……うわ、最悪。雨降り始めた……



6月の第4木曜日。



もう人生で何回目か分からない、5限目の授業。



数学のノートを開いた途端、勉強をめんどくさがる俺の気持ちを代弁するかのように、空は泣き始めた。



今日降るって言ってなかっただろ……と、頭の中で天気予報に文句を言う。



雨の日は嫌いだ。



雨が地面に弾かれる音がした瞬間、心がかき乱されるから。



雨音はまるで、父親に反吐が出るような思いをしていても、何も出来ない無力な俺を独りにしたがっているようで……



辛くて、寂しい。



学校の傘借りるか……邪魔だし、自転車は置いて歩いて帰ろ。



そして、いつものあそこへ行こう。



その日全ての授業が終わり、「柳高校」と書かれた傘を手にし、学校を出る。



学校から少し離れて、俺は背負っていたリュックからヘッドフォンを取り出した。



それは、俺が単に曲を聴きたいのもあるけど、雨音を聞かないためでもあった。



そうすれば、心をかき乱されることはない。



頭の中に広がる自由な世界。



そこはペガサスが空を駆け回り、そよ風と木々たちが音を奏で、木漏れ日の下で愛を囁き会う恋人たちの暮らす世界。



優しい、ピアノの音。



そんなことを思い浮かべていると、あっという間に目的地に到着した。



そこは、大きな川に跨る橋の下。



雨の日は、危ないのは承知の上でここへ来る。



理由は簡単。



雨が降りかかってくるのを防げるからだ。



それなら家でもいいけど、家にはアイツがいるから帰りたくない。



そんな時、1粒の雨水も許さないかのように俺を守ってくれるその場所は、とても心地がいい。



橋は、まるで大きな傘だ。



そしてそっと目を閉じて、ただひたすらに、曲と自分の世界に身を委ねる。



その時聴こえてくるピアノ、シンセサイザー、ドラムといった楽器の音は、この上ない幸せで俺を包み込んでくれる。



雨の日に橋の下なんて誰も来ないから、誰にも邪魔されない、音楽を聴くのにピッタリの場所……



だった。



今の今まで。



今日はそこに人がいた。



でもそれは、邪魔されただとか、俺の場所を奪われただとかの、苛立ちの気持ちなんかではなかった。



むしろ、今までにない胸の高鳴りを覚えた。



そこにいたのは、大学生くらいに見える、1人の女性だった。



彼女は、そこで本を読んでいた。



横髪を耳にかけて、まるで絵画のように、静かに。



しかし、耳にかけた髪ははらりとまた落ちてきて、



彼女の読書の邪魔をする。



その光景は、まだ流れ続けている曲をも聴こえなくしてしまうくらいの、大きな衝撃を俺に与えた。



「綺麗………」



あまりにも無意識に出たその言葉に、自分でも驚きを覚える。



「……ああ、」



これが恋か。それも一目惚れ。



17年生きてきて初めての感情に、心臓はうるさく音を立てる。



今まで恋なんて感情は無駄だと思っていたけど、そんな考えは一瞬にして消え去った。



ドクン、ドクン。



その音を抑えられないまま、俺は彼女の横まで行く。



彼女もこちらに気づき、パチッと目が合う。



なんだこれ……目が、離せない。



俺が固まっていると。



「こんにちは」



そう言って、彼女はニコッと微笑んだ。



その笑顔があまりに眩しくて、今は快晴だという錯覚に陥る。



その感覚は、音楽を聴いている時と同じような感覚だった。



俺はヘッドフォンを首にかけ、急いで返事をする。



「あ、えっ、こんにちは」



めっちゃ声裏返った最悪……っ



改めて自分の恋愛経験不足さを思い知る。



そんな俺に気が付かないまま、彼女は会話を続ける。



「君も雨宿り……って、違うか。傘もってるもんね」



「あ、はい……雨の日は、ここに来るんです」



「そっか。あ、もしかして私お邪魔?なら私すぐ……」



傘をもっていないからここに来たはずなのに、この雨の中わざわざ俺に気を使って帰ろうとする彼女を、慌てて引き止める。



「あっ、いや、全然大丈夫っす。俺、音楽聴くだけで
……」



