虚脱状態のお母さんの肩をささえて、玄関まで連れて行った。
ぐしょ濡れの髪の毛先やあご、Tシャツのすそから雫がしたたり、玄関の床タイルにたちまち水の円ができていく。
「大丈夫ですか。早く着替えたほうが……。あの、今日は僕、これで失礼します。別の日にあらためて伺わせてもらえたらと思うんですけど……」
お母さんの精神面を考えて早々に立ち去ろうとした──のだけど、ぼんやりしていたお母さんの目が、とつぜん“カッ”と見開いた。
「ちょっと待って! そんな濡れネズミで帰らせるわけにはいかないわ!」
いったいなんのスイッチが入ったのか。
お母さんは叱りつけるように言うと、床が濡れるのもかまわず僕を洗面所にぐいぐい引っぱっていった。
「いま着替えを持ってくるから。そこの引き出しにタオルが入ってるの。何枚でも好きに使って。ドライヤーはそこね。濡れた服はぜんぶ洗濯機に放りこんで。洗って乾燥させるから」
と、てきぱきと指示をだした。
「え。服をぜんぶ……ですか」
さすがにパンツまでは、とためらうと、
「もちろんパンツもよ。そのようすじゃ、なかまで濡れてるでしょ。こんなおばさんに、なに恥ずかしがってるのよ」
ぴしゃりと言われて、従わざるを得なかった。
ハーフパンツのポケットに入れていた二つ折り財布は、防水加工されているおかげで中味は濡れずにすんでいる。
「だいぶ前に夫用に買ったものだけど、まだ一度も袖を通してないのよ。服が乾くまでこれで我慢して。パンツはないから、ノーパンなのもね」
お母さんが手渡してくれたのは、水色地にほそい紺のストライプが入った半袖パジャマだった。
手早く着替えと髪を乾かし、洗面所を出た。
すると頭にタオルを巻いたお母さんが、
「こっちで待ってて」
と和室へと手招いた。
お母さんもすでに、黒いニットとライトグレーのロングスカートに着替えている。
座卓に湯気を立てた緑茶と個包装のせんべいが用意されていた。
「ちょっと髪を乾かしてくるから、お茶でも飲んでて。あなたの服は……洗濯と乾燥で1時間半はかかるかな」
線香の匂いがほの香る和室に、僕はひとり残された。
タンスの隣の二段チェストの上には、小型の仏壇が乗っていた。
わきには花を供えた花瓶と、スナップ写真用のフォトフレームが飾られている。
仏壇の前で正座し、手をあわせた。
つやつやしい茶色のお位牌には、〈蓮香妙清信女〉と文字が刻まれている。
〈れんこうみょうせいしんにょ〉と読むのだろうか。
戒名……なんだろう。チヒロの。
両親は無宗派だと聞いていたけど、チヒロの供養は仏教の習いに従ったようだ。
〈蓮〉の字がつけられたのは、なにか意味があるんだろうか。
仏教にハスの花はつきものだというようなことを、以前チヒロは話していた。
テスト休みの日、ハス池を観賞したときのことだ。
仏教での戒名は、みんな〈蓮〉がつけられているんだろうか。
でもうちのご先祖の古いお位牌には、〈蓮〉の字が使われていなかった気がする。
どうだったろう。はっきりとは思いだせなかった。
いずれにしてもチヒロはあの広大な池いちめんに咲き誇るハスの花にいたく心を奪われていたから、この戒名に満足しているのではないか。
“うん、いいと思うわ”
納得の笑みを浮かべるチヒロの顔が、まぶたの裏に浮かんできた。
フォトフレームのなかのチヒロも笑っていた。満面の、ではなく、はにかんだ笑顔だ。
学校の花壇の前で撮影されたもののようで、ブレザーを着用した制服姿のチヒロが、鮮やかなオレンジ色の花をバックにひとりしゃがんでいる。
ふいに身体の芯がぼきっと折れるような、破壊的な痛みに襲われた。
背中や首から力が抜け、かなめの糸が一本切れたあやつり人形みたいに、背をまるめてうなだれる。
チヒロ──。
ほんとうにもう、きみに会うことはできないのか。
チヒロとの未来が消えたいま、これからの日常をどう生きていけばいいのか、なにを目指せばいいのか、さっぱりわからない。
燃え尽きて灰になる、という喩えが、いまの僕にはよく理解できる。
白い灰だ。
それが砂嵐のように身体のなかをくまなく舞い、僕を廃人化させていく。