僕の身体には甚平みたいなデザインの、薄水色の検査着が着せられていた。頭を動かすと、後頭部にズキンズキン痛みが走る。
スライドドアが開いていた。
べつの看護師さんが、忙しそうに廊下を歩いていく。
そのドアの陰から、いまにもチヒロがそろっと顔をのぞかせるような気がしてならなかった。だけど、待っていてもいっこうに現れない。
チヒロは、どこへ行ったんだろう。まさか消えてしまったんじゃ……。
海のなかで僕を助けようと、何度も何度も手を伸ばしてきた、チヒロの必死な顔が脳裏によみがえった。
チヒロ。
もう一度会いたい。
どんな代償でも払うから、チヒロにいますぐ会いたい。
かたく目をつむった。
そしてすべての神仏と、はかり知れない力を持つなにかに、じぶんの命をささげる思いで強く祈った。
会いたい。どうかどうか、チヒロに会わせて──。
「ちょっと、あんた!」
ふいに間近でしわがれた声が聞こえ、びっくりして目を開けた。
戸口に、痩せて背が低いお婆さんがつっ立っている。
肌が浅黒くて、顔全体のしわがくっきりと深い。両サイドがふくれたショートヘアは白髪が優勢だ。
青い花柄パジャマを着ているところを見ると、入院患者なんだろう。
お婆さんはぎょろっとした目で、ひとつのところをにらんでいる。
薄掛け布団をかけた僕の足もと、そのちょっと上の空間だ。
日本昔話の世界から抜けだした、山姥のようなただならぬ気を感じ、警戒モードに入った僕の目は、枕もとのナースコールボタンに向いた。
「犬がおるやっさー。やーの犬か?」
文句をつけるようなきつい物言いで、お婆さんがたずねた。
「犬……? あの、犬なんてどこにもいませんけど」
「はぁ? やーの足んとこにおるさいが。うり。目ぇ閉じて、くーくー寝てる。だめだろーが。犬を病室に入れちゃー。看護婦さんに怒られっから、ふぇーくおもてに出しなっさい」
おもてに出せ、と言われても出しようがなかった。
犬はどこにもいないのだ。
でもお婆さんの目つきは真剣そのもので、からかっているようすはない。
「……どんな犬ですか」
「どんなって、白いよ。雑種だね。やーの犬じゃないなら、かってに入って来たのかよぉ。あばー」
お婆さんは僕の足もとの上に視線を凝らしたまま、ベッドに近寄ってきた。
「うり。犬っころ。出て行きなっ。ここはやーの家じゃないよ。うりうり、ふぇーく!」
お婆さんはベッド上の空間を、節の太い手で払った。
「あがやー。ちっとも動かないよ。やーも追っぱらいな。ぼーっとしてねーで!」
「えっ、はい……」
目を剥いて急き立てるお婆さんの威勢におされ、しかたなく点滴をしていない手でシッシッと追い払う身ぶりをした。
犬は、どかないらしい。
「行きなって!うりっ。あがやー、ずぶとい犬っころだよぅ。起きやしない。起きろって。起、き、ろっ! 起、き、ろっ!」
お婆さんはスタッカート調の節回しでやかましく命じ、手までたたきだした。
「あらあら。シンジョウさん。どうしたの。おっきな声だしてぇ」
部屋の前を通りかかった看護師のお姉さんが、目をまるくして病室に入ってきた。
「お部屋が違うでしょー。シンジョウさんの病室はもっとあっち。302ですよ」
彼女はお婆さんの横に並び、僕の頭側の壁を指差した。
お姉さんはさっきのおばさん看護師さんと、同じナースウェアを身につけている。
同じように引っ詰め髪をしているけど、ぱっと人目を引く華やかなルックスで、モデルみたいにスタイルがいい。
「わかってるよ。でも犬がいるからさぁー。追っぱらってるのに、出て行かないんだよぉ。うり。寝てて起きやしないんだから」
「あらぁ。困ったわねぇ」
看護師さんは芝居がかった口調で、きれいに整った眉を八の字に下げた。
そしてお婆さんの両肩にふわっと手を乗せ、
「でもね、だいじょうぶ。わたしがちゃあんと外に出しますからね。シンジョウさんはお部屋にもどってください。お薬、飲みましたぁ?」
「あば?……、飲んだかな。まだだったかな」
お婆さんは自信なさげに、右へ、左へと首をかしげた。
「まだじゃないの? いまね、タイラさんがお部屋をまわってますからね。ちゃあんとベッドにいてくださいねー」
お婆さんは看護師さんに肩をつかまれて、余儀なくドアのほうを向かされた。
釈然としない顔でシワシワの梅干しみたいなくちびるをすぼめていたけど、お婆さんは僕の病室から出て行った。
