誓った約束を思い出した。

今も果たされていないけど、あのとき、濡らした頬は本物だった。
きらめく絶望はレモンをしっかりと絞るように爽やかなことではない。

「泣いてもいいよ」

あのとき、肯定してくれた君は
永遠がないことをきっと、知っていたんだ。
君と何気ない日常を過ごす選択をすればよかった。





 こんな時間に学校に戻るなんて、ものすごく面倒なことをしていると自分でも思う。
 夕日に照らされている誰もいない廊下を私は一人で歩いている。
 足音はいつもよりも派手に聞こえるのは、それだけ学校自体が静まり返っているからだ。
 
 6月23日、金曜日。明日から連休。
 あと、10日。7月3日で、私は18歳を迎える。
 なのに、私にとっての17歳の最後は、最悪なことばかり続いていて、本当にうんざりだ。


 今日も最悪なことに気がついた。 
 一度、学校から、家に戻り、玄関でローファーを脱いだときに、その最悪なことに気がついた。
 だから、私は仕方なく、また40分かけて学校に戻った。
 その理由は使ったジャージを学校に忘れたから、それを取りに戻っただけだ。

 本当は金曜日は体育なんてないから、もし、授業変更がなければ、学校指定の赤くてダサいジャージをわざわさ取りに帰ることなんてなかったんだと思う。
 しかも、また月曜日に、体育があるから、洗っていないジャージを月曜日にまた着るのは嫌だった。

 市電に乗りながら、こんなことのために、もう一度、学校に行くなんて自分でもどうかしてると思った。
 
 そもそも、今週は嫌なことが、三つもあった。
 まず、一つ目の前髪をセルフカットしたら、思った通りにならなかった。
 そんなのは実際、なれてしまえば、どうでもよくなった。
 
 三つ目のジャージを忘れて、学校に取りに行くことも、正直、どうでもいい。

 そんなことより、二つ目の嫌なことだったことが、私にまつわる、変な噂を流されたのが一番ショックだった。


 あっという間に6月23日になった。
 正直、すべてが面倒だ。
 
 進路のことだって考えなくちゃいけないし、そもそも、大学なんて本当に行きたいのかどうかなんて自分自身でもわかっていない。
 それに、今週に入り、急に面倒なことにも巻き込まれて、なんで、私はこんなにモヤモヤした気持ちを味わなくちゃいけないんだろう。
 濡れ衣が既成事実化される理不尽な世界。それが学校なのかもしれない。

 
 そんなことを考えながら、ようやく、忌まわしきクラス、3年7組のドアをゴロゴロと扉を引くと、目線を感じ、はっとする。
 思わず、私はその場に立ち止まってしまった。
 教室の一番奥の席で中村涼(なかむらりょう)が夕日に照らされていた。

 ワイシャツ姿の涼はオレンジ色に染まっていた。そして、こっちを見て、微笑んできた。
 私は思わず、その笑みに息を飲む。
 遠くからでも涼の二重まぶたでぱっちりして、くりっとした目が印象的だった。その目を細めて、そっと微笑まれたから、急に心臓がうるさく鳴り始めた。

「夏葉(なつは)じゃん」
「――急な名前呼び」
 私は動揺したままの気持ちを抑え込むために、コート掛けの方へ向かった。私のコート掛けの場所は、ちょうど、涼が座っている後ろにある。涼の後ろ側に視線を向けると、しっかりと白のキャンバストートバッグがぶら下がっているのが見えた。

「いいじゃん。会いたかったから」
 涼はそう言って、ヘラヘラとしていた。そう言われて思わず、立ち止まってしまった。え、私に? 