「そう?なら私も引き続き本読もっかな」



彼女の声は明るさを失わないまま、俺の耳へと伝えられる。



でも、俺は不快感を覚えた。



本、という単語に。



俺は、雨と同様に本も嫌いなのだ。



アイツ……俺の父親が有名な小説家で、でも小説を愛しすぎたが故に、家庭のことなどどうでも良いといったような様子だからだ。




母さんが病で倒れた時でさえ、心配の一言も無しに、編集者との打ち合わせがあると言って入院手続きをさっさと済ませ、病院を後にした。



家では常に自分の部屋に籠り小説を書いている。



だから家事をしようなんて思いはどこにもなく、母さんが入院している今、家の全ての家事を俺がしている。



でも、俺はまだ子供だ。



母さんの入院費を払っているのは父さんで、家賃を払っているのも父さん。



いくら相手が自分最優先のクズでも、俺は何もすることが出来ない。



本という単語を耳にしたり、実際に本を目にする度、その自分の無力さに押しつぶされそうになる。



そんな俺にとって、図書館や本屋は地獄同然の場所だ。



「……え、ねえ、ちょっと君!」



彼女の声で俺はハッと我に返る。



「大丈夫?すごく、辛そうな顔してたけど……」



顔に出てたのか……何、心配させてんだよ、俺。



「すみません、大丈夫です……」



そう言うと、彼女は立ち上がり、俺に顔をグイッと近づけた。



「あんな顔見せられちゃ、その「大丈夫」は信じられないな〜。制服着てるし高校生だよね、こういう時は大人に頼りなさいっ。安心して、私相談のるのとか結構得意だから!」



自信に満ち溢れた表情でそう言ってきた彼女に、笑いが込み上げてくる。



「ふっ、あは、あははっ」



「えっ、ちょっと、なんで笑うの!?あっ、相談にのるの得意って信じてないでしょ!」



滲み出てくる涙を拭いながら答える。



「いや、すみません。自信満々な表情が、なんだか子供みたいで……ふっ」



「子供みたいって……もう!私20歳(はたち)なんですけど〜?」



怒っているような口調で話す彼女が、とても愛らしかった。



成人済みの彼女に、まだ高校3年生の俺がそう思うのは失礼だろうか。



やっと笑いが止まってきて、俺は思う。



この人になら、話してみても……いや、話したい。



「じゃあ、つまらない話なんですけど、聞いてもらってもいいですか」



そう聞くと、彼女は



「もちろんっ、君に二度とあんな顔させないように頑張る!私に任せてっ!」



と言ってガッツポーズをして見せた。



……明るくて、優しい人だ。



そう思いながら、俺はその場に座り事情を説明した。



聞き終えた彼女は、俺の右隣で穏やかな……いや、少し切なそうな顔を浮かべていた。



そんな表情も、綺麗だ。



「……うん、そっかそっか。本好きな私からしたら少し悲しい話だったね」



「……すみません」



「あっ、いや、謝らなくていいよ!……私ね、本に救われたことがあるんだ。中学で、いじめられてた時なんだけどね」



「え……」



突然明かされたその事実に、言葉が出てこない。



彼女は謝らなくていいと言ってくれたけど、つらい過去を思い出させてしまった自分を責める。



「小学校から仲良かった友達がいたの。ずっと一緒だよ、って言って、馬鹿な私はその言葉を信じて疑わなかった。でも実際はそんなこと思ってなくて、私は簡単に友達に捨てられた。考えても、なんで私があんなことをされなくちゃいけなかったのか分からなくて、それが余計に辛かった」



川の流れへと向けられている彼女の視線。



瞳には悲しさが浮かんでいた。



「それから私、その子とクラス同じだから教室にいるのが辛くなって、休憩時間は常に図書室にいたの。暇だから本を読んでたんだけど、毎日読んでいくうちに、本の面白さに気づいて。それに、本だけは絶対に私を裏切らなかった。どんなに悲しいお話でも、私の心は高揚するばかり。そんな本の魅力に気がついてからは、本を読んでいない日なんてないかな」



内心、あまり信じることが出来ない。



アイツの書いているものが、この人みたいに誰かを救っている?