「お騒がせしてごめんなさいねぇ」
スライドドアが開いていた。
べつの看護師さんが、忙しそうに廊下を歩いていく。
そのドアの陰から、いまにもチヒロがそろっと顔をのぞかせるような気がしてならなかった。だけど、待っていてもいっこうに現れない。
チヒロは、どこへ行ったんだろう。まさか消えてしまったんじゃ……。
海のなかで僕を助けようと、何度も何度も手を伸ばしてきた、チヒロの必死な顔が脳裏によみがえった。
チヒロ。
もう一度会いたい。
どんな代償でも払うから、チヒロにいますぐ会いたい。
かたく目をつむった。
そしてすべての神仏と、はかり知れない力を持つなにかに、じぶんの命をささげる思いで強く祈った。
会いたい。どうかどうか、チヒロに会わせて──。
「ちょっと、あんた!」
ふいに間近でしわがれた声が聞こえ、びっくりして目を開けた。
戸口に、痩せて背が低いお婆さんがつっ立っている。
肌が浅黒くて、顔全体のしわがくっきりと深い。両サイドがふくれたショートヘアは白髪が優勢だ。
青い花柄パジャマを着ているところを見ると、入院患者なんだろう。
お婆さんはぎょろっとした目で、ひとつのところをにらんでいる。
薄掛け布団をかけた僕の足もと、そのちょっと上の空間だ。
日本昔話の世界から抜けだした、山姥のようなただならぬ気を感じ、警戒モードに入った僕の目は、枕もとのナースコールボタンに向いた。
「犬がおるやっさー。やーの犬か?」
文句をつけるようなきつい物言いで、お婆さんがたずねた。
「犬……? あの、犬なんてどこにもいませんけど」
「はぁ? やーの足んとこにおるさいが。うり。目ぇ閉じて、くーくー寝てる。だめだろーが。犬を病室に入れちゃー。看護婦さんに怒られっから、ふぇーくおもてに出しなっさい」
おもてに出せ、と言われても出しようがなかった。
犬はどこにもいないのだ。
でもお婆さんの目つきは真剣そのもので、からかっているようすはない。
「……どんな犬ですか」
「どんなって、白いよ。雑種だね。やーの犬じゃないなら、かってに入って来たのかよぉ。あばー」
お婆さんは僕の足もとの上に視線を凝らしたまま、ベッドに近寄ってきた。
「うり。犬っころ。出て行きなっ。ここはやーの家じゃないよ。うりうり、ふぇーく!」
お婆さんはベッド上の空間を、節の太い手で払った。
「あがやー。ちっとも動かないよ。やーも追っぱらいな。ぼーっとしてねーで!」
「えっ、はい……」
目を剥いて急き立てるお婆さんの威勢におされ、しかたなく点滴をしていない手でシッシッと追い払う身ぶりをした。
犬は、どかないらしい。
「行きなって!うりっ。あがやー、ずぶとい犬っころだよぅ。起きやしない。起きろって。起、き、ろっ! 起、き、ろっ!」
お婆さんはスタッカート調の節回しでやかましく命じ、手までたたきだした。
「あらあら。シンジョウさん。どうしたの。おっきな声だしてぇ」
部屋の前を通りかかった看護師のお姉さんが、目をまるくして病室に入ってきた。
「お部屋が違うでしょー。シンジョウさんの病室はもっとあっち。302ですよ」
彼女はお婆さんの横に並び、僕の頭側の壁を指差した。
お姉さんはさっきのおばさん看護師さんと、同じナースウェアを身につけている。
同じように引っ詰め髪をしているけど、ぱっと人目を引く華やかなルックスで、モデルみたいにスタイルがいい。
「わかってるよ。でも犬がいるからさぁー。追っぱらってるのに、出て行かないんだよぉ。うり。寝てて起きやしないんだから」
「あらぁ。困ったわねぇ」
看護師さんは芝居がかった口調で、きれいに整った眉を八の字に下げた。
そしてお婆さんの両肩にふわっと手を乗せ、
「でもね、だいじょうぶ。わたしがちゃあんと外に出しますからね。シンジョウさんはお部屋にもどってください。お薬、飲みましたぁ?」
「あば?……、飲んだかな。まだだったかな」
お婆さんは自信なさげに、右へ、左へと首をかしげた。
「まだじゃないの? いまね、タイラさんがお部屋をまわってますからね。ちゃあんとベッドにいてくださいねー」
お婆さんは看護師さんに肩をつかまれて、余儀なくドアのほうを向かされた。
釈然としない顔でシワシワの梅干しみたいなくちびるをすぼめていたけど、お婆さんは僕の病室から出て行った。
「お騒がせしてごめんなさいねぇ」