「なんで――」
「引いちゃった?」と私に構うことなく、涼は自分のペースを守るかのようにそう私に聞いてきた。
「……いや、別に」
「よかったー。てか、やっぱり、覚えてるわけないか」
「え、なにを?」
 一体、涼は何を言っているんだろう。そもそも、涼との接点なんてほとんどないでしょ。中学校だって確か、噂では別なはずだし、だから、当たり前だけど、小学校でも接点なんてないし、君を見て、私はなにを思い出すんだろう。

「これ、取りに来たんだろ」
 涼は立ち上がり、私のトートバッグを取ろうとした。
「あ、待って!」
 汗を吸ったジャージ、Tシャツが入ったままだ。だから、私は少しあわせてて、そう言ったけど、涼は私のことを無視して、トートバッグを持ち、行くよって言い、私の方へトートバッグをふわりと放おった。
 私は慌てて、両手でそれを受け止めた。

「ナイスキャッチ」
 涼はしっかりと口角を上げて、また微笑み、ゆっくりと私の方へ歩き始めた。色々、はずかしいけど、もう、なにの所為ではずかしいのかよくわからなくなった。

 私はトートバッグを左肩にかけて、すぐに帰ろうと思った。
 だけど、涼はあっという間に私の2歩先まで近づいてきた。
 なんで、こんなにドキドキするんだろう――。

「前髪切ったんだ」
 え、気づいてたんだ。
「失敗したんだ」
 私は咄嗟に両手で前髪を覆った。というか、やっぱり誰がどう見ても、違和感ある仕上がりだったんだ――。

「え、めっちゃいいよ。今のボブの感じとあってるよ。目尻のほくろがいい味出してる。それに、アイロンで毛先を丸くしてあげたら、すげぇかわいくなるかも」
「えっ」
 これって、口説かれてるのかな。もしかして。なんてこと、考えが一瞬よぎったけど、そんなわけないって、頭の中で疑念を払拭した。というか、左の目尻にある大きめのほくろのことは余計な指摘でしょ。

 だけど、きっと、涼は優しいし、社交的だから、誰にだってそういうことをしてどんな外見でも簡単に褒めるのかもしれない。しっかりと筋が通った鼻や、薄い唇、そして、何より、小顔で高身長――。

 こんな容姿の人が、私みたいなのに手を出すわけがない。
 もっと、ギャルとか、陽キャで明るい女の子が好きなんだ。
 だから、私を口説くことなんてありえない。



 私が最後に告白を受けたのは幼稚園の頃だった。
 今でも、それを親に笑い話にされている。

 もう記憶は断片的で、その男の子の名前はわからないし、私はどんな返事をしたのかもあまり覚えていない。ただ、男の子の声だけ覚えている。
 大好きだよ。って声。そう、泣きながら言われた。

「顔、めっちゃ赤くなってるじゃん」
「――だって、前髪のこと言われたから」
「この切りそろえた感じと、今のボブのバランスがめちゃくちゃいいよ」
「詳しいんだね」
「カリスマ美容師になりたいからね」
 そう言って、涼は右手でピースをして、人差し指と中指をシザーのように動かし始めた。指を動かすたびに床に映されている影も動いた。
 
「なあ」
「――なに」
「泣いてもいいよ。全部、嘘だって知ってるから」
 
 私はそう言われて、小さくすっと、息を吐いた。
 ――そんなこと、急に言われても泣かないよ。

「――フェリーターミナル行こうぜ」
 そう言われて、自分でもよくわからないけど、うんと思わず頷いてしまった。





 まさか、こんな6月23日になるなんて思わなかった。

 私と涼はテーブルで向かい合わせに座り、カップに入った白い恋人ソフトクリームを食べていた。
 お互いに制服姿のまま、函館フェリーターミナルにいるのは、たぶん、傍目から見たら、不自然だと思う。

 柱にかけられている時計をみると、17時45分くらいをさしていた。
 視線を右側に移すと、窓から見える海はだんだんオレンジ色から、藍色に変わっていた。フェリーが止まっている岸壁にはオレンジ色の街灯が等間隔で光っていて、フェリーの白い側面が暖かい色になっていた。

「なあ」
「――なに」
「なんでか、わからないけど、ずっと気になっちゃうんだよ」
「――どういうこと?」
「夏葉のこと」
 いたずらな笑みを浮かべて、涼はソフトクリームをプラスチックのスプーンで掬い、それを一口食べた。
 もしかして、これって、からかわれてるのかな。

 涼の友達が影で動画を撮って、それをあとでクラスのみんなに見せて笑いのネタにするんだろうか――。
 それだったら、最悪だ。

「――ねえ」
「なに?」
「私のこと、ネタにしようとしてる?」
「え、どういうこと?」と涼は本当に見当がついていなそうな表情をしていたから、少しだけほっとしたけど、本人の口から、本当のことを聞かないと安心できない。

