身体に打ちつける雨滴はたちまち僕のTシャツとハーフパンツを濡らし、ぐんぐん染みこんで全身を冷やしていく。
家の屋根、アスファルト、車や……木々の葉を打ちつける雨が、やかましい不協和音を響かせた。
激しい雨脚にさえぎられ、チヒロのお母さんの姿がかすんでいく。
ふいに稲光が、あたりを瞬間照らしだした。
チヒロのお母さんはびくっと首をすくめ、家に入ろうと身をひるがえしかけた。
すかさずチヒロが、
「お母さんの嫌いなものは、セロリと肉の脂身。虫はどんなものでも大嫌い」
と声をふりしぼった。
僕はあわててチヒロの言葉を、大声で復唱した。
「好きな作家は、ジュンパ・ラヒリとヤマサキトヨコ。血液型はA型。誕生日は1976年6月10日。
お気に入りの万年筆でほぼ毎日日記をつけてて、その万年筆はお母さんが社会人になったときお祖父さんからプレゼントされたもので、それから……。
肌が弱いから化粧品は無添加のものじゃないとだめで……」
ふたたび白銀の光が、“ぱっ”とひらめいた。
すぐ近くで雷が落ちたようなすさまじい音が鳴り渡り、ひんやりと煙った空気を震わせる。
「やめてっ!」
大降りの雨音を縫うように、チヒロのお母さんが叫んだ。
「そんなの、千尋が生きているときに聞いたことでしょ! なにが目的なの! 人を脅かして、おもしろがってるの!? ねえ、なんなのよ!」
ひどく気が動転していた。
それでもチヒロは語りつづける。
だから僕は、それを伝言した。
「チヒロの小学校の入学式、お母さんが着ていたのはピンクがかったベージュのスーツだった。
とても似合っていたのに、派手じゃない? ってチヒロに何度もきいてきた……。
それからチヒロの高校入試の日、一度も寝過ごしたことがなかったお母さんはチヒロに起こされて、あわてまくって……」
身体をつらぬかれるような強烈な白い瞬きが、再び頭上から降りそそいだ。
身の危険と恐怖を感じ、目を閉じて首を縮こめる。
バリバリバリバリッ────。
まるで怪獣が街のビルを破壊しているような轟音が、耳をつんざいた。
1秒……2秒……3秒……。
雷鳴の残響にかさなって、かき消されていた雨音が復活していく。──と、
「……千尋……?」
チヒロのお母さんの声がして、目を開けた。
お母さんはよろりとしながら、サンダルを突っかけた足を、一歩二歩と前へ進ませた。
滝のような雨を浴び、すぐにぐしょ濡れになった。
「千尋……千尋なの……?」
まぶたを打つ雨に目を細めては開け、また細めては開けている。
チヒロのお母さんは僕の右側を凝視しながら、門扉に近づいた。
「……お母さん……見える? わたしがわかるの?」
僕の横に並んだチヒロが、涙声できいた。
お母さんはせわしなく首を上下にふり、門扉の回転錠に手をかけた。が、指がひどく震えている。
動揺が激しいせいか、乱暴に鍵をガチャガチャ揺するだけでなかなか開けられない。
僕は門扉の内側に手を伸ばし、代わりに錠を開けた。
チヒロのお母さんは一心不乱なようすで扉を手前に引き、おぼつかない足取りでチヒロに近づいた。
「ほんとうに……千尋なの? どうして、こんなことが……」
雨で体温を奪われ青白くなった手で、チヒロの腕に触れようとした。
その手が蒸気のなかへすっと入っていくように、チヒロの腕をすり抜けた。
「あっ……」
放心したようにお母さんのくちびるがちいさく開き、そして苦しげにゆがんでいった。
「お母さん……」
宙に浮いたままの、じぶんに差しだされた母親の手の甲に、チヒロはそっと手をかさねた。
そして泣きくずれるような、笑みくずれるような表情で言った。
「うれしい……。お母さんにもわたしが見えて。わたしね、死んでからもこうやってこの世にいたの。
わたしの姿が見えるのは隣の……鴨生田善巳くんだけだったの。
善巳くんには、いっぱいお世話になったのよ。お母さんと話ができるようになったけど、わたし……もう逝かなくちゃいけないみたい」
「だめよ、そんなの!」
間髪をいれず叫び、お母さんは聞き分けのない子どもがいやいやと駄々をこねるように頭をふった。
「お母さんが、どこへも行かせやしないわ!」
決然と言い放ち、チヒロの手首を──なんの感触も得られない娘の身体の一部をぐっと握った。
