にこにこして、僕の話に耳をかたむけていたチヒロ。

 急に機嫌をそこねたチヒロ……。

 そこかしこに残るチヒロの影が、僕の意識をからめ取って、がんじがらめにする。

 追想にふけり、いったいどれだけ立ち尽くしていたんだろう。

 ドアをノックする音が、僕を現実に引きもどした。

「善巳。ちょっといいか。疲れてるとこ悪いけど、話がしたいんだよ、父さん」

 いまは勘弁(かんべん)して欲しい。でも(こば)めずに、父の声を聞き入れてドアを開けた。

 父さんは、アイスコーヒーのグラスをふたつ乗せたトレーを持っていた。

 にこやかだった顔は、部屋に入るなり、しかめっつらになった。

「おいおい、熱中症になっちゃうぞ。なんでエアコンをつけないんだよ」

 小言をこぼしつつ、トレーをテーブルに置いてリモコンのボタンを押した。

「あっついな。まあ、強運転にしたからすぐ涼しくなるだろう」

 ぶつぶつ言いながらラグの上に尻をつき、あぐらをかいた。
 そして、

「善巳もほら、座れよ」

 と笑って手招いた。

 父さんがこんなふうにあらたまって、僕の部屋に来るなんていつぶりだろう。

 僕はちょっと身がまえて、テーブルをはさんだ父さんの向かい側に腰を下ろした。

 父さんはミルクピッチャーに入った特濃豆乳を、アイスコーヒーにそそいだ。
 うちはヘルシーを重視する母さんのこだわりで、コーヒーにコーヒーフレッシュや牛乳を使わない。

 僕も豆乳をすこし入れて、ストローでかき混ぜた。

 父さんと僕。
 ふたりがかき鳴らす氷とグラスのぶつかる音が、カランカランと蒸し暑い部屋に響いた。

 父さんはアイスコーヒーの3分の1をストローで一気に吸いあげた。背をちょっとまるめた姿勢でグラスをトレーにもどし、正面から僕を見やった。

「善巳さ。なにか悩み……あるのか」

 やさしく、気づかわしげな問いかただった。

「悩み?」

 と僕は首をかしげた。

「いや、ほら。べつにさ、学校でなにかあったんなら無理して行かなくていいし、大学受験もやめたっていいんだし。
 期末テストではずいぶんがんばって成績をあげてたらしいけど……寝る時間まで削ってやる必要はないって、俺とお母さんは思ってるんだ」

「あぁー」

 僕は苦笑し、うなずいた。

「だいじょうぶだよ。期末のときはたしかにかなり無理してがんばったけど、なんかあれからスイッチが切れちゃったっていうか……。まぁ、そのへんは心配いらないから」

「そうか」

 父さんはきゅっと口を引き結んで頬をゆるめ、ストローでグラスのなかをかき混ぜた。

 氷が溶けてきて、カラカラいう音がさっきよりちいさく響いた。

 エアコンの吹きだし口から流れる強めの風が、父さんの頭頂部の髪を揺らしている。
 毛量はまだふっさりしているけど、白髪がだいぶ目立ってきた。

 沈黙が苦痛になってきたとき、

「宮古島へは……」

 と父さんが口を開いた。

「ひとりで行ったんだな。どうした? クラスの男友だちと行くって言ってたよな。俺とお母さんにそんなうそをつく必要があったのか?」

 責めているような口ぶりではなかった。

「友だちと行く予定だったのが、ドタキャンされたのか?」

 こんどは、そうっと僕に近づくような、探るニュアンスが感じられた。

「違うよ。はじめからひとりで行くつもりだったんだ。
 でも母さんが心配して反対するかもって思ったから、友だちと行くって言っておいたんだよ。
 うそをついて悪かったって反省してる、いまは」

「そうか。そういう理由か。……まぁ、たしかに母さんはちょっと心配性なところがあるからなぁ。とくにおまえに関しては。
 だけどやっぱり、うそはいけないよな。子どもにうそをつかせてしまう、親もいけないんだけどさ」

 父さんは自嘲的に笑い、じぶんの腕をさすった。
 寒いわけではなく、無意識にしているようだった。

 顔を斜めにすこしうつむけて、ひかえめな視線を僕へ向け、

「彼女は……」

 と父さんは言いかけて、ふいに口をつぐんだ。
 
 僕が軽く眉をひそめると、父さんはわずかに首を振り、

「もしも、さ」

 と明るく話しだした。

「もし心のなかでモヤモヤだとかイライラだとかザワザワだとか……、まあそういうもんがあるなら、俺にぶつけていいんだからな。遠慮なく」

「え。べつにないけど。……俺、ようすがおかしいように見える?」

「ああ」

 父さんは妙に自信を持って言い、背筋を伸ばした。
 黒縁眼鏡のフレームを指で持ちあげ、まっすぐに僕を見つめる。

 親子でよく似ていると言われる、人がよさげな顔。
 父さんのレンズの奥の目はひどくまじめで、あたたかく見守るようなやさしさがこもっている。