……いや、そんなはずない。



自分の家族を犠牲にしてまで書く小説なんて、よくないに決まっている。



そう思い下を向くと、頬を両手で挟まれた。



そして、顔の向きを変えられ、彼女と目が合う。



でも、恋愛経験がない俺にとって、その距離はあまりに刺激が強く、すぐに目を逸らしてしまう。



「信じてないでしょ?でも、ちょっとでいいから読んでみない?私、君にどうしても本を好きになって欲しいの。この私の気持ちを、君にも知ってもらいたい」



彼女の瞳は不思議だ。



感情が伝わってきやすい。



綺麗なのも相まって、俺はその目力に圧倒される。



読んでみるか……?



彼女の瞳に負け、彼女のバッグの上に置いてある本を手に取ろうとした時。



「あっ!」



彼女は声を上げた。



「そういえば私たち自己紹介してない!」



「………あ」



恋というものがあまりにもやっかいな感情で、すっかり忘れてしまっていた。



「えっと、じゃあ私から!私は泉日向。さっきも言ったけど20歳で、そこの柳大学に通ってる大学2年生。好きなことは……これもさっきから言ってるけど本を読むことかな。これからどんな付き合いになるか分からないけど、よろしくね」



泉日向……さん。



綺麗な名前だ。



「えっ……と、俺は水原葵……です。柳高校の3年で17歳です。好きなことは音楽を聴くことです。よろしくお願いします」



「うん!葵くん音楽好きなんだね。じゃあそんな葵くんには……これかな!」



彼女……泉さんは、用意されていたかのように、バッグの中から俺に合った小説を取り出した。



表紙には『午前0時のオーケストラ』と書いてある。



……いや、今はそれよりも。



「あ、あの、名前……」



しれっと葵くん呼びされ、俺の心臓はうるささを増す。



「あっ、もしかして嫌だった?ごめんね、じゃあ水原くんって……」



「いや、違くて……っ嫌なわけ、ないじゃないですか……」



だって、俺はあなたのことが好きなのだから。



でも、この気持ちを口に出すには、まだあまりに準備が出来ていない。



そんな自分が悔しい。



泉さんは、俺がそんなことを思っているなんて、想像もしていないだろう。



なぜなら……ほら、今だって、



「そう?なら葵くんって呼ぶねっ」



なんて言って、嬉しそうに笑顔を向けてきているのだから。



恋に落ちるというのは、幸せなことだ。



それを、この数十分間で実感する。



「あの、泉さん……」



「あ、日向でいいよ」



「じゃ、じゃあ……日向さん」



「うん、何?」



「この本は……」



「あ、この本?『午前0時のオーケストラ』っていう本で、有名な作家さんの作品なの。プロのヴァイオリン奏者の父を持つ主人公は、自分の才能の無さに絶望して、もうヴァイオリンの道は諦めようとするの。でも、そんな時にふらっと立ち寄ったジャズバーで聴いた演奏が、主人公の心にすごく響いて。主人公はその音が忘れられなくて、そのジャズバーでアルバイトを始めることに、って感じのお話。中々うまくいかない主人公に感情移入がしやすくて、主人公に嬉しい出来事があったら読者まで……って、ごめん!話しすぎちゃった。大好きな本だから、つい……」