お母さんのうすべったい手の甲に、青い筋が盛りあがった。
家の屋根、アスファルト、車や……木々の葉を打ちつける雨が、やかましい不協和音を響かせた。
激しい雨脚にさえぎられ、チヒロのお母さんの姿がかすんでいく。
ふいに稲光が、あたりを瞬間照らしだした。
チヒロのお母さんはびくっと首をすくめ、家に入ろうと身をひるがえしかけた。
すかさずチヒロが、
「お母さんの嫌いなものは、セロリと肉の脂身。虫はどんなものでも大嫌い」
と声をふりしぼった。
僕はあわててチヒロの言葉を、大声で復唱した。
「好きな作家は、ジュンパ・ラヒリとヤマサキトヨコ。血液型はA型。誕生日は1976年6月10日。
お気に入りの万年筆でほぼ毎日日記をつけてて、その万年筆はお母さんが社会人になったときお祖父さんからプレゼントされたもので、それから……。
肌が弱いから化粧品は無添加のものじゃないとだめで……」
ふたたび白銀の光が、“ぱっ”とひらめいた。
すぐ近くで雷が落ちたようなすさまじい音が鳴り渡り、ひんやりと煙った空気を震わせる。
「やめてっ!」
大降りの雨音を縫うように、チヒロのお母さんが叫んだ。
「そんなの、千尋が生きているときに聞いたことでしょ! なにが目的なの! 人を脅かして、おもしろがってるの!? ねえ、なんなのよ!」
ひどく気が動転していた。
それでもチヒロは語りつづける。
だから僕は、それを伝言した。
「チヒロの小学校の入学式、お母さんが着ていたのはピンクがかったベージュのスーツだった。
とても似合っていたのに、派手じゃない? ってチヒロに何度もきいてきた……。
それからチヒロの高校入試の日、一度も寝過ごしたことがなかったお母さんはチヒロに起こされて、あわてまくって……」
身体をつらぬかれるような強烈な白い瞬きが、再び頭上から降りそそいだ。
身の危険と恐怖を感じ、目を閉じて首を縮こめる。
バリバリバリバリッ────。
まるで怪獣が街のビルを破壊しているような轟音が、耳をつんざいた。
1秒……2秒……3秒……。
雷鳴の残響にかさなって、かき消されていた雨音が復活していく。──と、
「……千尋……?」
チヒロのお母さんの声がして、目を開けた。
お母さんはよろりとしながら、サンダルを突っかけた足を、一歩二歩と前へ進ませた。
滝のような雨を浴び、すぐにぐしょ濡れになった。
「千尋……千尋なの……?」
まぶたを打つ雨に目を細めては開け、また細めては開けている。
チヒロのお母さんは僕の右側を凝視しながら、門扉に近づいた。
「……お母さん……見える? わたしがわかるの?」
僕の横に並んだチヒロが、涙声できいた。
お母さんはせわしなく首を上下にふり、門扉の回転錠に手をかけた。が、指がひどく震えている。
動揺が激しいせいか、乱暴に鍵をガチャガチャ揺するだけでなかなか開けられない。
僕は門扉の内側に手を伸ばし、代わりに錠を開けた。
チヒロのお母さんは一心不乱なようすで扉を手前に引き、おぼつかない足取りでチヒロに近づいた。
「ほんとうに……千尋なの? どうして、こんなことが……」
雨で体温を奪われ青白くなった手で、チヒロの腕に触れようとした。
その手が蒸気のなかへすっと入っていくように、チヒロの腕をすり抜けた。
「あっ……」
放心したようにお母さんのくちびるがちいさく開き、そして苦しげにゆがんでいった。
「お母さん……」
宙に浮いたままの、じぶんに差しだされた母親の手の甲に、チヒロはそっと手をかさねた。
そして泣きくずれるような、笑みくずれるような表情で言った。
「うれしい……。お母さんにもわたしが見えて。わたしね、死んでからもこうやってこの世にいたの。
わたしの姿が見えるのは隣の……鴨生田善巳くんだけだったの。
善巳くんには、いっぱいお世話になったのよ。お母さんと話ができるようになったけど、わたし……もう逝かなくちゃいけないみたい」
「だめよ、そんなの!」
間髪をいれず叫び、お母さんは聞き分けのない子どもがいやいやと駄々をこねるように頭をふった。
「お母さんが、どこへも行かせやしないわ!」
決然と言い放ち、チヒロの手首を──なんの感触も得られない娘の身体の一部をぐっと握った。
お母さんのうすべったい手の甲に、青い筋が盛りあがった。