頭が痛いという僕の訴えを受けた主治医の先生は、頭部のCT検査をしてくれた。

 でも、異常はなにも見つからなかった。

 学生みたいに若く見える男の先生は、かろやかな口調で言った。

「呼吸が一時止まってたからね。まだ血中(けっちゅう)酸素濃度が低いな。ちょっと酸素吸っておこうか」

 先生の指示で看護師さんが、病室の壁に設置された配管に酸素マスクの器具をつなげてくれた。

 横になって鼻と口にマスクをあてがっていたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。

 はっと目覚めると、母さんがいた。

善巳(よしみ)……」

 母さんは微笑みを浮かべかけたけど、途中で止まって、涙をこらえるような顔になった。

「だいじょうぶ……?」

 遠慮深い目づかいと声色できかれ、僕はかすかにうなずいた。

 心配されるべきは、母さんのほうだろ。
 そう突っこみを入れたくなるほど、ひどい顔色をしていた。

 いつもと違う腫れぼったい目をまばたかせて、母さんは言った。

「お父さんもいっしょに来たの。いま、善巳が泊まってたホテルに行ってるのよ。善巳を助けてくれたお礼や荷物の引き取りとかで……」

 そっか。それなら、ばれてしまったか。
 男友だちとじゃなく、僕ひとりで宮古島に来たことを。

「ごめん、心配かけて。苦手な飛行機に乗る目にあわせちゃったし」

 母さんは目を細めて、強く否定するように頭を左右にこまかく振った。

「あとで警察の人がちょっと話をしたいそうなの。……話せる?……明日にしてもらう?」

 気を使い過ぎる母さんの態度が、心苦しくてたまらなかった。

 海に沈んだとき、僕はこのまま死んでもいいと思った。

 本気だった。

 母さんや父さんより、僕はチヒロを選んだんだ。

 幻かもしれない女の子を。

 いままで僕の目に映っていたチヒロがほんとうに幻だったなら……。こんなマヌケな話はないだろう。

 半笑いを浮かべ、透明なビニール素材の酸素マスクを()ずから外した。

「話せるよ。頭が痛かったからこれをつけてたけど、なんか治ったみたいだし」

「うん。さっき先生から話を聞いたの。どこにも異常は見当たらないから、明日には退院できそうだって。 
 ……よかった。善巳が海で溺れたって……危ない容態(ようだい)だって病院と警察の人から電話をもらったとき、お母さん生きた心地がしなかったのよ。
 宮古島に行かせるんじゃなかった、旅行を許すんじゃなかったって後悔して……一睡もできなくて」

「ごめん……」

「ちがう、ちがうの。責めてるんじゃないの」

 母さんは首をふって否定し、すべてを包みこむようなあたたかな笑みを浮かべた。

「善巳のせいじゃないもの。犬を助けようとしたんでしょ。どうしても見過ごせなかったのよね。 
 夜の海に入っていったのは感心しないけど、だからと言って(しか)れないわ。ほんとうに、善巳もワンちゃんも無事でよかったわよ。
 このことを鴨生田のおじいちゃんが知ったら、目をばちくりして言いそうじゃない? 『ほぅら、やっぱり。善巳はそういう星のもとに生まれてきた奇跡の子だ。二度も命を救われた』ってね」

 母さんが首をすくめて「ふふっ」と笑うのに合わせて、僕も軽く口もとをゆるめた。たしかに言いそうだ。

「でも、たまたま運が良かっただけなんだからね」

 母さんは、わざとらしげに眉をしかめた。

「たとえ人命がかかってたとしても、素人が救助しようなんて思っちゃだめよ。海でも川でも水をなめてたら、ほんとに命を落とすことになるんだから。わかった?」

「さっきも看護師さんに釘を刺されたよ。無茶しちゃだめだって。わかった。これからは気をつける」

 母さんとこうやって話している最中でも、チヒロのことが頭から離れなかった。

 つい廊下に目がいってしまう。

 姿が見えなくなって、どれぐらい時間が経つだろう。

 チヒロは幽霊なのか。

 だとしたら、どうしてここにいないのか。

 消えてしまったのか。

 それともあのチヒロは、僕がつくりだした幻だったのか。

 真実をたしかめたい。

 でもそれを探る(すべ)を、いまの僕はなにも持っていなかった。


 * * *


 翌日の昼前、退院したその足で父さんと母さんとともに島の空港へ向かった。

 両親は僕がひと月前に予約した航空チケットと同じ便を、キャンセル待ちでゲットしていた。

 席はバラバラになるけど、僕にとってはかえって都合がよかった。
 父さんと母さんからやたらと気づかわれるのが苦痛だったし、ひとりになりたかったから。

 昼飯を食べよう、という父さんの提案で、二階のレストランに入った。おととい空港に到着したとき、チヒロと来た店だ。

 あのとき僕はソーキそばを食べ、そのようすをチヒロはニコニコと見つめていた。

 ──わたし、ヨシくんが幸せそうにごはんを食べてる姿、だーい好き。

 チヒロの甘い声が、耳に鮮明に残っている。

 ちょっと気を抜くと頭のなかはチヒロで埋め尽くされ、気持ちを乱して目の奥を熱くする。