ほの白く灯っていたチヒロの泣き顔が、どうしてか、ゆっくりゆっくり……ゆがんでいく。

 渦を巻くようにねじれ、別人が形づくられていく。

 長い髪を三つ編みにした……女の人だ。
 僕たちよりもっと年上で、大人の……。

 うすピンクのゆったりしたガウンのようなものを着たその人は、苦しげな顔でうめき声を漏らし、ハアハアと激しい息づかいをくり返している。

 だれ……なんだろう。
 どこかで見た気がするけど、思いだせない。

 複数の人物がその女の人を、わらわらとかこみだした。
 青い上下の簡素な衣服で共布の帽子をかぶり、鼻と口をマスクでおおっている。病院の手術着みたいだ。

「がんばって。おりてきてるわよ!」

 マスクをつけたひとりが、身悶(みもだ)えしている女の人を力づけた。

 苦しんでいるその人を傍観(ぼうかん)している僕は──はっと気づいた。

 母さんだ。
 昔のアルバムで見た、僕の母さん。

「きた。きた。きた! 産まれましたよぉ」

 とつぜん歓喜の声があがった。

 マスクをつけた男の人の手には、油をかぶったようにぬらぬらテカる、ハダカデバネズミみたいな生きものが乗っている。

「だめだ! 泣かない! 吸引、吸引。保育器をこっちへ。エヌアイシーユーに連絡して!」

 喜びにわいた空気は一変し、緊迫感(きんぱくかん)に満ちた声が飛びかった。

 保育器に入れられたのは、ネズミじゃなかった。

 人間の形のもの。
 だけどあまりにもちいさくて、人間とは思えない。

 腕や足が千歳飴(ちとせあめ)のように細く、肌も赤黒くて、見るからに異常だ。その身体に、医療器具から伸びたチューブが繋がれていく。

 ああ。そうか。

 目の前で展開する光景を見ていた僕は──ふいに理解した。

 この赤ん坊は、僕だ。

 出産予定日より4か月も早く、801グラムしかない超低出生体重児(ちょうていしゅっせいたいじゅうじ)で、この世に生まれたのだ。

 命が危ない状態だった。助かる確率は低かった。

 僕を取りあげてくれた医師は、母さん、父さん、祖父母に伝えたそうだ。

「スタッフ一同全力を尽くします。ですが、難しいかもしれません」と。

 僕はその話をちいさいころから、祖父母や伯父から何度も聞かされてきた。

 目の前がフェードアウトするように、再び暗闇に包まれた。
 そこへ、ぽっと明かりが燈るかのように、知っている人たちが浮かびあがった。

 保育器のなかにいる僕を、痛ましそうに見つめている。

 父さん。母さん。
 父さんのじいちゃん、ばあちゃん。
 母さんのじいちゃん、ばあちゃん。
 伯父さん、叔母さん。

 みんな祈っている。心の声がはっきり聞こえてくる。

 助かって。どうか、どうか助かって。がんばれ、善巳──。

 僕が眺めているこの光景は、なんなんだろう。
 人生の最後に見る、記憶の走馬灯(そうまとう)ってやつだろうか。

 でも僕は覚えていない。じぶんが誕生したときのことなんか。両親や親戚の人から聞いただけだ。

 出生時の僕は、いつ死んでもおかしくない状態だった。なのに奇跡が起きて生きのびたのだと。

 じぶんでうまく血液を作れなくて、輸血が行われた。
 慢性の肺疾患(はいしっかん)にかかり、高濃度の酸素吸入を必要とした。
 網膜症(もうまくしょう)になり、レーザー治療や投薬もかさねた。

 半年間入院していた。

 そうやって命をつなぎ、チビでガリだった身体は、どんどん標準に近づいていった。

 じいちゃんから、耳にたこができるほど言われてきた。

 “善巳、おまえは奇跡の子だ”と。

 そうだ。僕は奇跡を知っている。

 だって、僕自身が経験したことだから。

 でも、ごめん。

 奇跡に救われて生きてきたけど、もう終わってもいいと思ってるんだ。

 母さんより、父さんより……じいちゃんばあちゃんより……僕はチヒロといたいから。

 親不幸でごめん。じぶん勝手でごめん。

 眠い……。急に眠たくなってきたよ。
 もう、ほんとうに終わりが近づいているんだって感じる。

 肉体を脱ぎ捨てて、魂だけになったみたいにすごく軽い。

 沈んでいるんじゃない。のぼっているんだ。
 でも、どこへ──。

 しぜんとまぶたが下りていった。

 (すみ)のなかに浸るような真っ暗闇に包まれたけど、チヒロと同じ世界に入っていくのだと思うと、なにも怖くはなかった。