「それでは! 二週間大変お世話になりました!」

 翌朝。昇る朝日を背に受けて、志木さんは深々と頭を下げた。
 どうしても初めて彼女と出会ったときのあの衝撃を思い出してしまう。

「またいつでも遊びに来ていいからね……!」

 涙目の母はそう言って志木さんを抱擁した。志木さんは曖昧に笑った後、力強く母の背中に腕を回した。横に立つ父もその光景を見て静かに頷いていた。
 熱い抱擁が緩やかに解け、母さんは車のエンジンをかけてくると先に離れていった。本当は空港まで車で送るつもりだったらしいが、志木さんが「ここの電車も結構好きだから」とそれを断って最寄りまでの送迎になったらしい。

「佳樹くん、色々とありがとね! 会えてよかった」

「僕も、同じです。向こうでも元気で」

 それが精一杯の別れの言葉だった。
 志木さんは一瞬何かを言おうと口を開けて、それからまたあの眩しい笑顔で「うん!」と返事をしてそれきり。
 僕は車に乗り込む彼女の後姿を、そして遠ざかっていく車をただただ見ていることしかできなかった。

 別れは想像していたよりもずっとあっさりしたものだった。

 車が角を曲がったのを見送って部屋へ戻ろうと踵を返したそのとき、父の穏やかな声がした。

「佳樹、無理に大人になろうとしなくていいんだからな」

「——急にどうしたの父さん」

 父の二の句は無かった。
 僕は父が言葉の意味するところを必死に考えないようにして、早足で自室へ逃げ込んだ。

 鬱陶しいくらい爽やかな風に揺れるカーテンに目が行って、それから視界の端に映った勉強机の上に一枚の紙が置かれていることに気が付いた。
 起きたときには確かに無かったはずのそれを恐る恐る手に取ると、それは手紙だった。
 差出人の名前は無かったが、丸みを帯びながらも美しい形をした字には見覚えがあった。なにより思い当たるのは一人しかいない。

『佳樹くんへ。直接だと恥ずかしいし、どうせ私は素直に喋れないので手紙を書きました。』

 そんな書き出しの僕へ宛てた手紙。
 それを上から下まで読んで、気が付けば僕は部屋を飛び出していた。

「ごめん父さん! ちょっと行ってくる!」

「ああ、気を付けて。でも急げよ」

 大急ぎで足を靴に滑り込ませ、自転車の鍵を鷲掴みにして再び外に飛び出す。
 志木さんにもう一度会うために。ちゃんと伝えるべきことを伝えるために。

『私は君を騙していました。昨日は隠しきれてなかったけど、私は君が思うよりずっとダメダメな人間です。』

「はぁ……! はぁ……!」

 坂道を全速力で降りながら、彼女の手紙の内容が何度も何度も頭の中を反響する。

『私がここに来たのは現実逃避のためでした。人生を賭けていたバスケが出来なくなり、不貞腐れた私は高校までの交友関係を切ってしまって、大学にも馴染めませんでした。実は私も友達が居ません。』

 この道も、あの店も全て志木さんと通った場所だ。
 彼女が居なければ僕が知ることのなかったこの町の人々の顔が自然と頭に浮かんでくる。そして僕の隣にはずっと彼女の笑顔があった。

『本当の私は仕様がない人間です。佳樹くんは行動的なところをカッコイイと褒めてくれたけど、私はただ立ち止まるのが怖くて動き回っているだけなんです。』

「違う……!」

『昨日河川敷で話を聞いて、私は今まさに人生の汽水域に居るのかもしれないと思いました。グルグル回っている水流に捉まっているのが私です。でも、みかみで過ごした日々のおかげで私もなんとか前に進めるかもしれないと思えました。』

 駅に続くメインストリートに入ったところで、ちょうど信号待ちをしている母の車とすれ違った。

「まだ間に合う! 一番ホーム!」

 人もまばらな早朝の町に母の声がコダマした。
 ペダルを踏みしめる足に一層力が籠った。

『佳樹くんも自分に自信が無いみたいだけれど、私は君のこと優しくて頭も良くて芯がある魅力的な人だと思います。そんな君に救われた私が言うのだから間違いないです。』

 乗り捨てるように自転車を飛び降りようとして、やはり志木さんのようにはいかず転びそうになったのをなんとか耐えて、心の中で謝罪しながらドアもついていない改札を駆け抜けた。
 とにかく必死だった。

『本当に君のカッコイイお姉さんであるために、頑張って海に出られるように藻掻いてみようと思います。もう会うことはないかもしれないけど、どうかお元気で。』

 視線の先にはホームに立つ志木さんの姿と、その奥には見慣れたオンボロ電車が迫ってきているのが見える。残された時間はもう残りわずかだ。

「し……佳奈恵さん!」

「ええ!? 佳樹くん!? びっくりしたー。え、どうし——」

 息は絶え絶え、全身が重いし、頭は全く働かない。
 視界は歪んで彼女が今どんな顔をしているのかも分からない。
 だからただ自分の想いをぶつけるしか今の僕には術がない。

「佳奈恵さんは、ダメダメでも情けなくもないです。アナタがそう思ってても、その部分もひっくるめて僕はアナタが好きです! ——僕、絶対東京の大学行きますから! 会いに行きます! だからっ」

 電車が止まる金属の摩擦音によって僕の言葉はそこで遮られてしまった。そしてすぐに発車を知らせるアナウンスがされた。
 正真正銘、彼女と話す最後のチャンスだ。せめて別れの言葉くらいはちゃんと伝えたい。
 そう思って顔を上げると、電車に乗り込んで悪戯っ子のような笑みを浮かべる志木さんと目が合った。

「佳樹くん、手紙の裏面見てないでしょ」

「裏……?」

「待ってるからね。バイバイ」

 どういうことか聞こうとしたが、そこでドアが閉まってしまった。車窓越しに彼女は手を振りながら少し泣いていた。

 そのまま茫然と立ち尽くしていた僕は、駅員のおじいさんに軽く叱られた後、先ほど出し切った気力さらに振り絞ってなんとか家に帰った。
 “手紙の裏面”という志木さんの最後の言葉の意味をとにかく早く確かめたくて、何か聞きたそうな父と母を通り過ぎて、自室の勉強机の前に再び立った。
 意を決して、手紙をひっくり返す。

『君のことが好きなのは本当です。困らせるって分かっているのに、気持ちの制御もできませんでした。こんな私でも良ければメッセージください。志木佳奈恵』

 その下にはメッセージアプリの名前と、彼女のIDと思しきものが書かれていた。

 その日から、僕があの汽水域の高架下に行くことは無くなったが、美しい思い出の場所として心に刻まれた風景になった。

 問わず語りの汽水域。