黙って聞いている俺が退屈しているように見えたのか、慌てて謝る日向さん。



俺は全然退屈なんかしていない。



本のことを話す時の日向さんは、ただ話している時の何倍も楽しそうだ。



だから、俺は退屈どころか、そんな日向さんをもっと見てみたいと思った。



「いえ、よかったです。日向さんが楽しそうで」



口には出さないものの、俺のために夢中になって本の説明をしてくれる日向さんは、愛らしくもあった。



「あはは、お恥ずかしい……」



そして決意する。



「俺、読んでみようと思います、この本」



父さんが作り上げているのは、どんなものなのか。



この目で確かめてみたい。



もしかすると、そんなに悪いものでは無いのかもしれない。



この短時間で俺にそう思わせるほどに、日向さんの瞳には不思議な説得力がある。



日向さんは、俺の言葉に心から嬉しそうに笑った。



「ほんと!?あ、でも無理はしないでね。無理して読んでもっと本が嫌いになっちゃったら、本にとっても葵くんにとっても、マイナスでしかないからね」



「大丈夫です。日向さん曰く、大好きな本だそうですから」



「……!うんっ」



雨音が響く中、俺は日向さんから本を受け取り、ページをめくっていった。



約50分後。



全部で4章あるこの小説の、1章を読み終えた。



簡潔に言うと、この小説は思っていたより何倍も面白かった。



まだ物語の4分の1しか読んでいないのにも関わらず、この本を読み終えたあと、俺の、世界や父親に対する価値観は変わるだろうと確信した。



この小説の世界に入り、そして知る、たくさんの感情の交差、サブキャラの意味深な発言、好奇心を煽る熱い展開……



読み始めてから、一度も胸の高鳴りが治まらなかった。



既に50分経っていることが信じられないほど、あっという間に『2章 共鳴』とだけ書かれたページにたどり着く。



その瞬間、周りが雨音で一斉にうるさくなる。



そこで俺は、あることに気がついた。



小説を読んでいる間、雨音が聞こえていなかったことに。



それは多分、音楽を聴いている時や、日向さんに一目惚れをした時の感覚と同じものなのだと思う。



日向さんは今、俺の隣で本を読んでいる。



小説の世界に入っている時の感覚を知った身としては、その世界から出させるのは気が引けるが、どうしても本の感想を言いたくて、日向さんに声をかける。



「日向さん、日向さん」



「あっ!ごめんね、本に夢中になっちゃって。お、1章読み終えた?どう、この小説?」



「すごく良かったです!」



待ち望んでいたその質問に、俺は食い気味で返事をする。



「あの、説明下手かもしれないんですけど、音楽聴いてるときと同じ感覚になれたんです。雨の音が聞こえなくなって、この小説の世界に入り込んだっていうか、演奏の音がほんとに聞こえてきて……」



「わっ、めちゃくちゃ分かる!」



日向さんは、俺の語彙力が残念なのにも関わらず、すかさず共感してくれる。



日向さんの好きなもの……いや、今となっては俺の好きなものとなった“本”に関して日向さんと語り合えるのは、思っていたより何倍も楽しい。



今までは、本を手に取るどころか、本がどんなものなのか知ろうとすらしなかった。



ただ、家庭環境を悪くしてしまう原因の1つだと、決めつけていた。



でも、父さんだって、一生懸命なのだ。



頑張っているのだ。



それが理解できないほど、俺は子どもではない。



父さんのことが好きになれた訳ではない。



でも、昨日より少しだけ、大人になれた気がする。



そう思えたとき、雨が止んだ。



「主人公のヴァイオリンの音色が……って、あ!雨止んだね」



いつもなら、雨が止んで嬉しいはずなのに、今日は素直に喜べない。



雨が止んだら、きっと日向さんは行ってしまう。



この小説だって、読みかけで終わってしまう。



やっぱり、勝手に降り始めて勝手に止む、自分勝手な雨なんて嫌いだ。



「葵くん、私、帰らなくちゃ」



ああ……やっぱり



予想的中か、と足元に視線が行く。



でも日向さんは、この小説を持って帰ろうとはしなかった。



「あっ、その本は葵くんが持ってて」



「えっ?」



「まだ読み終わってないのに、持って帰るなんてことしないよ。その代わり、この質問に答えて。葵くん、まだ本は嫌い?」



今までにないほど穏やかに微笑んで、そう問いかけてきた。



そんなの。



「もう、嫌いなはずないじゃないですか。それどころか、好きも超えて大好きです。日向さん、俺に本を好きになるきっかけを与えてくれて、ありがとうございます」



「ううん、お礼を言うのはこっち。本を好きになってくれて、ありがとう」



その一言には、涙が出そうになった。



彼女の温かさがあってこその出会いと別れだ。



でもこの別れは、再会がある“別れ”だ。



俺は彼女に問いかける。



「日向さん、また、会えますよね?」



日向さんは少し驚いた顔をしたけど、俺の目を真っ直ぐ見て言った。



「うんっ、雨の日に、きっとね」



そして、俺たちは逆方向に向かって歩みを進める。



鼻の下をくすぐるこの雨上がりの香りは、嫌いじゃない。



そう思いながら振り返ると、もう彼女の姿は見えなかった。



嫌いな雨のせいで橋の下へ行き、そこで彼女に一目惚れをして、本を好きになった……なんて。



今思えば、



「……変なの」



でも、悪くない。



それは、とある6月の第3木曜日に起こった出来事。



その日は、雨が降っていた。