思い出の場所は昨日と全く同じ景色で、色褪せることも無く美しく密かに存在していた。

「1人になりたい時、いいことがあった時、歩いことがあった時⋯。色んな時に僕はこの景色を見に来た」

彼女は懐かしむような表情で傍に座る。

「菜乃花くん⋯。お姉ちゃんも⋯死ぬ前に1度ここに来た。病院から出ちゃダメだって言われてたのに、目を離した隙にお姉ちゃんは病院を飛び出した」

どこか遠くを見つめるような瞳で文字を並べていく彼女の姿は、少し蒼と似ている部分があった。

「体力もないのに、歩いて⋯必死に歩いて⋯。ここで、誰かとの思い出に浸ってた。死ぬ前に1度逢いたかった、お姉ちゃんはそう言って繰り返し思い出話を私に聞かせてくれた」

「僕は⋯忘れていたのに⋯」

なぜ忘れてしまったのか、昨日の夜に自問自答を繰り返したが、答えは見つからなかった。

そして、夢の中で彼女に会うことは無かった。

「思い出の相手は菜乃花くんだったんだね⋯。そういえば、お姉ちゃんは昔のことだから忘れていても仕方がない、って言ってた⋯。忘れていても、それでもいいって⋯。お姉ちゃんには、菜乃花くんしかいなかったから」

「僕しか⋯?」

「うん。もちろん私も、家族もお姉ちゃんの味方だった。でも、家族は近すぎる。そうでしょ?だから程よい距離感を保つことが出来る友達は菜乃花くんしかいなかったんだと思う」

うっすらと涙を浮かべながら蒼のことを話す樋渡さんの表情は悲しそうだった。
けど、樋渡さんは前を向いていた。しっかりとした目で、事実を受け入れて、僕より遥かに強い人だった。

「昨日⋯僕に逢いに来てくれたのかな」

樋渡さんは僕の問いかけに答えず、そっと僕の足元を指さす。

「⋯ハンカチ、落ちてるよ」

下を見ると、先程までは何も無かったはずの僕の足元にハンカチが置かれてあった。綺麗にたたんであるハンカチには、確かに涙のような後がしっかりと染み付いていた。

「返しに来てくれたんだと思うよ⋯もしかしたら、ずっと菜乃花くんのこと見守ってたのかもね⋯」

「そうなのかな⋯そしたらみっともないところ沢山見られてるね」

「お姉ちゃんはいつも菜乃花くんのこと弱虫だって言ってた」

「それって悪口?」

冗談交じりに笑いながら問いかける。

「ううん、弱いけど⋯優しい子だって。目が離せなくて、でも、困った時とかいざと言う時には役に立つ子だって」

「⋯そっか、うん。嬉しい、嬉しいよ」

何故か蒼がどこかで見ている気がして、泣けなかった。涙を見せたくなかったから、泣くのを我慢した。多分これも蒼にはバレバレなんだろうけど⋯。

「今日は⋯ありがとう。樋渡さんのおかげで、ちゃんと知ることが出来たし、お別れすることも出来た」

「私こそ⋯もう一度お姉ちゃんに会えた気がした。だから⋯ありがとう。お姉ちゃんと出会ってくれて」

菜乃花くんはにっこりと笑ってその場を後にした。

思い出の場所を去っていく背中を見て思ったことがある。菜乃花くんはお姉ちゃんが言うように弱かった。だけど、誰よりも強い意志を持っているということ。誰よりも、信じることが出来る人だってこと。

あと、去り際にお姉ちゃんの笑顔が君の背中にうっすらと浮かんで見えたのは内緒にしておく⋯。

きっとお姉ちゃんも、菜乃花くんに逢えて良かっただろうね。