終業式3日前。

 日暮れまでまだ2時間近くある明るい空の下、母さんは庭の花にせっせと水やりをしている。

 僕はリビングのソファーに座ってテレビの情報番組を眺め、隣にはチヒロがいた。

 顔には出さなかったけど、気分がむしゃくしゃしていた。
 すべてはあいつのせいなのだ。

 今日、3年生の教室前の廊下で、ある男子から故意(こい)に身体をぶつけられた。

 背後から歩いて来たあいつは僕の左肩をどつくような感じで、強く当たってきたのだ。

「てっ」

 衝撃と痛みから、思わず声が漏れた。

 なのにあいつは謝りもせずにのうのうと僕を抜き、肩越しにちらっとふり返って、露骨な薄ら笑いをみせた。

 眼鏡のテンプルがきらりと光るその顔に、見覚えがあった。

 まだチヒロと出会う前、チヒロが在籍するクラスを1組から順に探し歩いていたとき、5組の教室で僕にガンを飛ばしてきたやつだ。

 ノンフレームの眼鏡をかけた、理系野郎。

「なんだ、あいつ」

 人を食った態度にたまらず、感情的な声を吐くと、

「やだ、伊原くん。どうして」

 僕のうしろでチヒロが言った。

「イハラっていうの? あいつ」

 やつの背中をにらみながら廊下の壁に寄って、ぼそぼそとチヒロにきいた。

「そう。わたしのクラスメートよ。2年のときいっしょに美化委員を務めたの。いまの……わざと?
 ぶつかって謝りもしないなんて、信じられない。そんな人じゃないのに。ヨシくん、なにかした?」

「俺? なんもしないよ。恨みを買われる覚えなんてゼロ。前もにらまれてさ、わけわかんないよ」

「でも……理由なく攻撃(こうげき)するような人じゃないのよ、伊原くん。
 クラスでもおだやかで、成績が良いのにえらぶらなくて。見た目はクールだけど話すとフランクで、たまに……」

「俺、ほんっとに、なんもしてないよ」

 チヒロがやつを贔屓目(ひいきめ)に見ているのがおもしろくなくて、つい言葉の先を折ってしまった。

 あれから5時間。広い心を持ちあわせていない僕は、胸くそ悪い気分をしつこく引きずっている。

「うわぁ、きれい……!」

 とつぜんチヒロがはずんだ声をあげた。

 びっくりして彼女に目を向けると、食い入るようにテレビを見つめている。

 画面は沖縄の離島、宮古島(みやこじま)のビーチを映していた。

 まぶしいほどに白い砂浜──。

 そこへ澄んだ水色の波が寄せては引き、寄せては引きをくり返し、やさしい潮騒(しおさい)を奏でている。

 空はみごとなまでに晴れ渡り、その(あざ)やかな青さときたら、画面越しでも目に()みるようだった。
 僕の視線も釘づけになり、

「沖縄、行ったことある?」

 チヒロにきいた。

「ううん。大人になったら、いつか行ってみたいと思ってたけど。ヨシくんはあるの?」

「俺もない。うちの母親、飛行機と船が苦手でさ。家族旅行はもっぱら車か列車での移動だったんだよね」

「そうなの? あのね、恥ずかしいことをひとつ打ち明けるけど、わたし、まだ飛行機に乗ったことないの。機会がなくて」

「えー。ほんと? でもべつに恥ずかしくも珍しくもないんじゃない。
 俺だって北海道のおじさんのところに父親と行った2回……往復で4回か。それぐらいだし。
 俺らの歳だと乗ったことないやつのほうが多いんじゃないかな」

「そうかな。……ねぇ、ほんとうにこんなに透明なのかな、宮古島の海って……。
 砂浜も白く輝いてて……日本じゃないみたい。別世界ってこういう場所のことをいうのね。ものすごくきれい……」

 たしかに別世界。実在しているのが信じられないほどの、絵画みたいな景色だ。

 (あこが)れいっぱいのまなざしで南国のビーチにみとれるチヒロを見ていたら、僕の心がぐっと前へ押し動かされた。

「ふたりで行って、たしかめてみようか。ほんとうにこんなに透明なのか」

 とっさの思いつきを、口にしていた。

「え、でもどうやって?」

 チヒロは戸惑いを浮かべた瞳をぱちくりさせた。

「そりゃあ、飛行機で。夏休みに行こうよ」

「でも飛行機って……高いんでしょ。お金は……」

「すこしなら貯金がある。で、足りない分はバイトする」

「バイト? ヨシくん、推薦入試なの? 模試を受けてないようだけど」

 痛いところを突かれて、ぐっと返答に詰まった。大学試験にまつわる質問をされるのが一番困るのだ。

 じっさいのところ2年時の成績が悪かったから推薦をもらうのはまず無理で、進学するなら一般入試か共通テストを受けなきゃならない。

 もしチヒロがそれを知ったら……。

 受験勉強を第一に考えなきゃだめだと言い張り、旅行やバイトを反対するに決まってる。

 それはぜーーーったい嫌だ。

 僕はなんとしても、チヒロを宮古島に連れて行きたいのだ。