申しわけなげなスマイルを浮かべて、くるっと(きびす)を返す看護師さんに、

「あの」と呼びとめた。

「はい?」

「いちおう確認したいんですけど、犬なんて……いませんよね」

 馬鹿げた質問だと思ったけど、たしかめておきたかった。
 看護師さんは、困ったように眉を下げて微笑した。

「いまのお婆さんね、脳に疾患(しっかん)があって幻視(げんし)を見るの。じっさいにはないものが見えちゃったりするの。びっくりした? ごめんなさいね」

「いえ、ぜんぜん。僕の目がおかしくて見えないのかなぁ、なんて思ったりしたから」

「それはだいじょうぶ。わたしにも見えてないから」

 看護師さんは右手でOKサインを作り、にっこりした。

「幻視って、まぼろしのことですか。脳に疾患って……どういう病気か、聞いてもいいですか」

「え……?」

 どうしよう……と悩むように、看護師さんはちろっと黒目を上に向けた。
 でも躊躇(ちゅうちょ)は泡のごとく消えたのか、内緒話の合図のように僕のほうへ、つつっと身を寄せてきた。

「ほんとは患者さんの個人情報を漏らしちゃいけないんだけど。さっきのシンジョウさんがまたあなたのところに来るかもしれないから、話しておくわね」

 レビー小体型認知症(しょうたいがたにんちしょう)

 それがシンジョウさんが(わずら)っている病気なのだと教えてくれた。

 レビー小体という変性したたんぱく質が脳の大脳皮質(だいのうひしつ)に溜まることで、さまざまな症状を引き起こすという。

 手足のふるえや筋肉のこわばり、立ちくらみ。
 寝ているときにとつぜん大声を出したり、暴れたり。
 認知機能が急に衰えたり、もどったりもする。そしてさっきのような幻視。

「そこにはいないはずの動物や人が、ほんとうにいるように見えるのよ。シンジョウさんにはたしかに犬が見えてるの。真剣そのものだったでしょ」

 僕は、深刻な面持ちでうなずいた。
 みんなに見えていないものが見える。それは僕も同じなのだ。

「その病気って、検査でわかるんですか。CTとか……? そういうので」

「それがね、脳の委縮が目立たないから、MRIやCTの画像診断では判断できないことが多いの。
 自律神経や心臓の動きを検査機器を使って調べたりするけどね。日常のなかであらわれる特有の症状が診断のポイントになってるかなぁ」

「あの……幻視だけだと、レビーなんとか認知症には当てはまらないですか」

「どうかなぁ」

 看護師さんはおおげさに肩をすくめた。

「当てはまるケースもあるし、ないケースもあるし」

 と返答が急にあいまいになる。

「幻視を見る病気って、ほかにもあるんですか。あるとしたら、どんなのが」

「んっ?」

 看護師さんの目つきが、怪訝(けげん)をまとったものになった。しつこく〈幻視〉についてたずねる僕の思惑(おもわく)を探っているようだ。

「幻視? そうねぇ。レビー以外の認知症とかアルコール依存症、薬物中毒、統合失調症……」

 ふいにふたりの間で、“ピロピロピロ”と軽快な電子音が鳴り響いた。

 看護師さんの胸ポケットのなかで、携帯電話が鳴っている。彼女はすばやく電話を受け、

「はぁい、ウエハラです。あ、すみません。すぐもどります。トミタ製薬さんへの発注は終わったんですけど、追加が……」

 看護師さんは通話しながら、バイバイと僕に手をふって病室を出て行った。

 ひとりになった僕の頭のなかは、僕自身にも当てはまる症状のことでいっぱいになっていた。

 じぶんの視覚や脳が信じられなくなり、たまらなく胸がざわめいた。

 僕の目に見えていたチヒロは──もしかしたら幻視だった?

 病気のせいで、見えないものが見えていた?

 胸のざわめきは頭のほうへのぼっていき、脳を圧迫するように揺さぶりだした。

 頭痛がぶり返し、どんどんひどくなっていく。

 頭のなかで、スカッシュがはじまったみたいな打撃がくり返されている。

 病気……なのかもしれない。ほんとうに。

 強烈な痛みで座っていられなくなり、横になった。

 薄べったい枕に頭をあずけても、痛みはまったくやわらがない。

 ぎゅっと目をつむって、ひたすら耐えた。

 眠りたい。いまはとにかく、なにも考えずに眠りたかった。