どれも抜群(ばつぐん)にうまいと知っているから、かってに(つば)がわいてくる。

 父さんはとっくに会社へ行ったんだろう。
 キッチンで洗いもの中の母さんは、「おはよう」と挨拶してきただけで、なにも聞いてこない。

 いつもだったらどうでもいい話をしてくるのに、我慢(がまん)しているのだとわかる。

 ショートカットヘアですらっとした体型。白Tシャツに生成りのワイドパンツという見慣れたうしろ姿が、いつになく緊張しているように見える。

 『しばらくほうっておいて』とメモ紙に返信した僕の一文が、思いのほか母さんを萎縮(いしゅく)させているようだ。

 ふだんはちゃんと「いただきます」を言うけど、黙ってエッグマフィンを手に取った。ひと口かじる。

 バンズが焼き立てみたいにやわらかく、半熟目玉焼きのとろっとした黄身が破れてたちまち染みていく。

 バターのほのかな甘みと、ベーコンの塩気もちょうどいい。
 率直においしいと感じるから、味覚はもどったようだ。それがうれしいのか悲しいのか、僕にはわからなかった。

 リビングのテレビに映る情報番組を漫然(まんぜん)と眺めながら、もくもくと食べ進めた。

 テレビ画面に表示される現在時刻は、いま家を出れば遅刻をギリギリまぬがれられるぞ、と教えている。

 でも僕はあわてることなく、ふてぶてしく朝食を食べつづけた。

 もー、早く食べなさい。遅刻しちゃうでしょー!

 迫力(はくりょく)に欠ける母さん恒例(こうれい)のせかし声も、今朝はなりをひそめている。

 クラムチャウダースープも全部たいらげ、ようやく腰をあげた。

 母さんはリビングのテラス窓から庭に出て、花壇(かだん)の花に水やりをしている。

 町内の人から“花畑”と(しょう)されている庭は、今朝も色とりどりの花が輝かんばかりに咲きみだれている。

 開けっぱなしの窓の向こうから、

「行くの?」

 とひとこときかれた。僕がこっくりうなずくと、

「そっ。気をつけてね。あ、お弁当持っていくの忘れないでよ」

 すっぴんの母さんはそばかすが浮いた顔をくしゃっとさせ、友だちと仲直りできた子どもみたいな、うれしくて、そしてほっとしているのがまるわかりの、無垢(むく)な笑みを浮かべた。

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 クロスバイクに乗ってペダルを漕いだ。でもいっこうにスピードがあがらない。

 ちんたら足を動かしているだけなのにやたらと疲れを感じるのは、いまだもどらない気力のせいだろうか。

 ()みあがりのようにすっきしない頭に、この7日間の出来事がスライドショーのように流れていった。

 まったく()えてなかった僕の日常は、ヨシカワさんの手帳を拾って一変した。

 ぶ厚い雲が切れて光りが()し、花が甘く香るような空気の、ときめく別世界になった。

 それがまた反転し、冴えないどころか、どこを見渡してもどんよりしたトーンの世界にさまがわりしている。

 学校へ行って、友だちと会うのがわずらわしい。いつものようにヘラヘラ笑うなんてできない。

 だったら、さぼっちゃえよ。

 投げやりなじぶんがそそのかす。だけどほんとうにさぼったら、ヨシカワさんにがっかりされそうな気がした。

 リュックのなかに彼女の手帳を入れてきた。それがヨシカワさんの一部のように感じられて、かたときも離したくなかったから。
 
 肝心のヨシカワさんは、この世界にもういない。

 このあいだまではどこかで誰かと話し、どこかで笑い、どこかで歩き、どこかで眠り、この地平上のどこかにたしかに存在していたのに、いまはどこを捜しても見つけられない。

 高校3年生──。まだまだこれからという人生だったんだ。

 ヨシカワさんが勉強をがんばっていたのは、きっと夢や目標があったからだろう。

 それがとつぜん命を奪われて、どれほど(くや)しかったか。

 どれほど悲しかったか。

 どれほど怖かったか。

 ヨシカワさんの心のなかを思いやると、無念で残念でたまらない感情が、身体の奥から激しく突きあがってきた。

 喉と目の奥がじわっと熱くなり、なんの変哲(へんてつ)もない町筋(まちすじ)の風景をぼやけさせていく。

 視界のなかで水没したように映る校舎の3階が、家々の屋根の向こう側にぬっと突きでていた。

 ヨシカワさんはいないのに、僕たちの学校は何事もなかったような静けさでたたずんでいるのだ。

 なんだ、これ──。

 違和感を覚えずにはいられなかった。

 平穏(へいおん)な町のようすにも、のどかな空気にも。