「薬学! え、それって研究職を目指して? それとも病院とか薬局に勤めるほう?」

 K大だと偏差値は70を超えているはず。いまの僕には、まったく手が届かない学校だ。チヒロの優秀さを、あらためて思い知った。

「薬剤師の資格を取るのが目標だったけど……。でもわたしの希望というより、母の強い薦めでそうなったの。
 ほんとは理系より文系のほうが好きなんだけど。
 母が……薬剤師の資格を取っておけば一生仕事に困らない、それがベストな選択だって言って……」

 悲哀(ひあい)混じりの笑みが、ふっとチヒロの顔に浮かんだ。

 定められた運命には、あらがえない。

 そう観念しているように見えたから、

「え、なんでっ? 職業まで自由に選べないの? なんだ、それ。
 お母さんの言いなりになることないって。チヒロはチヒロが好きな道に進むべきだよ。チヒロの人生なんだからさっ」

 頭に血がのぼり、つい強い口調になってしまった。

「なんかひど過ぎないか? 携帯電話を持たせないとか、進路を押しつけるとか。
 チヒロのことをなんだと思ってるんだよ。じぶんの所有物だと勘違いしてるんじゃないかっ!」

「ヨシくん、声っ!」

 チヒロがあわてたようすで、じぶんのくちびるの前に人差し指を突き立てた。しずかに、とジェスチャーで教えられる。

「あ、ごめん。チヒロのお母さんのことを悪く言いたくないけど、あんまりだと思ってつい……」

 無意識に頭をがりがり()きむしる僕を見やり、チヒロは軽く眉をしかめつつも、ふんわり微笑んで首をふった。

「ありがとう。わたしのために熱くなってくれて。ごめんなさい。勉強のじゃましちゃった。
 ヨシくんは……好きな道に向かって、いまできることをがんばってね。
 わたし、また寝ます。……おやすみなさい」

「あ……ぅん。おやすみ……」

 チヒロはベッドに這いあがり、壁のほうを向いて横たわった。

 僕は姿勢を前にもどして、暗記途中だった世界史の教科書に視線を落とした。

 ──いまできることをがんばってね。

 耳に落ちたばかりのチヒロの声が、奥でちいさく反響している。

 わかってる。

 わかってるけど、熱くなった気持ちがすこしも冷めなくて、勉強に集中できない。

 フタが開いたままのペットボトルに手を伸ばし、なかのミネラルウォーターをあおった。

 生ぬるくなっていたけど、それでも水は喉をうるおし、食道を伝って胃に落ちていく。

 ああ、そうだ──。

 わかりきっていたはずのことが、いまさらながら、腹の底にひんやり()みていった。

 チヒロはこんなふうに水を飲むことも、物理的に身体に影響を受けることも、直接の痛みを感じることもないのだ、と。

 温かさや冷たさ、風や雨の刺激、匂いさえわからない。

 そう言っていた。

 僕とチヒロの違いを忘れてしまうときがあるけど、現実は生者と死者。

 そこには2次元と3次元ほどの異なりがあるのだ。

 ──チヒロは、チヒロが好きな道に進むべきだよ。

 すべての進路を奪われた彼女に、そう熱弁したじぶんの言葉がひどく軽率で残酷だったと気づき、僕は固まったまましばらく動くことができなかった。