「そりゃそうだろ」

 神部はあきれたようすで、片側のくちびるをくっと持ちあげた。

 神部にはチヒロの住所を調べてもらった借りがあり、まだそれを返していない。

 そのうちな、と神部は言ったきり、忘れたように話を持ちだしてこない。

 いや、神部は忘れてなんかない。そんなうっかりな男じゃないから。

 そのうちどんなムチャを言いだすのか。まったく想像がつかなくて、ちょっとびびっているじぶんがいる。

「神部は、どこ志望よ」

「俺? いちおうW大の法学部」

「マジか。すげーな。もしかして、すえは弁護士とか検察官とか」

「目標はね。もち法曹界(ほうそうかい)で」

 僕を見やり、神部は自信ありげな笑みを浮かべた。

「ひょっとして彼女も?」

「ああ。同じとこ志望してる。あっちは高2のときからA判定取ってて、余裕しゃくしゃくだけどね。負けてらんないよ」

 苦笑と微笑がまじった表情で話す神部の語気には、闘志がにじんでいた。

「いやぁ。神部は大丈夫だろ。俺には、きみも余裕しゃくしゃくに見えるけど」

 おどけて返すと神部は不敵な笑みを投げて寄こし、アメンボが水面をすべるように、すいっとスマートに離れていった。

 戸口へ向かう神部の白い背をなんとなく目で追う僕の胸に、いいな、と思う気持ちがぼんやりわいて、だけどそのわいたものを、すごい勢いで打ち消した。

 違う。俺は神部をうらやんでなんかない。

 視線を机に落として、心のなかで言い切った。

 たとえ神部が彼女と共通の目標を持ち、来年には同じ大学に通うのだとしても。

 親や友だちから公認されていっしょの時間を過ごし、ともに年齢をかさねていくのだとしても。

 やすやすと、それが叶うのだとしても。

 それを僕がうらやんだら──僕がチヒロに不足を感じていることになるから。

 チヒロの姿が唯一(ゆいいつ)見える僕でさえ、彼女に触れることはできない。

 それはいま変えようのない事実でも、チヒロは僕の恋人で、ほぼ一日中いっしょにいて、たくさんの好作用を僕にもたらしてくれているのだ。

 チヒロがいたから勉強をがんばれた。遅刻もなくなって教師から見直された。

 じぶんの部屋に洗濯ものを溜めこまなくなったし、整理整頓(せいとん)が身についてきた。

 悪習が払われたのは、すべてチヒロのおかげだ。

 世のなかにごまんといるふつうのカップルたちより、僕たちは()い時間を過ごしている。

 デートだって──。

 そう。テスト採点期間の休校中に、チヒロとはじめて本格的なデートを満喫(まんきつ)したのだ。

 ふたりでどう過ごそうかあれこれ話し合い、1日目は隣県の広大な緑地公園へ出かけていった。

 そこはチヒロが一度は訪れてみたいと思っていた場所で、事前リサーチの通り、あじさいやキキョウ、アヤメやナデシコやハスの花が見ごろを迎えていた。

 梅雨明けはまだ発表されていなかったけど、頭のはるか上は夏がやって来たみたいな青空が広がり、最高の行楽日和(こうらくびより)だったのだ。

 その緑地公園でチヒロがとくに心をつかまれたのは、野球場ぐらいの大きさの池いちめんに咲きそろう、白や(くれない)(あわ)い桃色に色づいたハスの花だった。

 池にはボードウォークという木の板を張った遊歩道が五差路状にもうけられていて、そのまんなかに立つと360度ハスと甘い香りに囲まれ、異世界に入りこんだような錯覚(さっかく)にとらわれた。

 なかでも純白のハスの大輪の花と、直径30センチはあるだろう円形の緑の葉のコントラストは、目の覚めるような美しさだったのだ。

 あのとき、池に着いてハスを見るなり、

「あー、スイレンがいっぱい咲いてるー」

 なんて、子どもじみた第一声を発した僕に、

「ヨシくん。違うの。これはハスなの」

 とチヒロはやさしく教えてくれた。

「え? スイレンとハスっておんなじ花なんじゃないの。どっちかが別称なんだって思ってた」

「そう勘違いされてしまうけど、じつはまったく異なる植物だって遺伝子の研究でわかったの。
 植物分類でハスはヤマモガシ目ハス科ハス属。スイレンはスイレン目スイレン科スイレン属に分かれてるの」

「ヤ、ヤマメモク?」

 目が点になった僕に、チヒロは「ふふっ」と笑い、

「むずかしい話は置いておいて、スイレンとハスの簡単な見分け方があるのでヨシくんに教えますね。
 水面より上に立ちあがって花が咲いたり、葉を伸ばしているのがハス。
 水面に花が咲いたり、葉を浮かべているのがスイレンなの」