手を深くまで下ろして水をかき、足のつけ根から速いキックを打ちつづけても、波の抵抗でほとんど前へ進めない。
息が苦しくなってきた。
そのとき、大きな波に乗り、赤いゴムボートが間近に迫ってきた。
チャンスだ。
腹筋と背筋の力をフルに使って上体を反らし、腕をめいっぱい伸ばした。
手ごたえのある、つるりとしたものが手のひらに当たった。
やった。ゴムボートのへりをなんとかつかむことができた。
鳴き声が、キュゥン、キュゥン、とかよわくなった。
僕の頭に寄って来て匂いを嗅いでいるのは、やっぱり犬だった。
日本犬っぽい顔つきでかなり小ぶり。ベージュ色の毛並みに三角耳がピンと立っている。
「どうしたんだよ、おまえ。こんなのに乗って」
声をかけると犬は足を踏んばり、元気よくシッポをふった。真っ黒なつやを放つまんまるな目が、僕をひたすら見つめている。
「いま安全なとこへ帰してやるからな」
沖を背にしてボートのへりに手をかけ、バタ足を開始した。
ホテルの光と赤く燃えるかがり火をめざし、押して、押して、押していく。
犬は僕のほうを向いて“ふせ”のポーズを取り、口角をきゅっとあげて長い舌を垂らしている。
なんだか笑っている顔に見えて、こんな状況なのにおかしくなってきた。
気のゆるみを衝かれたのか、とつじょ左のふくらはぎに激痛が走った。
「つっ」
こむら返りだ。
膝を曲げてふくらはぎを握った。
足の親指を手前に引っぱり、ふくらはぎの筋肉を伸ばしていく。対処法は知っている。
でも治らない。痛い。痛くてたまらない。
右手はボートにかけたまま、もう片方の手のひらでふくらはぎを強くさすった。
痛みは引かない。
のた打ちそうなほどで、こんなのははじめてだった。足をつっぱらせても効果はない。
「くーっ」
足止めを食った僕の身体が、ゴムボートといっしょにふうっと急下降した。
不気味な気配を感じてうしろを見ると、海面が大きく盛りあがっていた。
やばい、と焦ってもどうにもならず、怪物のような高波をかぶった。
水力に負けて、身体が海中にどぼどぼと沈んでいく。
その拍子に水が気管に入り、激しくむせた。
苦しい。喉が……鼻が……肺が……焼かれているかのように熱い。
死にもの狂いで手をかき、海面をめざす。
真っ暗でなにも見えない。
死、の恐怖が頭をよぎり、胸のあたりが凍ったように冷たくなった。
とにかく上へ。上へ出るんだ。
左足は使いものにならなかったけど、両手ともう一方の足でしゃにむに水をかき、なんとか水面に顔を出すことができた。
むさぼるように息を吸う。
だけど一安心したのもつかの間、またしても大波に飲まれて沈みこんだ。
しかも海流に巻かれてバランスをくずし、身体がぐるんと回転した。
二回……三回……。
完全に平行感覚を失い、天地がわからなくなる。明るさを感じる方向を探したけど、なにも見えない。
「ヨシくん! ヨシくん! こっち!」
チヒロの声に導かれて、あごをあげた。
すると、ふしぎなものが見えた。
真っ暗な海中で、チヒロの姿だけがぼうっと明るんでいるのだ。
まるで淡く発光しているみたいに。
僕の目の前へ、チヒロはすうっと降りてきた。
「ヨシくん! 上にあがって。お願い、上に!」
顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら、チヒロは頭上を指差した。
だけど、僕の身体は動かない。
もうどこにも力が入らず、クラゲのようにゆらゆら浮遊するだけだ。
「しっかり、ヨシくん! あきらめないで!」
チヒロは必死に励まし、僕に向かって両手を伸ばした。
何度も、何度も……。
どうにかして、僕をつかもうとしてくれている。
ヨシくん! ヨシくん!
