ぽん、と後ろから肩を叩かれた。もう何年も居た欧州から帰国したばかりの私、神領舞白(しんりょう ましろ)は、そんなボディタッチには違和感を感じてしまう。ハグだとかチークキスだとか、そういったスキンシップはもう何とも思わなくなったんだけど。
「ねぇ。」
振り返った視線の先には、一人の男性が居た。
「あ、やっぱり舞白だ。僕のこと覚えてる?ほら、君が入学早々留学するまでの短い短いみじかぁ〜い期間、中学でおんなじクラスだった、蓮見だよ。蓮見日向(はすみ ひなた)。覚えてる?」
「……え?」
私は唖然としてしまった。だって、すっかり変わっていたから。
一人称は僕のままだけど、五年前は私より小さかった背は、もう二十センチも大きくなっている。顔立ちも、当時はどちらかというと可愛かったのだけど、今は精悍だが人好きのする、整ったものになっている。いや、顔についてはすでに前々から知ってはいたけど、やっぱり写真と実物は全く違う。
「嘘でしょ?いや、絶対嘘だよね。日向、もう別人だもん。ていうか、学校がかぶったのは短かったけど、そもそも小学校入学前からの付き合いでしょ。忘れるわけないよ。」
とても立ち話を出来るような天気でも気温でもなかったから、近くのカフェに入った。そこは懐かしいことに、当時彼とよく来た場所だった。
「で、なんで舞白は帰国してきたの?指名手配犯になっちゃった?」
思わず笑いがこぼれてしまう。彼の中身は、何一つ経っても変わっていない。
「そんなわけないでしょ、分かってるくせに。たまには親に顔を見せないといけな、って思って一時帰国してきたの。」
瞬間、目の前の顔から表情が抜け落ちた。
「一時帰国?また、ヨーロッパに戻るってこと?」
にこにことしている彼に、うん、とうなずく。やっぱり、さっきの顔は見間違えだったのだろう。名は体を表す、とよく言うように、日向はいつも笑顔を絶やさない、明るい陽だまりのような性格だから。
その後は、離れていた五年間の空白なんてなかったかのように、昔と同じように話をした。数十分後、日向の注文したカフェラテと、私の注文したシェカラートの入ったカップも空になったため、席を立つ。お会計をした後、ヒグラシが鳴き始める中、手を振って別れた。


―――暑い。暑すぎる。もうこれは、熱い、でしょ。
うだるような暑さの中、私は愚痴と汗をこぼしながら自転車のペダルをこいでいた。時刻は、もう十時を過ぎている。真夏の炎天下はもうすでに始まっていて、太陽の熱線はジリジリと肌に照りつけてくる。私の肌は黒くならない質だけど、日に焼けると肌がヒリヒリする。それが嫌で、欧州に居た頃は薄手の手首まである上着を羽織っていたのだけれど、日本の夏でそれは無理で、肘あたりまでの薄いシャツしか着れなかった。欧州の夏の空気はカラッとしているところが多いけど、日本の夏の空気は湿っていて、蒸し暑いから。
「ん?あれ、日向?」
キィッとブレーキをかける。日向が川縁の階段に座っているのが見えた。ハンドルを返し、Uターンして少し道を戻ったところの坂を下る。
「あ、舞白。おはよ、どうしたの?」
私が自転車を止める音で、彼は本からぱっと顔を上げた。こんなふうにびっくりしたときも、彼の顔からは笑顔が消えない。
「日向が見えたから戻ってきた。隣、座るね。」
私が座った後に、うん、と返事が来た。反応が微妙に遅いところも、昔から変わっていない。
「何でここで本なんか読んでるの?」
「両親がうるさくて。」
あぁ、と納得し、思い出し笑いをしてしまう。日向の両親は我が子が大好きすぎて、過保護気味だから。
私が昔、彼の家に遊びに行った時も、いつもそうだった。蓮見家の玄関をくぐるとまず、舞白ちゃんいらっしゃい、いつもありがとう、これからも日向と仲良くしてやってね、とにこにこ顔で歓迎を受ける。息子に仲のいい友達がいることがよほど嬉しいようで、歓迎の度合いがすごい。そのあとも何か必要なものはないか、室温は大丈夫か、とちょくちょく部屋に顔を出しては日向に追い返されていた。
ふと、彼が膝に広げている本に目が留まる。
「何読んでたの?」
世界史の教科書だよ、とくぐもった声で意外な返事が返ってくる。なぜか、彼は膝に顔をうずめていた。
「ふ〜ん。思ってたよりも、真面目。」
前ならサボってたはずなのになぁ、とぼやきながら、水筒の中のロイヤルミルクティを飲む。こればかりはマイメニューじゃないと美味しく感じられないから、自分で淹れてきたものだ。
「ひどいなぁ。僕だって、サボってばかりじゃないよ。来年は受験だし。」
せっかくの夏休みが勉強に溶けてっちゃう、と顔を上げて口をとがらせた後、かたわらにおいてあった『天然水』と書いてあるペットボトルを開く。シュワッという音とともに、炭酸特有の香りがそよ風にのってただよってくる。
「ペリエ?」
「うん、そうだよ。」
ペリエはフランス産の天然炭酸水の代表とも言える存在だ。そもそもは瓶詰めのそれがなぜペットボトルに入っているかといえば、割れるから嫌だ、と移し替えているから―――だったはず。以前はそうだった。
「……うぇ、ぬるい。」
当たり前でしょ、と呆れてしまう。ペットボトルは、私達の頭上にある道路橋から差す陰の内側に入っていなかったのだから。
「日向は昔からこれが大好きだよね。」
なんだかおかしくなって少し笑いながら彼をのぞき込むと、彼の顔は真っ赤になっていた。
「……どうしたの?え、もしかして、熱中症になっちゃっ―――」
「―――て。」
「ごめん、なんて言ったの?よく聞こえなくて。」
先程上を通った車の音が、遠ざかってゆく。日向は伏せていたまぶたを上げ、私の目をじっと見つめた。
「お願いだから、やめて。これ以上、僕を―――」
風が、吹く。彼の瞳は、私の後ろの川の輝きを映している。私は、なぜか彼から目が離せなくなった。
「―――僕を、おかしくしないで。これ以上夢中に……好きにさせないでよ。」
期待しちゃうじゃん、とつぶやいた彼の瞳で、涙が太陽の光を反射していた。
川の流れる柔らかい音にかぶさった心臓の鼓動が、妙に耳に響いていた。

