火曜日。
 夕陽があたりを橙色に包む中で、平田くんはまたノートを手に鳥を書いているようだった。

「いつからいるの?」
「お姉さん。一時間くらい前から。母さんの見舞いの帰りだよ。母さん、検査終わって、明日帰宅するみたいだ。転移はなかったって。手術まではまだ日があるから帰宅なんだってさ」
「良かったね!」

 安堵感からか、平田くんはこの日、笑顔も出て饒舌だった。

 平田くんが見かねて「離婚しなよ」と言ったから、お母さんは離婚して、地元に戻ってきたこと。でも、平田くんの母方の祖父母は他界していて、頼れるのはお母さんの友人や知り合いだけで、今は父親からの養育費と、お母さんの看護師の給与で生活していること。

「本当はあいつからの養育費なんて、と思うんだけど、俺が学生だから、ないとやっていけないんだ。それなのに登校拒否してちゃだめだよな」
「平田くんは、本当はどうしたいの? 高校行きたい? それとも働きたい? 勉強したいなら、高校にこだわらなくても、定時制や通信制、高卒認定試験といったのもあるよ。合格すれば高卒扱いになるし、大学も受けられる。もう少し家で考えたいのなら留年する手もある」
「親の負担を考えると、留年はできないよ。経済的には働くのが一番だと思う」
「それはそうだと思うけど、私が聞いてるのは平田くんがどうしたいかだよ」

 私の真剣な声に、平田くんは、しばらくの間考えるような顔をした。

「正直、わからないんだ。でも、絵を描くのは好きだと思う。勉強できるなら、美術の勉強をしてみたい」
「そっか。平田くん、絵、本当に上手だものね。そしたら、やっぱり大学に行きたいよね」
「でも、美大はお金がかかる気がする」
「奨学金制度を利用する手もあるけど、返済は大変だと思うよ。ただ、本当に覚悟があればチャレンジしてみる価値はあるんじゃないかな。大学でアルバイトもしてさ」
「そうか。今まで具体的に考えたことなかったや。それに、高校のことも……。行かなきゃとは思っても、高校に行かせるお金を稼ぐのがどんなに大変かまで考えられてなかった。俺、もっとちゃんと考えないと」

 私は前かがみになって、自信なさげな顔になった平田くんの背中をポンと叩いた。

「経済的なことは私にはよくわからないところがあるけれど、それでもね、自分がどんな道を選ぶかはしっかり考えてみてほしい。諦めるのは早いと思うの。いろんな手段があるはずよ。それを自分で調べるなり、先生に聞くなりしてみたら?」
「担任の先生は……正直苦手なんだ。俺、反抗しちゃったし」
「だったら、美術の先生に聞けばいいじゃない?」
「それは、そっか。学校、行けるかな、俺」
「行きたくないならすぐには無理しなくてもいいとは思うけれどね。つまづいても、違う道を探せばいいし、案外なんとかなるものだよ。けれど、なにかをしても、しなくても時間は過ぎて行ってしまう。だから、後でしとけばよかった、って思ってほしくはないかな」
「お姉さん、なんだか先生みたいだね」

 平田くんの言葉に心臓が跳ね上がった。
 
「平田くん、私、実は……」

 罪悪感に耐えられなくなって、教育実習生であることを告げようとしたときだった。

「あれ? もしかして、あそこにいるの、瀬戸先生じゃない?」

 という女子の声が上から聞こえてきた。

 私は反射的に平田くんの顔を見た。彼は驚愕するような顔をしていて、私と目があった瞬間、その顔が怒りと悲しみに歪んだ。

「なんだ、お姉さん、先生だから俺に構ったの? 学校に行かせようとして?」

 冷たい一言を投げると、平田くんは自転車に飛び乗った。そして、私の返事を聞かずに去っていった。

「あ~、やっぱり瀬戸先生だ! さっきの誰ですか?」
「部活帰りなの? お疲れ様。彼はね、ちょっとした知り合い」
「知り合い? 変な言い方」
「綾~、先生なんだか困ってるみたいだからそれ以上訊くのやめなよ」

 二人組の女子は確かバスケットボール部の子たちだった気がする。
 私は彼女たちの歩く、土手の道まで上がって、彼女たちの隣に並んだ。

「こんな時間まで部活してるの?」
「そうですよ~。練習しないと勝てないしね」
「今どきの高生は忙しいんですよ」
「そんなの、私も四年前まで高校生だったんだから、知ってるよ?」
「そっか! 先生、まだ大学生だもんね! なんだか不思議な感じ!」
「そう?」
「だって私たちより大人な感じだもん」
「そりゃあ、もう成人してるからね」
 
 私は彼女たちと他愛のない会話をしながらも、私の頭は平田くんのことでいっぱいだった。こんな形で知られたくなかったのに。
 もう、彼は私に会ってくれないかもしれない。

「先生、そこのパン屋さん美味しいよ。知ってる?」
「うん。よく買ってるよ。地元だから美味しいの、知ってた」
「え? 先生もしかして、ウチらの学校の卒業生なの?」
「そうだよ~。だから、教育実習中は実家から通ってるんだよ」
「じゃあ、先生、実習終わったら戻るの? 教育大学だったよね」
「そうそう」
「え~、今週までですよね。寂しくなる!」
「帰省したときにひょっこり出会うかもよ?」
「そうだといいな~!」
「私たち、こっちだから。先生、さっき邪魔しちゃったならごめんね」
「そんなんじゃないから大丈夫。気を付けて帰ってね」
「「は~い」」

 元気に手を振る彼女たちを見て、なんだか複雑な気持ちになった。生徒ひとり一人に関われば、きっといろんな事情が見えてくるんだろうけれど、いつも楽しそうに高校に通う生徒たちはなんてすごいんだろう。今は学校に毎日通うことさえ難しい子供たちがたくさんいるのだ。精神的にも。経済的にも。

 平田くん。
 私は本当に君の話を聞くだけで、結局力になれなかった。
 このまま私は大学に戻るのかな。彼とはもう会うこともできずに。
 彼に嫌われたままで。

 それは悲しいと思った。
 
 学校に来る来ないではなくて、平田くんの心の傷を少しでも浅くしたかったんだけどな。
 桜庭先生の言う通り、私には難しかったのかもしれない。