廊下にずらりと並ぶ生徒用ロッカーの南京錠(僕のは3ケタのダイヤル式)を開け、なかから日本史Bの教科書を取りだした。
ヨシカワさんはすかさず、
「え、いつも教科書、置きっぱなしなんですか」
と驚きと失望が入りまじった声色で指摘した。
「いや、たまたまっていうか。先週の金曜はちょっとべつの荷物が多くて、置いていったんだよね」
ヒソヒソ声で釈明し、いそいで扉を閉める。
苦しまぎれについた嘘は、たぶん通用しなかった。ヨシカワさんが横で、ちいさくため息をつくのがわかったから。
受験生の身でありながら、ほとんどの教科書やノートをロッカーに入れっぱなし、いわゆる“置き勉”しているダメ生徒、そのひとりが僕だ。
それをヨシカワさんに感づかれてしまった。
まずい。
脇のあたりが、なんだか急にひんやりしてきた。もしもヨシカワさんがほんとうの僕を知ったら……。愛想を尽かされるのは目に見えている。
これからの言動には、くれぐれも気をつけないと。
「ほんとに、教室入る?」
ロッカーの前でヨシカワさんに、こそこそと確認した。
ヨシカワさんは諭すような目でじっと僕を見すえ、深くうなずいた。
それはひそかに僕に想いを寄せていた恥ずかしがり屋とは思えない、じつにしっかりした意思表示だった。
僕は、ちょっとたじろぎながら、
「やめちゃわない?」
と往生ぎわ悪くきいた。
「なんで、いまさら……」
ヨシカワさんは、あきれたように半笑いし、
「ここまで来て入らない理由はないと思います。授業を受けるのは、わたしたち学生の務めですし」
と大まじめに言い切った。
「はぁ……」
僕は徳の高い尼さんの説法を頂戴したような思いで、「じゃあ」としかたなく教室のうしろの戸を開けた。
教室中の生徒がいっせいに──正確には舟を漕いでいる数人をのぞいて──僕を見やった。
たくさんの視線に突き刺され、たちまち身がちぢんでいく。
「あー? 鴨生田か?」
教壇に立つ久我先生にきかれ、
「はい。すいません、遅刻しました」
素直にペコっと頭を下げた。
「わかった。席について。教科書72ペイジ」
久我先生は叱りもせず、なんでもないようすで授業を再開した。ありがたい。
窓側から2列目のまんなかに位置するじぶんの席について、リュックを机のフックに引っかけた。
教科書を開き、先生の話に耳を傾けているふりをする。
ヨシカワさんはどこだ、とうしろを向いてみると、教室の奥でちょっと気を抜いた休めの姿勢を取りながら、久我先生に視線をそそいでいた。
僕に気づいて目が合った。ヨシカワさんは困惑した顔で、
「ちゃんと前を見て下さい」
と言いながら、黒板を指差した。
僕はちょっと年上のお姉さんにやんわりとがめられたような、くすぐったい羞恥心を感じつつ前を向いた。目線を教科書に落とす。
太政官制が廃止。伊藤博文内閣成立。条約改正中止。保安条令。市町村制。
どれもこれも退屈で興味が持てない話だ。こんなのを好きだと心底うれしそうに話すヨシカワさんは、文化の違う国で生まれ育った異人なんじゃないかと思えてしまう。
久我先生──僕らのあいだでは久我と呼び捨てにしているけど──の、ところどころ間延びする話を聞いていると、いつものようにまぶたが重たくなってきた。
あたりをそろりとうかがうと、何人かはすでにうつらうつらしている。だけど今日の僕は、眠気に飲まれるわけにはいかない。ヨシカワさんに見られているのだ。
せめて久我の授業にもっとメリハリがあって、興味をそそる内容だったらなぁ。
こっそり文句をたれ、ヨシカワさんが「おもしろい」と評した久我をぼんやり見やった。
おもしろいどころか、退屈のかたまりじゃないか。歴史のこぼれ話? そんなの聞いた覚え、まったくないけど。
ヨシカワさんは、まだうしろにいるかな。
気になってそろりと肩越しにふり向くと、すっかり授業に集中している顔つきで、久我の話に聞き入っている。
僕は前へ直り、板書きされた白いチョーク文字を覚える気もなくぼうっと眺めた。
死んでしまったのにそれでも授業を受けたいというヨシカワさんは、僕からするとかなり変わり者……いや奇特な人だ。
久我の話をこうして熱心に傾聴しているのも、受験のためとか、いい成績を取って自尊心を満たすためとか、人から一目置かれるためとかじゃない。
真意はわからないけど、ヨシカワさんはこの瞬間も、知識欲や探究心が旺盛なんじゃないか。そんな気がする。
しかもこんな状況下でさえじぶんを見失わず、自然体でいようとしている。
すごい人だなぁ、と心から思う。
それに引きかえ俺は……。
日頃のじぶんをふり返り、情けなくなった。
いちおう大学に行くつもりはあるものの、勉強にまったく身が入らないのだ。
いまだに志望校をしぼれず、もうこのさいいまの学力で受かるところならどこでもいいか、なんて楽な道へ流されようとしている。
そもそもこの進学校を受験したのだって、じいちゃんにちらつかされた褒美によろめいたからなのだ。
「善巳。都立の新武蔵高校に合格できたら、10万円の入学祝とはべつに、iPhoneの新機種を買ってやるぞ」