その日の晩、『みかみ』はてんてこ舞いだった。まさに修羅場、一年に一度あるかないかの繁忙日だ。
「よし、盛り付け完了! 佳奈恵ちゃん、おぼん持ってちゃってー! 焦んなくて良いから溢さないように。佳樹とお父さんはごはん御櫃に移しちゃって」
「はーい! いってきます!」
母がキッチンからテキパキと指示を飛ばし、僕達は手足のようにいそいそと従う。
連泊の釣り人二組に加えてまた外国人の一人旅客が急遽入った。客室が全て埋まること自体珍しいのに、さらに釣り人達が意気投合したらしく、一つの部屋に集まって宴会の様相になってしまった。
本来時間をズラして処理するものを纏めて一気に熟さねばならず、こちらは大忙しなわけだ。
「佳樹、こっち終わったぞ」
「ありがとう父さん……ほんと助かるよ」
「たまにはな」
仕事終わりの父も、スーツの上からエプロンを付けて手伝ってくれている。
父は寡黙で、不要な事は口にせず、必要なこともあまり話さない。だが家族が困っている時は黙って助けてくれる人だ。
「じゃあ持ってくよ」
「うんよろしくー……って、そういえば佳奈恵ちゃん遅いわね。お客さんに捉まってるのかしら」
そう言われれば確かに遅い。志木さんが客間へ向かってもう五分以上経っている。
遅いと言ってもいつもテキパキしている彼女にしては、という程度だが何となく嫌な予感がする。
本来の倍重いお櫃を抱えて騒がしい客間の前まで行くと、馬鹿笑いの中にひときわ大きな声が聞こえた。
「お嬢ちゃんもほら、一緒に飲もうよ」
「いやー、ハハハ。無理ですよーお仕事中ですし」
「いいじゃんいいじゃん! あのおばちゃんに任せておけばさ。ほら隣空いてるよー」
急いで襖を開けると、四人の中年男性たちの中で一番年上らしきおじさんが片膝を立て、部屋を出ようとする志木さんの方へ手を伸ばさんとしていた。床には空の缶ビールが数本転がっていた。
僕の頭に、今までの人生で湧いたことのない類の感覚が走るのがわかった。名状し難いそれに一番近いのは、怒りだった。
「佳奈恵さん、下の人手足りてないです。行ってください」
「え、あっうん……!」
冷たい言い方になってしまったかもしれない。でも、とにかく志木さんをこの人たちから遠ざけたかった。
すれ違うように客間を出る彼女を横目で見送って、何事もなかったようにお櫃を床に置くと頭上から呂律の怪しい不快な喋り声が降ってくる。
「なんだよつれないなー。こんなショボいとこ、一人二人居なくても回るでしょー?」
酔っ払いの戯言、まともに受け取るだけ無駄だ。それに一応この人らは客で、僕がここでトラブルを起こしても責任は母に行ってしまう。
それは分かっていても彼らの無遠慮な言葉と、なによりも志木さんに絡んだ態度に、そして何もできない自分にどうしようもなく腹が立つ。
客の言葉をなんとか気にしないように聞き流しながら手を動かしていると、背後から母の声がした。
「すみませんねー。この子もあの子もうちの大事な働き手なので。“こんなところ”で油売ってられませんの。っと、そんなことより! はいこれ釣ってきてもらったお魚、色々調理しましたの。美味しいですよー、田舎料理がお口に合うか分かりませんけど、カレイは煮付にして——」
母は言葉の端々に棘を含ませながら牽制するように、しかし丁寧な態度で接客した。
客たちはその静かな怒りに驚いたのか、自分たちの発言の愚かさを自覚したのかは分からないが水を打ったように静かになった。多分前者だろう。
話の途中、母はこちらにさり気なく目配せをしてきた。それに甘えて急ぎ足で部屋を出て、階段を駆け下りる。
キッチンに入ると項垂れる志木さんがハッと顔を上げた。泣いてこそいないが、どこか怯えたような表情だった。
「ごめんね! 私、上手く躱せなくて時間喰っちゃって、迷惑かけちゃったよね……えと、次は何をするのかな? 陽子さんも上がってっちゃったみたいだけど」
「手が足りないのは嘘、というか適当な口実です。あと迷惑じゃないですし、志木さんは全く悪くないですから、謝らないでください」
僕はてっきりお客さんにセクハラをされてへこんでいるのかと思っていた。でも、彼女の中では僕らに迷惑をかけたことが一番比重の大きい問題になっているようだった。それは僕が持っている“志木佳奈恵像”から若干外れているような気がした。
彼女は僕の言葉を聞いて、安堵の溜息を吐いていつもの明るい笑顔に戻った。
「なんだ良かったー! 佳樹くんのあんな声初めて聴いたから、怒らせちゃったかと」
「あれは、すみません。おっさんにムカついただけです——そんなことより大丈夫でしたか? 触られたりとかしてないですか」
ちょうどそれを聞いたとき母が降りてきて、深刻な表情で「セクハラされてないかい?」と彼女の肩を抱きながら同じようなことを聞いた。騒ぎを聞きつけた父も中途半端に緩めたネクタイをぶら下げたまま居間へ入ってくる。
それから一瞬間があって、志木さんの瞳が涙ぐんだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「やっぱりなにかされたのね……!? あいつら、とっちめてやる!」
「違います違います!」
早合点して廊下へ出ようとする母を引き留めて、狼狽する僕と父とを見回して志木さんはふわりと笑った。
「こんなに心配して貰えるのが嬉しくって……私、ここに来てよかったなーって」
母はそんな彼女を愛おしそうに、そして力強く抱擁した。