「ねぇママ。僕が大人になったら、あの子に会える?」

「きっと会えるよ、きっと」

次々と耐えることなく頭に浮かんでくるセリフを、ノートに1文字ずつ丁寧に綴る。
薄汚く、どこか懐かしい言葉を並べて、あたかも綺麗な台詞であるかのように綴られた物語は、拭っても拭いきれない汚れがくっきりと跡を残していた。

なんのために物語を作り続けているのか、今となってはよく分からない。
ただ、忘れてはいけない何かを思い出すために、ずっと青い夢を描いているのかもしれない。

そんな薄汚い創り物の物語とは裏腹に、ふと美しい映像が頭の中で映し出される。
脳裏に浮かぶ彼女との記憶は、どんな思い出よりも美しく鮮明に流れてきた。

「⋯綺麗だな」

何故か僕の心を寂しくさせる彼女。思い出せるのはたったひとつのシーンだけ。とても小さな美しい女の子となにか大切なことを約束するシーン。

脳内で繰り返し流れ続ける映像は鮮明すぎて、まるで現実に起こっているよう錯覚できた。

そんな純白な思い出に縛られている僕は、まだ1歩踏み出せずにいる。

「ダメだ⋯」

彼女のことが頭から離れず、続きの台詞が思い浮かばなくなった。

薄暗い僕の部屋にある、存在感がないベッドの上に寝転がってうつ伏せになる。
いつだって記憶に残っている彼女。名前も顔も知らないのに、何故か他人だと思えなかった。


それに何故か、彼女はずっと、記憶の中で僕を縛り続けているような気がした⋯。

数十分たっても続きが出てきそうにないので、今日はここで辞めることにした。だるい身体を起こして机に向かう。

不格好に置いてあるノートを鍵付きの引き出しに仕舞う。
引き出しの鍵には、可愛らしい星のチャームが着いており、古びた鉄臭い鍵を、単色の星のチャームが鮮やかに彩っていた。

お腹がすいたので晩御飯を食べようと、自分の部屋を出て、ゆったりとした足取りでリビングへ向かう。
距離なんてそんなにないのにとても長く感じられる廊下には、リビングの光が漏れていて、なんとも言えない重たい空気が流れ出ていた。

ドアノブに手をかけて少し立ち止まる。
口角を少しあげて表情を明るくし、リビングへ入る。

鼓動は次第に早くなり、リビングの重たい空気感に耐えられなかった。

ふと台所を見ると、母さんが立っていた。

「母さん⋯晩御飯できた?」

「⋯そこに置いてあるでしょ」

冷たく指を指した先にご飯はなく、ただお皿とお箸が並んであるだけだった。それも、3人分。

「⋯ありがとう」

僕の母さんが普通じゃないのは間違いない、事実だ。
でも、前は優しくておっとりとした人だった。


⋯父さんが全てを狂わせた。

僕らは3人家族だった。
なんの変哲もない、退屈な日常を楽しく鮮やかに彩ってくれた父さん。深い愛情と美味しいご飯、いつも寄り添ってくれた事で、僕をいっぱい幸せにしてくれた母さん。

そんな両親の元に産まれた僕はとても幸せだった。


―― でも、幸せはそう長く続かなかった。



父さんは会社でのストレスが増え、日に日に母さんに当たるようになっていった。母さんも反論せず必死に従って、怒られないように自分の気持ちは表に出さなかった。でも、僕は知っている。夜に独りで静かに泣いていた事を。

知ってしまった ―― 。


幼い子供でも親に気を使うのは一丁前に上手で、些細な変化に気づいてあげられる。
親は唯一の味方だということを、気づかずにひとりで我慢する。

家庭の悪い部分を知ってしまった子供は、幼いながらに必死に考えを巡らせる。
至った結果はどうであれ、知ってしまった子供は何も知らなかったあの頃にはもう戻れない⋯。

成長していくにつれてだんだん知っていくことには問題ないと思う。

ただ、幼い子供が知るにはまだ重たすぎる話だということ。


父さんと母さんが喧嘩をするようになって、母さんはやつれて部屋に籠ってしまい、父さんは一言も言葉を発さなくなった。
それからしばらくして、父さんはなんの音沙汰もなしに出ていった。

母さんはひたすら泣いて、ひたすら叫んでいた。

悲しかったわけじゃない。きっと、生涯をかけて愛するつもりだった人を失った苦しみ、生き地獄から開放された喜び、これからの心配、色々なものが積み重なって感情があふれでてしまったのだ。

だからこそ、どうしていいのか全く分からなかった。

変なことを言って、結果責め立ててしまっては意味が無いだろう。
必死に考えて、考えて、気を使って最終的には僕まで疲れてしまった。
僕は弱いから、後のことばかり考えてしまって、宥めることすらもできないまま⋯。

あの日以来母さんはずっとこの調子で、まともな生活を送っていない。

重たい空気感に耐えられず、気分転換に外に出ることにした。

「⋯母さん、コンビニ行ってくるね」

もちろん反応はない。念の為
コンビニへ行くとは言ったものの、コンビニとは反対方向に足が進む。

僕にとって何年経っても劣化することはなく、綺麗なあの思い出の場所へと向かっていた。


思い出の場所に着くと、いつもの定位置に座って景色を見渡す。

「やっぱ、今日も綺麗だな⋯」

あまりにも静かすぎる思い出の場所は、淡い月の光に照らされて美しく輝いていた。

大きく息を吸って、空を見上げる。空にはたくさんの星が輝きを放ちながら泳いでいた。