上階の宴も終わり、帳尻を合わせるみたいな静寂の夜半だった。
 まだ日も跨いでいないが疲れからか体感時間が二時間ほど現実の先を行ってしまっている感じがする。
 そんな気怠さの中、漫然とノートにペンを走らせていると控え目なノックの音が響いた。反射的に「どうぞー」と声を掛けると、志木さんがおずおずと顔を覗かせた。
 父と母はもう寝ているだろうから十中八九彼女だとは分かっていたが、風呂上りの紅潮した肌のせいかいつもと何か雰囲気が違っていてわずかに心臓が高鳴るのが分かる。

「どうかしました、か……それは?」

 努めて平静を装って彼女の方へ歩み寄るとすると、彼女は深々と頭を下げた。そして同時にその両手には賞状のように差し出される五千円札が一枚。

「さっき、庇ってくれたお礼なにかしなきゃなって。でも思いつくのがこれしかなくて……ごさしゅうください」

「いやいや、受け取れませんよ! 現金なんて」

「えー、じゃあ私に何かして欲しい事ない? なんでもするよー思春期特有のやつ以外なら!」

「頼みませんよそんなこと……! 分かってて言ってますよね」

「バレたかー」

 にへら笑いでおどけて見せて、そのまま志木さんは待ちの姿勢に入る。初めからこちらに提案させる算段だったのかもしれない。
 何かないかと考えるがそもそも特別なお礼をされることをした訳じゃないから悩ましい。
だが彼女は引き下がらなそうだし、何かを奢ってもらうというのが無難なところだろうか。ただ無難過ぎて彼女が難色を示す気もする。
 ふと、昼間の会話を思い出して、一つやりたいことを思い付いた。

「一緒に勉強してくれませんか。僕は気分転換になりますし。志木さんも課題やらないとって言ってましたよね」

「うっ、確かに課題残ってるけど……おしゃべりは禁止?」

「時々なら」

「じゃあやるっ! パソコン持ってくるから、リビング集合ね」

 パタパタと自室に飛び込む彼女の背中を見送り、勉強机から最低限のテキスト類と筆記用具を持って居間へ向かう。ダイニングテーブルを軽く拭いているとステッカーで装飾されたノートパソコンを抱えた志木さんが来て“お礼”が始まった。

 彼女は存外真面目にキーボードを叩く。ここまで真剣な表情はなんだか新鮮だった。
 この空間にはペンを走らせる音とキーボードをゆっくり叩く音が小さく響く。それがやけに心地よい。
 志木さんがやっているのは英語の課題らしい。時たま彼女が苦しげな表情でうめき声を上げるので教えたりもした。

「関係代名詞ってなんだっけ」

「ええ……マジですか」

「マジだから困っちゃうよね!」

 今日も外国人のお客さんと翻訳なしでコミュニケーション——単語と身振り手振りが主だったが——を取っていたのに、中学レベルの文法も怪しいというのは何とも彼女らしい。
 しばらくは喋りながらも課題に取り組んでいた志木さんだが、一時間ほど経ったところで徐々に静かになり、いつの間にか机に突っ伏してしまった。

「志木さん、寝るならちゃんと部屋戻らないと」

 顔の近くで机を指先でつつきながら呼びかけると、彼女は顔をゆっくりこちらに向けて目は閉じたまま口角だけフッと持ち上げて答えた。

「んー……佳奈恵ってまた呼んでくれなきゃ、やだ。起きない」

「えっ」

 狸寝入りだったことも、彼女の要求も意図が全く分からなかった。ただただ頭が混乱した。
 何かそういう脈略があったかと考えて、そういえば客間で彼女を呼んだとき、咄嗟に母の呼び方につられて下の名前で呼んでしまっていたことを思い出した。

「——佳奈恵さん、明日も早いですよ」

「ちぇ。ちょっとは照れるかと思ったのに。初日のウブな佳樹くんは何処に行っちゃったのかなー」

 冗談めかして不満を零し、椅子から立ち上がった志木さんは「眠いのはホントだから寝るね、おやすみ」とあくび混じりに言って廊下へ出た。
 一人残され、本当の静寂の中に廊下の奥から扉を閉める音が響く。同時に喉元で詰まっていた息と共に胸に留めていた感情が零れ落ちた。

「照れないわけないでしょ」

 彼女にバレてやしないだろうか、僕の今にも溢れてしまいそうなこの気持ちが。煩くて仕方がない心臓の拍動が。
 歳も、住む場所も、性格もかけ離れた彼女を想う気持ちがいっそ全部筒抜けなら楽になれるのだろうか。