部屋へもどり、軽くシャワーを浴びた。
バスルームを出ると、さっきまでテレビを観ていたチヒロは、ベッドに横向きの寝姿勢で眠りこんでいた。
今日は一度も睡魔に襲われていないから、その反動がきたんだろう。
安心しきったようなチヒロの寝顔から、なにげなく足のほうへ視線を移して──息が止まった。
チヒロの膝から下が……ない。
なくなっている。
ちがう。目の錯覚だ。
否定しながらまぶたをこすり、もう一度よく見た。
すると白いソックスをはいた足先とふくらはぎを、うっすらとだけど、どうにか認めることができた。
どうしてこんなことが……。
「チヒロ……。チヒロっ」
チヒロが消えてしまう。
怖くて、うろたえ、夢中でチヒロを呼んだ。
「ん……」
チヒロはけだるげに仰向き、薄くまぶたを開けた。
「ヨシくん。あれ……朝?」
「違うよ。まだ夜だよ。俺がシャワーを浴びてるあいだ、眠りこんでたんだよ、チヒロ」
動揺がおさまらなくて、声がふるえ気味になった。
「やだ。ごめんなさいっ。旅行に連れてきてもらったのに、ずうずうしく寝ちゃって」
あわてて上半身を起こすチヒロに、
「いいよ、いいよ。眠いなら寝てて。違うから。それで起こしたんじゃないから」
勘ちがいを解いて、さりげなくチヒロの足先を見やった。
見える。
見えている。
もとにもどっている。
よかった……。
詰めていた息をそろそろと吐きだす僕を、チヒロは哀れむようなまなざしでじいっと眺めている。
そしてベッドの上に横座りし、ひっそり笑った。
「もしかしてわたしの身体……どこか消えてた?」
「え……。なんで」
「隠さなくていいの。ヨシくん、顔にでてるもの。動揺してるのが。
わたし、知ってるの。じぶんの身体がこのごろ……眠りに落ちると、どこかが消えるって」
え……。
チヒロは、やわらかく微笑んでいる。
彼女のその、のどやかな態度がまったく理解できなかった。
じぶんの身体が消えるのを知っているのに、どうしてこれほど落ち着き払っていられるのか。
「ここ1週間くらいかな。ヨシくんがアルバイトに行ってるあいだ、わたしの意識が急にふっと途絶えることが頻繁にあったの。
それでね……。
とつぜん目が覚めたときに……無意識に手を顔に持っていったら、手首から先がなくなってたの。
びっくりしたぁ。
わけがわからなくて、思わず腕をぶるんぶるんふっちゃった。そうやったら、にょきにょき生えてくるって思ったのかも。
馬鹿よね。
でもね、水のなかからものが浮きあがってくるみたいに、すーっと色や輪郭がもどって手が復活したの。
じぶんの身体だけど、気味悪かったのよぉ」
くしゅっと顔を縮めるように、チヒロは笑った。
軽く息をついて、話を継ぐ。
「眠るのが怖い。……ぜったい眠らないってがんばってるのに、いつのまにか眠っちゃってる。
そういうことがくり返されて……だんだんとね、あきらめがついていったの。
あー、わたし、この世から完全に消えていくんだ。ほんとうの終わりが来るんだ、って」
「そんな、そんなことないって。きっと……一時的なもんだよ。だめだよ、チヒロがあきらめたら。
気力が落ちてるから消えちゃうんだよ。 ほら、病は気からって言うだろ。
もっといろんなことに執着しなきゃ。行ってみたいところとか、見てみたい景色とか、俺と……俺と過ごす時間とか……。
まだぜんぜん叶ってないじゃん。
俺はあきらめられないよ。チヒロがいなくなるなんてっ」
力がこもり、押しつけがましい言いかたになっていた。
こんなじぶんは嫌だけど、平常心をキープしていられない。
行き詰まっているようなチヒロのつらそうな視線が、僕の焦りをさらに深めた。
「ヨシくんがそう言ってくれるのは、ほんとうにうれしい。でも、どうにもならないことってあるでしょう。なんにでも終わりがあるのよ。
人と人の別れも、そう……。みんな、いつかはかならず別れを経験する……。
ヨシくんよりうんとちいさい子が、親を亡くしてしまうこともあるの。乗り越えていかなきゃ」
「無理だよ、こんな急に? もうすぐ消えるかもしれないなんて、納得できるわけないよ。
あきらめちゃだめだって、チヒロ! 俺、ずっとチヒロといたいんだよ」
「ヨシくん、聞いて」
チヒロは、このうえなくやさしい微笑をたたえて言った。
「わたしね、いますっごく幸せ。死んだってわかったときはたくさん心残りがあったし、なんでこんなことになっちゃったのって運命を恨んだりしたけど、いいこともいっぱいあったから。
ヨシくんに気持ちが通じて、こうしていっしょにいられて……。
たぶんわたしが生きてたとしても、告白なんてぜったいできなかったし、卒業して会えなくなったらあきらめてたと思うの。
わたしの手帳はわたしの命と引き換えに、ヨシくんのところに届くようにしてくれたんだと思う。
こんなに若いうちに死なせるのはかわいそうって、運命の神様かなにかが……、すこしだけ猶予をくれたのかも」
チヒロの右手がふわりとあがり、僕へ伸びてきた。
淡い乳白色で描かれたようなチヒロの手のひらが、僕の頬にやさしくかさなるのがわかる。
触感ではなく、視覚で。
「そんな顔しないで。わたし、ヨシくんの笑顔を好きになったのに……。
高校に入学してすぐ……球技大会があったでしょ。ヨシくんはバレーボールの試合にでてたよね。
うちのクラスと対戦しているヨシくんを見てて、わたし、胸がきゅんってなったの。
だってすごく楽しそうで……やさしさがあふれでてる笑顔だったから。
わたしもしぜんと笑顔になっちゃう、そんな影響力がある笑顔。
ミスしちゃったチームメイトに笑って『ドンマイドンマイ』って励ましてたよね。
思いやりがあるところもいいなぁって、ますますきゅんきゅんしちゃった。
……あの瞬間から……わたしの片想いがはじまったの……」
僕はくずおれるように床にひざまずき、ベッドに腰かけているチヒロと目線を合わせた。
弱々しさや迷いがみじんも感じられない、尊いほど澄んだチヒロの瞳に、僕の不安はどうしようもなく加速していった。