母さんは急にやわらかな口調になり、階段をあがっていった。

 もどってきた母さんは白い封筒を手にしていて、ばつの悪さを隠せずにいる僕に、「はい」といつもと変わらないにこやかな顔で差しだした。

「5万円入ってるわ」

 それだけ言い、すっとキッチンへ行こうとする母さんの背中に、

「あ、ありがとう。……あのさ」

 あわてて声をかけた。

 ん? とちょっとおどけた顔で、母さんはふり返った。

 僕のなかのわだかまりは、もうすっかり解けている。

 だから素直な気持ちで言った。

「さっきの話……ちゃんと胸に刻んでおくから。でも母さんが心配するような状況には100パーならないんで、それは安心してて。
 だって彼女のお母さん、めちゃくちゃきびしくて、携帯電話も持たせてくれない人だから。俺と付き合ってるってばれたら、怒り狂ってうちに乗りこんでくるよ、ぜったい」

「えーっ。なにそれ! うそでしょう!」

 母さんはびっくり顔でのけぞり、1オクターブ高い声をあげた。

 チヒロの姿は母さんにも見えない。
 だけどチヒロの存在を、僕の彼女として認知して欲しかった。

「うそじゃないよ。そういう母親を持つ彼女だから、とてもじゃないけど理性を無くせるわけないじゃん、おっかなくて。
 彼女にしてもすごくまじめで……なんていうか……うぶ?
 そんなタイプだからじぶんで言うのもなんだけど、世界中のどのカップルよりもピュアな付き合いしてると思うよ。うん、まちがいなく」

 僕の話を聞きながらじょじょに目を大きくしていった母さんは、ふいにぐしゃっと表情をくずし、感極(かんきわ)まったふうに「よしみぃ……」と声を震わせた。

「あなた、なんてえらいの! ごめん。お母さん、恥ずかしいわ。じぶんの息子を信じ切れなくて。
 わたしね、いますっごく感動してるの。善巳の誠実な言葉を聞いて、心が洗われていったわ。わが子ながら、あっぱれよ。
 もう、出血大サービス。そのお金は返さなくていい! 臨時のおこづかいにして」

「え、マジ?」

「マジマジ。大マジよぅー」

 やっぱり甘甘で単純な母さんは、上機嫌で言った。

「ねぇー、善巳ぃ。こんど彼女をうちに連れて来てよ。お母さん張り切ってごちそう作っちゃうわ。写真とかないの? スマホで()ったの。お母さんに見せてよぅ」

 うへ……。
 身体をくねってねだる母親の姿なんか、一秒たりとも見ちゃいられない。

「ないよ。写真なんて。恥ずかしがって撮らせてくれないんだから」

「きゃーっ。なんてかわいいの! ますます興味わくわぁ。
 ねぇ、なんていう名前なの? 同じ学校? 芸能人だったら誰に似てる? 交際のきっかけは? いま流行りのマッチングアプリとか? ねーねー」

 芸能レポーターか!と突っこみを入れたくなる熱量で、質問を浴びせる母さんにあきれ、

「やだよ、答えないよ。臨時のこづかいはサンキュー」

 僕は封筒をひらひらとふって笑いにごし、母さんから逃げた。

「もぅーっ。ちょっとぐらい教えてくれたっていいじゃない。善巳のケーチ」

 は? ケチってなんだよ、ケチって。

 幼稚(ようち)な憎まれ口にかちんと来たけど、乗せられてたまるかと無視を決めこみ廊下へ出た。

 息子に彼女ができたからって、あんなにはしゃぐか? ふつう。

 母さんのおかしなテンションに首をひねり、階段をあがった。

 その途中で、ふっと──もしも──の想像が頭に浮かび、足が止まった。

 もしも。

 もしも、生きているチヒロと母さんを引きあわせたなら──。

 きっと母さんは、嬉々(きき)としてチヒロを質問攻めにするだろう。

 そして当のチヒロはたじろぎながらも微笑み、真摯(しんし)に受け答えするだろう。

 彼女が大の植物好きで園芸部に所属していると知ったら、母さんは喜びのあまりチヒロをぎゅーっと抱きしめるかもしれない。

 いや、かもじゃない。確実にするな。

 そんな日が来たらいいのに。

 僕の寿命を縮めていいから。

 夢みたいな奇跡が、現実に起きたらいいのに。

 心からそう願わずにはいられなかった。