チヒロの悲痛な叫び声が、耳の奥でこだました。
号泣の表情で、なんとしても僕を救おうとしている。
かわいそうで見ていられなかった。
チヒロ、そんな顔をしないで。
心のなかで、呼びかけた。
もう、いいんだ。もしかしたら、これが運命ってものなのかもしれないね。
ハスの花を見に行ったとき、チヒロは仏教の世界観を話してくれたよね。善い行いをした者は、死後にハスの花の上に生まれ変わるって。
生まれ変わらなくてもいい。
僕の願いは、ただひとつ。
永遠にチヒロといたい。
それだけ。
僕も死んだら、その願いが叶う気がするよ。
僕はチヒロをほんとうに愛しているから。
これで命が尽きてもかまわないから。
だから信じて欲しい。僕の気持ちを──。
息が苦しくなってきた。
そのとき、大きな波に乗り、赤いゴムボートが間近に迫ってきた。
チャンスだ。
腹筋と背筋の力をフルに使って上体を反らし、腕をめいっぱい伸ばした。
手ごたえのある、つるりとしたものが手のひらに当たった。
やった。ゴムボートのへりをなんとかつかむことができた。
鳴き声が、キュゥン、キュゥン、とかよわくなった。
僕の頭に寄って来て匂いを嗅いでいるのは、やっぱり犬だった。
日本犬っぽい顔つきでかなり小ぶり。ベージュ色の毛並みに三角耳がピンと立っている。
「どうしたんだよ、おまえ。こんなのに乗って」
声をかけると犬は足を踏んばり、元気よくシッポをふった。真っ黒なつやを放つまんまるな目が、僕をひたすら見つめている。
「いま安全なとこへ帰してやるからな」
沖を背にしてボートのへりに手をかけ、バタ足を開始した。
ホテルの光と赤く燃えるかがり火をめざし、押して、押して、押していく。
犬は僕のほうを向いて“ふせ”のポーズを取り、口角をきゅっとあげて長い舌を垂らしている。
なんだか笑っている顔に見えて、こんな状況なのにおかしくなってきた。
気のゆるみを衝かれたのか、とつじょ左のふくらはぎに激痛が走った。
「つっ」
こむら返りだ。
膝を曲げてふくらはぎを握った。
足の親指を手前に引っぱり、ふくらはぎの筋肉を伸ばしていく。対処法は知っている。
でも治らない。痛い。痛くてたまらない。
右手はボートにかけたまま、もう片方の手のひらでふくらはぎを強くさすった。
痛みは引かない。
のた打ちそうなほどで、こんなのははじめてだった。足をつっぱらせても効果はない。
「くーっ」
足止めを食った僕の身体が、ゴムボートといっしょにふうっと急下降した。
不気味な気配を感じてうしろを見ると、海面が大きく盛りあがっていた。
やばい、と焦ってもどうにもならず、怪物のような高波をかぶった。
水力に負けて、身体が海中にどぼどぼと沈んでいく。
その拍子に水が気管に入り、激しくむせた。
苦しい。喉が……鼻が……肺が……焼かれているかのように熱い。
死にもの狂いで手をかき、海面をめざす。
真っ暗でなにも見えない。
死、の恐怖が頭をよぎり、胸のあたりが凍ったように冷たくなった。
とにかく上へ。上へ出るんだ。
左足は使いものにならなかったけど、両手ともう一方の足でしゃにむに水をかき、なんとか水面に顔を出すことができた。
むさぼるように息を吸う。
だけど一安心したのもつかの間、またしても大波に飲まれて沈みこんだ。
しかも海流に巻かれてバランスをくずし、身体がぐるんと回転した。
二回……三回……。
完全に平行感覚を失い、天地がわからなくなる。明るさを感じる方向を探したけど、なにも見えない。
「ヨシくん! ヨシくん! こっち!」
チヒロの声に導かれて、あごをあげた。
すると、ふしぎなものが見えた。
真っ暗な海中で、チヒロの姿だけがぼうっと明るんでいるのだ。
まるで淡く発光しているみたいに。
僕の目の前へ、チヒロはすうっと降りてきた。
「ヨシくん! 上にあがって。お願い、上に!」
顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら、チヒロは頭上を指差した。
だけど、僕の身体は動かない。
もうどこにも力が入らず、クラゲのようにゆらゆら浮遊するだけだ。
「しっかり、ヨシくん! あきらめないで!」
チヒロは必死に励まし、僕に向かって両手を伸ばした。
何度も、何度も……。
どうにかして、僕をつかもうとしてくれている。
ヨシくん! ヨシくん!
チヒロの悲痛な叫び声が、耳の奥でこだました。
号泣の表情で、なんとしても僕を救おうとしている。
かわいそうで見ていられなかった。
チヒロ、そんな顔をしないで。
心のなかで、呼びかけた。
もう、いいんだ。もしかしたら、これが運命ってものなのかもしれないね。
ハスの花を見に行ったとき、チヒロは仏教の世界観を話してくれたよね。善い行いをした者は、死後にハスの花の上に生まれ変わるって。
生まれ変わらなくてもいい。
僕の願いは、ただひとつ。
永遠にチヒロといたい。
それだけ。
僕も死んだら、その願いが叶う気がするよ。
僕はチヒロをほんとうに愛しているから。
これで命が尽きてもかまわないから。
だから信じて欲しい。僕の気持ちを──。