「チヒロ……怖いって言ってたじゃないか。これからどうなるのか考えると、怖くてたまらないって。
 殺し屋や死神にねらわれてる気分だって……そう言ってたじゃないか……」

 恨みがましくて、うるんだ声になった。

「そうね。たしかに怖かった……。でもいまは、ふしぎと怖くないの。
 どこへ行くのかわからないのは前と同じ。
 でもそこは嫌な場所じゃない。なんとなくね、なんとなくだけど、そう感じるようになってきたから」

「なんで? 俺のこと愛してるって言ってたのに、チヒロの愛ってあっさり別れられる、その程度のものだったってこと?」

「ちがう」

 とチヒロは首をふった。

 その顔から、チヒロらしいやわらかさが失われていった。

「どうしてそんな意地悪を言うの? ヨシくんが好き。愛してるのもほんとう。でも、しかたないの。
 わたしの意思に反して、どうしようもなく眠くなるんだもの。そのたびに身体が消えていくの。それなら眠らずにいればいいの?
 ヨシくん、わたしがウトウトするたびに起こす? 身体にさわれないから大声で?
 そんなことをしてたらヨシくんだって寝られないのよ。無理なのよっ……!」

 無理──。

 全否定された言葉のきつさに傷つけられ、僕の心が過剰にぴりついた。
 ほんとうの思いとは裏腹に、嫌な男に成り下がっていく。

「チヒロはさ、残される人のことを考えてないんだよ。じぶん勝手だよ。
 俺は……チヒロが消えたら確実にパニクるし、目標も失うし、どう生きていけばいいのかわからなくなる。
 なんにもがんばれないし、楽しいことも見つけられない。
 苦しくて、つまらなくて……チヒロが事故で死んだって聞かされたときがそうだったんだから。
 笑ってるやつを見るとなんかむしゃくしゃして……。ぜったい()ちるとこまで堕ちてくよ」

「やめて。そんな言葉、聞きたくない」

 悲痛な声をあげていやいやをするチヒロに、ぐっと詰め寄った。

「あきらめて欲しくないんだよ。しがみつきなよ、この世界に!
 俺を愛してるなら、『しかたない』なんて言わないでくれよ。
 ものわかりよくどこかに()こうとしないで、抵抗してみなよ!」

 うるみつやめくチヒロの目に、さっと抗議の色が浮かぶのがわかった。

「……わたしをじぶん勝手って非難する、ヨシくんはどうなの。
 わたしがいないと堕ちるとこまで堕ちていくって……(おど)しみたいなこと言って……。
 それこそじぶん勝手。愛じゃなくて……単なるエゴなんじゃないの。わたしを私物化しないでっ」

 容赦(ようしゃ)のかけらもない言葉だった。
 僕とチヒロのふたりで作りあげてきた思い出のアルバムを、一方的に切り裂かれたようなショックとむなしさに襲われる。

 心をえぐられ、感情がコントロールできなくなっていった。

 チヒロを傷つけるとわかっていながら、言ってはいけないことを口に出してしまう。

「どうして俺だけ……チヒロが見えちゃってるんだろうな。見えなければさ、こんなつらい思いをしないですんだのに」

 身体のどこかに一瞬走った痛みを、ぐっとこらえている。

 チヒロはそういう表情をして、

「ごめんなさい……」

 ひとこと言うと、ベッドから下りた。

 漆黒(しっこく)の夜を映すガラス窓のほうへ、すうっと歩いて行く。

「チヒロ?」

 僕の声を無視して、窓をすり抜けた。

「チヒロ!」

 バルコニーの手すりもすり抜け、落とし穴にすとんと落下するように、彼女は飛び降りた。

「チヒロっ!」

 あわてて窓を開け、バルコニーへ出た。

 手すり越しに下をのぞくと、ビーチへつづく小道に人影を見つけた。

 急ぎ足でホテルから離れていくチヒロのうしろ姿が、茂った樹木のあいだから見え隠れしている。

 早く追いかけないと。

 このまま二度と会えないなんて、嫌だ。

 後悔に頭をたたかれ、僕はすぐに部屋を飛び出した。

       ・
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       ・

 チヒロは──

 ──────

 ──────いた。

 林の裏側のホテルから漏れる光と、星明かりが頼りの暗い波打ちぎわに、ひとりたたずんでいた。

 昼の美しい天然色が、夜の闇に塗りこめられた海を見つめている。

 救われない思いを抱え、荒涼(こうりょう)の地に立ちつくしているような横顔は、僕が近づいていってもピクリとさえ動かなかった。

「ごめん、チヒロ。俺の言いかたが悪かった。それに思ってもないひどい言葉を吐いて、ほんとうにごめん。
 え……と。仲直りしよう。もう言い争いはしたくないんだ」

 返事はなかった。僕の声などまったく聞こえてないみたいに、チヒロは沈黙している。

 葉ずれのざわめきに似た波音が、くり返す寝息のように、漆黒(しっこく)の海から漂い聞こえている。