彼女はうつむき、鼻をかむときみたいに鼻と口にそっと両手をあてがった。胸がいっぱいになったようすで目が(うる)んでいる。

 誰もわたしのこと、気づいてくれなかった──?

 ヨシカワさんの言葉を脳裏(のうり)反芻(はんすう)し、僕はごくりと唾を飲みこんだ。それって……。

「ごめん、変なこときいて申しわけないけど、ヨシカワさんは亡くなったって聞いたんだけど……」

 ひとりでに震え気味(ぎみ)になる声でたずねると、ヨシカワさんはこくりとうなずいた。僕を上目づかいに見やり、

「そうなんです。車にぶつかって死んじゃったんです。わたし」

 迷子になったちいさい子どもみたいに、心もとなげに言った。

 うそだろ……。

 僕の身体中の(すじ)という(すじ)がかたまり、微動(びどう)だにできなくなった。
 金縛(かなしば)りにあった経験なんてないけど、それってこんな感じかと、パニック状態になった頭でぼんやり思う。

 夢だ。まだ夢を見ているんだ。

 じぶんにそう言い聞かせて、ゆっくりと息を整えた。

「わたしのこと、ふつうにちゃんと見えてますか? 足が欠けてるとか、おかしなところありませんか」

 落ち着きを取りもどした声で、ヨシカワさんがきいた。

「え、と。全体はちゃんと見えてるけど、ふつうとはちょっと違って……ぼんやりとまではいかないけど、ちょっと薄いっていうか……」

「薄い……そうですか……」

 ヨシカワさんは僕の言葉をくり返し、悲しげにまつ毛をふせた。

 でもすぐにはっと顔をあげ、食い入るような目で僕を見つめた。

「どうしてわたしのこと知ってるんですか!? わたしたち、なんの接点もないのに」

「それは、その……」

 僕は口ごもり、迷いながらも肩からリュックを降ろして、ファスナーを開けた。

「じつは、これを裏庭で拾って……」

 おずおずとピンク色の手帳を取りだした。

 ヨシカワさんのつぶらな目が、三倍大きく見開かれ、

「いやぁっ! うそーっ!」

 と取りみだし、両手で手帳を奪おうとした。

「あ……」

 でも透き通るように白い彼女の手は、僕の指や手帳を(けむり)のように擦り抜けた。

 いまにも心臓が止まる思いで、ヨシカワさんをそっと見やった。すると彼女は泣きだしそうな顔で、

「……読んじゃいました?……」

 ()れ過ぎたトマトみたいな、真っ赤な顔できいてきた。

「えっと……誰のだろうと思って、ちょっとだけ……」

「いやぁっ。もう死にたい……っ」

 ヨシカワさんは手のひらで顔をおおい、しゃがみこんだ。
 けれどそろりと手をはずし、どこか遠くをぼうっと眺めるような目をして、

「そっか。わたしもう死んじゃってるんだった……」

 と、ぽつりとつぶやいた。

「わたし、幽霊ってことになるんですよね。不気味ですよね。怖いですよね。嫌ですよね。消えて欲しいですよね」

 悲痛な目で見あげられ、矢継(やつぎ)(ばや)に問われた。

「いや、ぜんぜんっ」

 とっさに僕の口から否定の言葉が出た。

「怖くない。ほんと。気持ち悪くないし、消えて欲しいとも思わない。ただ、これって夢なのか幻覚(げんかく)なのかって疑ってるんだけど」

「夢じゃないし幻覚でもないです。だって鴨生田くんがここに来るずっと前から、わたしいろいろなところへ行って、たくさんの人に会ってきましたから。
 でも誰もわたしが見えてませんでした。 話しかけてもぜんぜん反応がなくて。ほんとです。 
 わたしだって、なんで?って、いま、頭のなかが大混乱してるんです。なぜ鴨生田くんにだけわたしが見えて、こうやって話していられるんだろうって……。
 まさか、鴨生田くんも死んじゃってる……ことないですよね」

「えぇっ!?」

 僕は声を裏返らせ、じぶんの足先から胸もとへ、せわしく視線をめぐらせた。

 見たところ、どこも薄くなってはいない。
 安堵(あんど)の息をひとつつく僕に、ヨシカワさんは気の毒そうに微笑(ほほえ)み、

「ごめんなさい。そんなことないですよね。鴨生田くんはちゃんと生きてる人だから、心配しないでください」

 立ちあがって、スカートのプリーツを手ではらうように直した。

 夢じゃないし幻覚でもない。ヨシカワさんにそう言い切られはしたけど、かといって現実とも思えなかった。

 ふと昨日のやりとりを思い出し、

「ヨシカワさん……昨日、僕のうちに来てくれた?」

 ときいてみた。

「いいえ」

「え、でも声が聞こえたんだけど。ヨシカワさんのその声が。それにヨシカワチヒロって名乗ってたし」

 ヨシカワさんは困惑(こんわく)したようすで、ちいさく笑った。