜めたまま「助けてくれてありがとう」と言った。
「さっきの試合、とても凄かった。いつかクイーンになれると思うよ」
そう言って俺もその場を去った。
あれから会うことはないと思っていたはずの俺の初恋の相手は、今の俺が一目惚れした女の子だったとは。

休憩時間終了の呼び掛けが聞こえると、男女は体育館に向かった。
「大丈夫!?私のせいで本当にごめんなさい。」
彼女は目に涙を溜めながら謝罪をする。
「これくらい大丈夫だよ。それより、藤原さんって7年前に県大会で戦ってた子だよね?」
彼女は俯きながら、「覚えてたんだ…」と小さな声をこぼし、頷く。
俺たちは2人で体育館に入る。次の対戦相手を確認すると、先程彼女を嘲笑っていた女だった。
「伊勢くんはもう休んでて。さっき私のせいで怪我させちゃったし後は私が出るよ。」
彼女は髪を結びながら試合の準備をする。
心配をする俺をよそに、「大丈夫、後は任せて」と笑顔を見せる彼女は昔の雰囲気を漂わせていた。
審判に事情を説明し、俺の代わりに彼女が出ることを承諾してもらう事ができた。
試合が始まると、既にその場の空気の重さが変わっていた。初めの一字で彼女が動き出す。誰もが彼女の動きに唖然とする。
俺もその1人だった。7年前の時よりも早く何枚も札を払う彼女誰よりも美しく、楽しそうだった。
かるた大会も終盤に迫っていた。決勝戦であの男と戦うことになったと知っても彼女は涼しい顔をしていた。
 決勝戦の試合が始まった。だが、彼女は今までにない速さで札を払い、相手に1枚も取らせないまま試合が終わってしまった。試合終了後、静寂に包まれていた会場は、一瞬で拍手や祝福の声に変わった。
 その後、彼らは今回の試合で他の対戦相手にも嫌がらせをしていたり脅していた事が発覚し、2位の座すら得ることが出来なかっただけでなく、停学処分にもなる等の噂が相次いだ。
彼女は街の主催者らしき人から焼肉食べ放題の券を受け取り、クラスの輪に入って沢山の祝福を浴びていた。 俺はそっとその場から離れようとするが、気がづけば彼女と一緒に皆から沢山の祝福をもらっていた。
 パタン…
現在、15時30分。本を読み始めて1時間が過ぎていた。目の前が川の日陰になった石階段は1時間以上いても暑くなくて心地が良い。
今日の夕方から、かるた大会で得た券を使って焼肉の食べ放題に行く。彼女のことを考えながらぼーっとしていると、後ろから自転車を停める音が聞こえた。さらにこちらに近づいてくる音までする。振り返ると、そこには彼女がいた。
「ここで何してるの?私も座っていい?」
「今日もあついねー」と手をパタパタとうちわ代わりにして仰ぐ彼女に俺は鼓動が高鳴る。俺は思わず閉じていた本を開いて読むふりをする。すると彼女が突然話し始めた。
「実はね、今年の4月に伊勢くんの下駄箱に封筒入れたの私なんだよね。」
「え?」
「去年、君からくれた和歌のお返事…というか…私の気持ちって言うか…」
 口をモゴモゴしながら手遊びをする彼女。俺は封筒に入っていた和歌を思い出す。
あの時の和歌は確か、「夏の夜は」から始まる詩だった。ピンとこない俺を見て彼女は少し笑いながら説明した。
「あの時助けてくれた伊勢くんに、もう一度会いたかったんだよね。だからこの高校は、かるた部が強いことで有名だしきっと来るだろうって思っていたから入学したの。だけどずっと心が苦しくて。。でも、入学式の日、伊勢くんに会えたから嬉しかった。今まで苦しかった時間が嘘みたいに短く感じたんだよね」
「だからあの和歌を送ろうと思ったの?」
俺が尋ねると彼女はうんと頷く。あの和歌のは「夏の短い夜はまだ宵のうちだと思っていたのに開けてしまった。」という詩だ。恐らくこの詩に似た感情だったのだろう。
 「どうして4月に返事を書いたの?去年でも良かったんじゃない?」
 その質問に、彼女は赤くなった顔を手で隠しながら渡す勇気がなかったからと答えた。そんな所も可愛くて仕方ない。
「ねぇ、去年のリベンジしたいんだけどいいかな?今の私ならちゃんと和歌を詠める気がするんだよね」
これは、気持ちを伝えるチャンスなのかもしれない。 国語の成績が良くない彼女なら和歌の意味も知らないだろうし俺の気持ちが知られずに伝えることが出来る。 そう思って俺はこの和歌を詠む。

由良のとを 渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな

この詩は「流れの激しい由良川の河口を漕ぎ渡る舟人が、櫂をなくして行く先も分からず流されてしまうように、これからどうなるのか分からない私の恋の道だ。」という意味。要するに告白をしてるようなものなのだが、彼女はあまり表情を変えずに和歌を詠み始める。

かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

意味は「こんなにあなたを恋い慕っているということさえ言えないのだから、伊吹山のさしも草のように燃える私の恋心を、あなたは知るはずもないのでしょうね。」である。
「い、意味わかってるのか!?俺に告白してるようなものだぞ!?」
「そっちだって告白してるのと一緒じゃん」
彼女は笑顔で俺の顔を覗き込み、そのまま俺の手に細い指を重ねる。俺の顔が燃えるように熱くなる。まさか意味がバレていたなんて想定外だった。俺を見つめる彼女の手を握り返し、一呼吸おいて詠みあげる。

 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな

 君のためには惜しくなかった命でさえ、結ばれた今となっては長くありたいと思うようになった。という意味だ。
 彼女が意味を理解したであろう瞬間、俺は彼女の頬にそっと、キスをした。