出た先は両側に病室がつづく通路で、とにかく出口を求めて歩きだした。
照明が暗い。
扉が開いたままの病室のほうはもっと暗く、いまは夜なのだと把握できた。
中央側の壁が途切れたところに、エレベーターホールがあった。
そちら側に進んでいくと、飲み物の自動販売機がずらりと並び、椅子や小テーブルが点々と置かれた空間があった。
そこに、両親がいた。
母親は椅子に腰かけて、いままで見たこともない暗い面持ちでうつむいている。
父親は黒く反射する窓辺に立ち、ぽつんぽつんと外灯が点る外の夜景をじっと凝視していた。
ふたりに話しかけたけれど、やはりなんのリアクションもない。
母親の腕に触れてみると、すうっ、とそのなかへ入りこんでしまった。
やがて吉川さんの身体は看護師の手によって清められ、白地に紺の柄が描かれた地味な浴衣に着替えさせられた。
そしていったん霊安室に移されたあと、真夜中近くに自宅へ運ばれ、和室に敷かれた布団に寝かせられたという。
この一連の出来事は夢じゃない。
謎が一瞬にして解明するようにそう直観したとたん、吉川さんは気が狂ってしまいそうなほどの絶望に襲われた。
胸が引きしぼられるように痛くなり、苦しさのあまり、部屋の隅で身体をふたつに折ってうずくまった。
たえまなくくゆる線香の煙にかこまれて、無情にも時間が過ぎていった。
やがて疲れ切り、まっ白になった無の境地に、とつぜん一縷の希望が差しこんだ。
いまなら、まだ生き返れるかもしれない。
だってわたしの心臓は動いている。ドクドクと拍動している。
死んでいるのに、おかしいじゃない。
物を擦り抜けてしまうこの魂をじぶんの身体にもどして、一体化させることができたなら、よみがえられるかもしれない。
何度も、何度も、試してみた。
でも──。
願いは叶わなかった。
吉川さんの通夜と告別式は、住まいの地域のメモリアルホールでつつがなく執り行われ、遺体は荼毘に付されてしまった。
「火葬場の炉のなかに、棺に納められたわたしが送りこまれていったんです。
エレベーターの自動ドアみたいな扉がゆっくり閉まって……、そこの職員の男の人が点火ボタンを押しました。
それを眺めてたら、わたしの人生、ほんとうに終わっちゃったんだ、ってゆっくり水の底に沈められていくような感じで……観念する気持ちになっていったんです。
とうとうこの世とお別れしてあの世と呼ばれる別の世界へ行ってしまうのね。それとも魂さえ消されて、完全に消滅してしまうのかな。
どちらかを覚悟してわたしはそのときを待ちました。でも、なにも起こらなかったんです。
わたしは……わたしが死んだ日からずっと、こんな状態で、この世に置いてきぼりになってるんです」
吉川さんは葬儀場へもどって精進落としを終えたあと、両親とともに自宅に帰った。でも夜になってふらりと外へ出た。
どこかに、わたしが見える人がいるかもしれない。
わたしのように成仏できずに、中途半端にこの世をさまっている人だっているかもしれない。おおぜい人がいるところなら、ひとりくらい。
そう思って新宿へ行き、夜が明けるまで駅前にたたずんでいたのだという。
「なんで新宿?」ときくと、
「だって世界一乗降客数が多い駅じゃないですか。人がひしめいている池袋や渋谷……六本木なんかも頭に浮かびましたけど、ほとんど知らない場所なので……。
新宿には小学生のころ、何度か父に映画に連れて行ってもらったことがあるんです。 だから電車に乗って行ってみたんですけど……。
その電車内でも、駅構内でも、待ち合わせをしている人たちがたくさんいる東口の駅前広場やトー横でも、わたしが見える人はいませんでした。
柱や人を通り抜けたり、駅の通路の天井まで跳ねあがったり……常識では考えられないことをしてみたんですけど、驚く人は誰もいませんでした」
吉川さんはすこし疲れたようすで肩を落とし、ふし目にした視線をまっ白いソックスで包んだ足のつま先にうつろわせた。
「そっかぁ……」
僕はしんみりつぶやき、押し黙った。
吉川さんが味わった、恐怖や絶望や孤独がどれほどのものか。
僕はそれをじぶんの身に置きかえて追体験するしかないのだけど、あくまでも想像でしかなく、同じ苦しみを分かちあうことはできない。
