「これ、山梨の家の電話番号。受かったら連絡ちょうだい。それまでは勉強に専念しなさいね。
 あなたは……あなたの道をしっかり歩いていかなきゃだめよ」

 二つ折りしたメモ紙を、僕が持つ紙袋に入れ落とした。

「はい」

 しおらしい態度で、僕はうなずいた。


 * * *

 
 西の空が、まばゆい黄金色(こがねいろ)に染まりはじめていた。

 その下に広がる遠くの町並みは、影絵を淡くしたような幻想的なシルエットを描いている。

 もうすこしこの空を眺めていたくて、家へ帰る途中の公園前でバイクを止めた。

 夕立が過ぎ去ったあとの町の空気は蒸し暑さが洗われて、清められたようにすがすがしい。

 公園の樹木は旺盛(おうせい)に葉っぱを茂らせ、くっついたままの雨の雫を、ガラス玉のように輝かせている。

 バイクのバスケットに入れていた紙袋に手を伸ばし、開けた。

 握りこぶしより大きくて、全体がうす汚れたような色の丸っこい物体が入っている。

 チヒロがいちばん気に入っていたという、ぬいぐるみ。

 いったい、なんのぬいぐるみだろう。

 取りだしてみると、黄色いくちばしがくっついていた。

 黒丸の目と目が離れ、胸の毛は白く、頭から背中は薄茶やグレーや焦げ茶の毛が混じり合い、左右の羽に白い斑点(はんてん)模様がついている。

 (すずめ)かと思ったが、くちばしが平べったいし足には水かきらしきものがある。
 ということは水鳥(みずどり)か。

 全体のフォルムは、成鳥(せいちょう)ではなくヒナっぽい。もしかして、カモ……?

 実物の鳥でいうなら、肛門あたりの場所にちいさなタグが縫いつけられていた。

〈うかるガモ ピーナッツ工房.CO MADE IN JAPAN〉と印字されている。

 うかるガモ? なんだ、それ。ごろ合わせのネーミングだろうか。

 〈受かる〉と〈かるガモ〉

 受験生をターゲットにした、合格祈願グッズなのか。それにしては微妙なネーミングだ。

 地味な配色の鳥のぬいぐるみを手のひらに乗せ、しげしげと見つめて考えた。
 チヒロがこれを気に入っていたという理由が、さっぱりわからない。

 うかるガモ。かるガモ。ガモ……。

 口のなかでつぶやいていて、はっとした。

 まさか、とちいさく噴きだしてしまう。

 〈うかるガモ〉をさらに引き寄せ、顔を突き合わせた。

 このカルガモと俺って、リンクしてる?

 きいてみたくてもその答えを唯一知るチヒロは、この地平上のどこを捜しても見つけられない。

 それこそ永遠の謎になってしまった。

 チヒロはこの〈うかるガモ〉に名前をつけていただろうか。だとしたら、なんて名前だろうか。

 手帳にもその記述はなかったから──いや、ちょっと待てよ。意味がよくわからない箇所があったような……。

 記憶のページを猛スピードでめくりもどした。

 あっ、あれだ、と思い当たる。

 手帳に書き記された、最後の日付けの日記。

『ガモちゃんにキスして寝たら、夢に善巳くんがでてきてくれました。最高の目覚め。最高な朝。最高な一日!』

〈ガモちゃん〉ってなんだ? 飼っているペットか?
 手帳のその部分を読んだとき、頭をひねったのだ。

 おまえ──ひょっとして“ガモちゃん”か?

 とぼけた顔つきの〈うかるガモ〉をつくづくと眺め、心のなかできいてみた。

 もちろん、返事が返ってくるはずもなかった。

 チヒロが枕元に置いて寝ていたという、ちいさなぬいぐるみ。

 なんだか無性にいとおしくなって、黄色いフェルトのくちばしにじぶんのくちびるをほんの一瞬くっつけた。

 チヒロとの間接キスだと思ったら、めちゃくちゃ恥ずかしくなって、顔がボッと熱くなる。

「帰るか、ガモちゃん。うちに」

 ひとり照れながら、〈うかるガモ〉をそっと袋にもどした。

 家に帰ったら、やけにがらんと感じる部屋でチヒロを思い、泣くかもしれない。

 だけどそれでもいいんだ──と、僕は早くもじぶんを許した。

 涙が出つづけることはない。

 泣き濡れてもかならず涙は乾き、また泣き濡れても乾き……。

 それをくり返して一日一日を乗り越え、僕は僕の道を歩いて行けばいい。

『この世に生きているってすばらしいことよ』

 チヒロが僕に教えてくれた道標(みちしるべ)のような言葉が、耳にくっきりよみがえってくる。

『いまがとっても苦しい状況だとしても、自分しだいでこれからの日々をどうにでも変えていけるんだもの』

『完全にひとりぼっちではないんだもの』

『いまを生きている……生かされている幸運を忘れずにいてね』

(とうと)い願いのこもった一語一語が、熱く心に沁みていく。