 ◇◇◇◇◇

あぁ、ついに言ってしまった。
目を見開いてぽかんとしている彼女を見ながら、僕は後悔していた。言わなければよかった、と。でも、しょうがないじゃないか。五年ぶりに、あんな可愛い笑顔を見せられたんだ。感情が高ぶったまま言ってしまったのは、不可抗力だとしか言いようがない。
それに、舞白の不思議な色合いの双眸に見つめられてしまうと、僕は嘘がつけない。何でも言ってしまいそうになる。そして、僕をますます魅了してくる。今だって、苦しいくらい君のことが好きなのに。
でも、僕が君には不釣り合いだってことも、君が僕のことを何とも思っていないことも知っているから。だからせめて、影から見守ることだけは許して欲しい。
僕は、ぎゅっと閉じていた唇を動かした。

 ◇◇◇◇◇

私の頭の中を、彼との思い出が、まるで映画のフィルムみたいに高速で回っている。
「え、と。」
混乱する中、私は口を開いた。そのとき、日向も何かを言おうとした。
「あ、ごめん。先にどうぞ。」
ううん、君から言って、と、彼は微笑む。それに感謝しつつ、ずっと諦めていた言葉を言おうと、口を開く。
「私は―――」
あなたは昔から暖かくて、人気者で、私には到底手が届くとは思っていなかった。
でも―――
「―――私も……日向のことが、好き。」
小さく、笑ってみせる。次の瞬間、私は、大好きな幼馴染の腕の中に、居た。

 ◇◇◇◇◇

諦めの境地で、美しくて愛おしい彼女を見つめる。健康的だけど、フィギュアスケート選手らしく折れそうなほど細く、バレリーナのように均整の取れたスタイル。全体的に色素が薄いが不思議と存在感は強く、顔の造形はこの世のものとは思えないほど美しい。人間だとは思えないほど神秘的な彼女は、儚い見た目とは裏腹に、強い意志と口調、天才的な頭脳と身体能力、そして少々の強引さを持つ。ここまでくると、正真正銘の人間離れした生命体だ。
彼女はしばらく、背中の中ほどまである色素の薄い髪を、細くて真っ白な指先で肩口のあたりで弄んでいた。そして、何かを決意したかのような強い瞳でこちらを見つめ、瑞々しく、柔らかそうな舞白の紅い唇から言の葉を紡ぎだした。
歓喜のあまり、僕は、無意識のうちに彼女を抱きしめていた。

 ◇◇◇◇◇

昨日と同じ頃、ヒグラシの鳴き声に耳を傾けながら、私と日向はそれぞれの家に戻った。幸せをかみしめながら。
彼は、高校は欧州に進学する予定らしい。驚いたけど、それ以上に嬉しかった。もしそうなれば、欧州が拠点の私でも、もっと彼と会えるだろうから。


あれから三年。私達は再び、あの道路橋の下に来ていた。
一週間ほど前に、フィギュアスケートのオリンピックが開催された。そして、私はそこで優勝した。幸せを勝ち得てからは、自分でも信じられないほどの成長速度だった。
オリンピックでの演技構成は出場者の誰よりもレベルが高かったし、完成度も成功率も、誰よりも完璧だったと自負している。それは、私がSP(ショートプログラム)もFS(フリースケーティング)も、勿論総合でも世界最高得点を大幅に更新したことが証明している。
そして私は、フィギュアスケート界の真の女王の座を勝ち得た。
彼を諦めて離れる決意をし、欧州に渡ってから八年。色々あったけれど、ようやくこれまでの努力が実を結んだんだ。
不意に、涙がこぼれた。喜びのあふれる私が帰る場所は、あの時からいつも、大好きな彼の腕の中。
彼と二人で、幸せをかみしめながら歩いていく。今日も、明日も、一週間後も、一ヶ月後も、一年後も。

一生、永遠に……。