照明が暗い。
扉が開いたままの病室のほうはもっと暗く、いまは夜なのだと把握できた。
中央側の壁が途切れたところに、エレベーターホールがあった。
そちら側に進んでいくと、飲み物の自動販売機がずらりと並び、椅子や小テーブルが点々と置かれた空間があった。
そこに、両親がいた。
母親は椅子に腰かけて、いままで見たこともない暗い面持ちでうつむいている。
父親は黒く反射する窓辺に立ち、ぽつんぽつんと外灯が点る外の夜景をじっと凝視していた。
ふたりに話しかけたけれど、やはりなんのリアクションもない。
母親の腕に触れてみると、すうっ、とそのなかへ入りこんでしまった。
やがて吉川さんの身体は看護師の手によって清められ、白地に紺の柄が描かれた地味な浴衣に着替えさせられた。
そしていったん霊安室に移されたあと、真夜中近くに自宅へ運ばれ、和室に敷かれた布団に寝かせられたという。
この一連の出来事は夢じゃない。
謎が一瞬にして解明するようにそう直観したとたん、吉川さんは気が狂ってしまいそうなほどの絶望に襲われた。
胸が引きしぼられるように痛くなり、苦しさのあまり、部屋の隅で身体をふたつに折ってうずくまった。
たえまなくくゆる線香の煙にかこまれて、無情にも時間が過ぎていった。
やがて疲れ切り、まっ白になった無の境地に、とつぜん一縷の希望が差しこんだ。
いまなら、まだ生き返れるかもしれない。
だってわたしの心臓は動いている。ドクドクと拍動している。
死んでいるのに、おかしいじゃない。
物を擦り抜けてしまうこの魂をじぶんの身体にもどして、一体化させることができたなら、よみがえられるかもしれない。
何度も、何度も、試してみた。
でも──。
願いは叶わなかった。
吉川さんの通夜と告別式は、住まいの地域のメモリアルホールでつつがなく執り行われ、遺体は荼毘に付されてしまった。
「火葬場の炉のなかに、棺に納められたわたしが送りこまれていったんです。
エレベーターの自動ドアみたいな扉がゆっくり閉まって……、そこの職員の男の人が点火ボタンを押しました。
それを眺めてたら、わたしの人生、ほんとうに終わっちゃったんだ、ってゆっくり水の底に沈められていくような感じで……観念する気持ちになっていったんです。
とうとうこの世とお別れしてあの世と呼ばれる別の世界へ行ってしまうのね。それとも魂さえ消されて、完全に消滅してしまうのかな。
どちらかを覚悟してわたしはそのときを待ちました。でも、なにも起こらなかったんです。
わたしは……わたしが死んだ日からずっと、こんな状態で、この世に置いてきぼりになってるんです」
吉川さんは葬儀場へもどって精進落としを終えたあと、両親とともに自宅に帰った。でも夜になってふらりと外へ出た。
どこかに、わたしが見える人がいるかもしれない。
わたしのように成仏できずに、中途半端にこの世をさまっている人だっているかもしれない。おおぜい人がいるところなら、ひとりくらい。
そう思って新宿へ行き、夜が明けるまで駅前にたたずんでいたのだという。
「なんで新宿?」ときくと、
「だって世界一乗降客数が多い駅じゃないですか。人がひしめいている池袋や渋谷……六本木なんかも頭に浮かびましたけど、ほとんど知らない場所なので……。
新宿には小学生のころ、何度か父に映画に連れて行ってもらったことがあるんです。 だから電車に乗って行ってみたんですけど……。
その電車内でも、駅構内でも、待ち合わせをしている人たちがたくさんいる東口の駅前広場やトー横でも、わたしが見える人はいませんでした。
柱や人を通り抜けたり、駅の通路の天井まで跳ねあがったり……常識では考えられないことをしてみたんですけど、驚く人は誰もいませんでした」
吉川さんはすこし疲れたようすで肩を落とし、ふし目にした視線をまっ白いソックスで包んだ足のつま先にうつろわせた。
「そっかぁ……」
僕はしんみりつぶやき、押し黙った。
吉川さんが味わった、恐怖や絶望や孤独がどれほどのものか。
僕はそれをじぶんの身に置きかえて追体験するしかないのだけど、あくまでも想像でしかなく、同じ苦しみを分かちあうことはできない。