茹だるような猛暑。ここ数日にわか雨の気配すらなく、日中地上を照らし続ける太陽は、白い雲すら寄せ付けない。ソーダのような真っ青の空に浮かび人間たちを辟易させていた。
 三十二度を超えた京都の鴨川、涼しげな川の音も今では意味をなさない。唯一の利点は、イチャイチャしているカップルが軒並み消えたぐらいである。野良猫すらいない川は干上がるのではないかと心配になる。
「ちょっと、何してるの」
 滝の如く汗が流れ、干物一歩手前まで来た雪乃は、自身の名前通り白皙の顔を顰めて、目の前の男に呼び止めた。百均で購入したヘアゴムで、長ったらしい黒髪を束ねている合間に、連れの男が川の方へと歩き出していた。
 呼び止められた男は、ひょいっと肩をすくめて肩越しに振り返る。涼やかな美貌は、暑さなど全く感じていないかのように、形の良い唇で笑みを形作る。実際髪の毛も、服も、額も汗は滲んでいない。
 本当に人間か、この男。
「暑ぅてかなわんから、川の近くに寄ろうと思てな。ほら雪乃もこっちおいで」
「飛び込む気かと思った」
「あかんよ。ここは禁止されてるさかい、入りたいんやったら別のとこいかんと」
「いや私は入る気ないよ。というか暑いなら、どっかのカフェに移動しない? このままだと死ぬんだけど」
「大袈裟やねぇ。川の音聞いて、近くで目を瞑ってたら楽になれる」
「ああ、あの世にいけるってこと?」
「雪乃。死なんといて。みぃんな、置いていかはるさかい、ほんま嫌やわぁ」
 男とは思えぬ口調。標準語ではないだけではなく、しなのある語感は艶やかな美女を彷彿とさせる。彼の見た目も中性的で、男性用である鶯色の着物を身に纏っているとはいえ、妙に似合っていた。
 くすりと微笑み、口元に指を添える姿は艶やかで見る者を魅了する。
「雪乃は変わってはるなぁ」
「何が?」
「口調。こんな喋り方してると、皆離れていくんよ。男のくせに、って。ただ母のが移っただけなのにねぇ、不思議やわぁ」
「似合ってるし、いいんじゃない」
「ふ、雪乃は面白いわぁ」
 彼の面白いを素直に受け取るのは間違っていると、かなり前から気がついている。
 変人だという裏があるのは知っているからなと睨むが、彼は艶やかな笑みで誤魔化した。悲しいかな美形の笑みというのは有耶無耶にする効果がる。少なくとも雪乃には効果抜群だ。
「ちなみに、それって関西弁なの?」
「さぁ。知らへん。京都から出たこともないし、聞き比べなんてこともする気起きひんしねぇ」
「ふぅん。ねぇそれでもいいから、喋り方教えてよ」
 川に滑り落ちる失態を起こしそうな気がして、川辺で涼む男へ声を張り上げて教えを請うた。どんどん先に行こうとする男が、ようやく立ち止まり川の音から現実へと戻ってくる。
 大きな瞳が、まぁるく見開かれて数秒。何度か瞬きを繰り返して右上に視線を向けた。
 悩むそぶりではない、どう断るか算段しているな、と直感で分かった雪乃は半目で男を睨み付けた。教えても罰は当たらないだろう。
 むくれた雪乃に男は振り返り、袂を直す。苦笑しつつどうしたのものかと首をかしげた。
「いけずで断るつもりやあらへんよ。ただうちのが正しいとは思わへんさかい、習いたいとか覚えたいんやったら、ちゃんとした講師さんにお願いしはった方がええよ」
「ええ……」
 それはなかなかに恥ずかしい。理由が邪なせいだ。今度はこっちが視線を泳がす番で口ごもると、男が不思議そうにきょとんとした。
「何で習いたいん?」
「ええっとぉ」
 嘘か真実か。
 悩んだ末、全て見透かされそうだと観念して両手を上げる。
「色っぽい感じして、モテそうだなって」
「あきまへん」
 間髪なく断られた。
 それもいつもの柔らかさの欠片もなく、固く揺るがない拒否。珍しい声音に雪乃は疑問より驚きが先に来た。何故、と問いかけようと口を開く。
 が、それよりも早く。笑っているのに不機嫌さを醸し出す男が一歩前へ近づいた。じゃりじゃりと土を踏みしめて距離を縮める。ついに手を伸ばせば届くほどになったところで男が漸く立ち止まった。
 男が軽く膝を追って手をつき、雪乃の顔をのぞき込む。潤む瞳が細まり、上目遣いで見やる。首を小さく傾げた姿に、雪乃は固まって息を呑んだ。呼吸すら奪う、むせかえる程の色香――まるで男を惑わす妖艶な女に化けた妲己を彷彿とさせる。人間とは思えぬ程、美しくも妖しい。
「言うたやろ、離れんといてって。他の男を誘惑するなんて赦さへん」
「そんな、つもり――」
「自分で言うたやろ。そんなの、赦すはずあらへん」
「う、あの」
「それとも、なに、気になる人でもいてはるの?」
 ぶんぶん横に首を横に振った。声帯は機能してない、全て目の前の男に持って行かれてしまった。ぐるぐると眩暈が襲い、暑さも相まって冷静な思考が奪われている。ただ彼の、柔らかいはずなのに、獲物を狙う獣のような眼孔に従うしかなかった。
 恐怖ではない。ときめき、というと甘さがある。それよりも夜の匂いが強く辺りに充満している。閨で男女が絡み合うような映像が脳裏によぎり、顔が熱くなる。
 男は、そんな雪乃に満足したのか。しばらくじぃと見つめてから、にこりと笑って離れた。
「いけずなお人」
 そんな風に言ってから、耳元へ唇をよせた。頬がくっつき、耳朶に触れてびりびりと甘い痺れが走る。
 そっと低音の脳に響く声が、吐息混じりに囁いた。
「俺以外を誘惑したら、の身に骨の髄まで分からせてやるから、よく考えて、覚悟しながら行動しろよ」
 ――じゃなきゃ、噛みついて食っちまうかもな。
 ふっと離れた男は、やはり獰猛な獣のごとき、凶悪かつ艶美に笑って見せると、「うち、かき氷食べたいわぁ。雪乃は何味がええ?」などと夜の空気を霧散させた。
 心臓がうるさい。ああ、これではまるで。
 期待の二文字を振り切るように、雪乃は声を、喉の奥から絞り出した。
「いけずなのは、どっちよ……っっ!」
 叫びに男はからからと、愉しげに笑った。