「俺の考えを──聞いてくれる?
 ……奇跡を信じてるって俺……何回も言ってきたよね。だってそれ、じっさいに起きてることだから。
 チヒロがいま俺の前にいるのが、最大の奇跡っていえるよね。
 理由はわからないけど、きっとチヒロがこの世に強い思いを残してたから……なんかさ、通常ではあり得ない“気”みたいなものが生まれて、不可能が可能になったんじゃないかな。
 チヒロだって夕食のあとこのビーチで言ってたよね。
 『現実にわかっていることだけがすべてじゃない。曖昧なことも、うそみたいなことも、世のなかにはたくさんある』って。
 だったら、ふたりでそれを信じようよ。
 もっとあり得ない奇跡が起きるって。
 俺、チヒロのためにいろんなことをもっともっとがんばるよ。だからチヒロもあきらめな……」

「ヨシくん、お願いがあるの」

 ヒュッと吹く突風のような強さで、チヒロは僕の話をさえぎった。

「なに」

「わたしがいなくなっても、ちゃんと生活して欲しいの。
 いままでみたいに勉強して、友だちと遊んで、もりもりごはんを食べて、それから……また恋をして……」

「恋って……なに、それ。俺の話聞いてなかった? やめようよ、仮定の話は。考え過ぎなんだよ、チヒロは。
 身体の一部がちょっと消えたからって、もうだめって思いこんじゃうんだから」

「そうね」

 つれなく相づちを打ち、チヒロはすっと顔を僕のほうへ向けた。

 心のうちがまったく読めない彼女の無のまなざしに、取りこまれそうになっていく。

「わたしたち、不毛(ふもう)な話をしてるってわかってるの。
 たったいまヨシくんにお願いしたことも……ほんとうはぜんぶ心配する必要ないことだって。
 わたしが消えたらヨシくんは、ちょっとのあいだ元気をなくすかもしれない。
 ……でも、かならず立ち直るから」

「なにそれ。決めつけないでくれる。それだってチヒロのかってな思いこみなんだよ。俺はチヒロがいなきゃ、ほんとうに」

「わかってないなぁ、ヨシくん、じぶんのこと。ううん、人間っていうものを。
 わたしたち別世界にいるの。ヨシくんにだけわたしが見えて言葉を交わせるけど、それだけなの。
 AIロボットのほうがまだマシだと思うわ、わたしより。ちゃんとさわれて、まわりから認知されるんだもの。
 そのうちヨシくんは、わたしを持て余すようになる。生身の女の子に魅かれて、恋に落ちるの。それが……生きてるってことだから」

 僕は足底の砂を、憤りにまかせて強くすりつぶした。

「俺ってそんなに信用できない?……どうすれば信じてくれる? チヒロに(ちか)うよ。俺が死ぬまで、いや、死んでも愛しつづけるって」

「わたしは信じない。永遠のものなんて、この世にひとつもないもの。
 だからヨシくんがほかの誰かを愛しても、ぜんぜんだいじょうぶ。罪悪感を持つ必要ないの。ヨシくんは、」

「どうしてわかってくれないんだよっ。チヒロ!」

「もうやめましょう。この話って平行線で終わらないから」

 ぷいっと顔をそむけたチヒロの前に、僕はまわりこんだ。

 するとなにか異変を感じ取ったのか、ふせていたチヒロのまつ毛が、ぐっとあがった。

 僕も耳をそばだてた。

 聞こえる。

 なにか……。鳴き声のようなものが、背後から。

 ふり返り、海に目を凝らした。

 闇だ。
 闇しかない。

 だけど、ザザァン、さわさわ、ザザァン、さわさわ、の波音にまじって、“オンッ、オンッ、オンッ”と動物の吠え声のようなものがたしかに聞こえる。

 犬……だろうか。

 暗さに目が慣れてきた。

 夜空のはるか果てでまたたく無数の星明かりに助けられて、波に揺られているものがうっすら見えてきた。

 ボート……?

 空気を入れてふくらませる、あのゴムボートとおぼしきものが漂っていて、鳴き声はそのあたりから聞こえてくる。

 ボートは波立つ水面に持ちあげられて浜に近づいたかと思うと、もどる波に乗ってまた遠ざかっていく。

 距離があるようには見えなかった。
 たぶん30メートルあるかないか。

 オンッ、オンッ、ウォンッ!

 切迫(せっぱく)さを感じる吠え声が、僕の身体を衝き動かした。

 スニーカーを脱ぎ、駆け足で海に入った。

「ヨシくん!」

 うしろから聞こえたチヒロの不安げな声に、だいじょうぶ、のサインで右手をあげた。

 腰まで浸かったところで身体をうつぶせ、クロールで前へと進んでいく。

 泳ぎには、わりと自信があった。

 幼稚園の年長から小3まで、スイミングスクールに通っていたのだ。熱心な生徒ではなかったけど、いちおう海での遠泳経験もある。

 だけど、いまは条件が悪かった。

 身につけているTシャツとハーフパンツがたっぷり水を含み、身体が重い。