「……誰かが、影から動画撮ってるとか」と私は静かに恐る恐る聞くと、涼はふっと声を出して、弱く笑いだした。
「そんなわけないじゃん」
 しっかりと、言い切った涼はまだ笑っていた。私は少しだけそれが嫌になって、気を紛らすためにソフトクリームを一口食べた。

「ま、警戒もするか。てかさ、夏葉が忘れ物を取りに戻ってくるかどうかも確証がない状態で、そんなことで俺の大切なご友人たちを使うわけないでしょ。てか、俺、そんなにチャラついてるって思われてるの?」
「そうじゃないけど……」
「だよな。それだけ、人間不信になってるってことだよな。かわいそうな夏葉ちゃん」
 涼はそう言って、もう一口、ソフトクリームを食べた。

 涼のこと、本当に信じてもいいのだろうか。こんな軽い感じのまま、会話が進む。教室を出たときから、ずっとそんな調子だ。
 そもそも、本当にかわいそうだって思ってるなら――。

「かわいそうだと思ってるよ。マジで。クラスの頭悪いのに目つけられてさ。かわいいと、かわいそうは紙一重だけど、俺はマジで、夏葉がやると思えないんだよ。だって、消しゴムのカスをさ、毎時間、丁寧に集めて、ゴミ箱に捨てに行くだろ。それに、掃除当番のとき、黒板をありえないくらい綺麗にするしさ。ちゃんとすれ違う先生に挨拶するし」
「バカにしてるの?」
「いや、バカにしてないよ。ただ、生真面目だなって思っただけだよ」
 私だって、好きで生真面目なんじゃない。って言おうと思ったけど、それをやめて、もう一口、ソフトクリームを一口食べた。
 甘いバニラが口いっぱいに広がったけど、私の不快な気持ちは治らなかった。

「ま、その生真面目さが、きっと、周りが気に入らなかっただけだよ。だから、あんなひどいこと、されたんだと思うよ」
「言われなくたって、わかってるよ」
 確かに心当たりはある。1軍女子に課題のプリント見せてって言われて、見せなかったり、予備の消しゴムを貸したら、返ってこなかったから、催促して、取り戻したり、そういう細かいことが気に触ったのかもしれない。

「私は私なりの価値観を持って生きているだけだから」
「俺さ、こう見えて、こういうバカ真面目な女の子、ほっておけないんだよね」
「――へぇ」
 そう言われても、涼はきっと、陽キャな子のほうが似合うよ。
 というか、なんで私のこと、そんなに見てくれてるんだろう。

「なあ」
「――なに」
「泣いてもいいよ」
「えっ」
「つらいんだろ。泣けよ」
「そんな急に言われても――。泣けないよ」
 私がクラスの1軍女子にハメられて、万引き少女の噂をたてられてしまい、無視され始めたのは2週間前のことだった。

「まあ、そうだよな」
「てか、来年で卒業するのに、このタイミングでほとんどの友達、失っちゃったんだけど」
「いいんじゃね。所詮、その程度の友達だったんだよ」
 あっさりそう言われると、孤立してることなんてたいしたことないようにも思えた。だけど、やっぱり、仲良くしてくれていた友達がそうやって、簡単に離れていったのは普通につらい。

「もう、他人事だと思って、軽く言うんだから。私、こう見えて、クラスで孤立してるんだよ」
「だから、泣いてもいいよ」
 涼の微笑みは優しかった。今、その涼の微笑みを独占できているのは素直に嬉しかった。
 だけど、その微笑みをかけられて、泣けよって言われても、きっと私は泣くことに集中できない。

「俺はさ、直接的にどうすることもできないけど、こうやって一緒にいることはできるよ」
「――ありがとう」
「だから、言ってごらんよ。胸の内を」
 そう優しく言われたから、私は静かに頷いた。
 すると、涼は満足げな表情をして、さあ、言って。と私をもう一度、促した。

「――別につらくないんだよね」
「えっ」と涼は意表を突かれたように、オーバー気味なリアクションを返してきた。

「ただ、そこそこ仲良くしてた友達が簡単にデマを信じるんだって思うと、ショックだっただけだよ」
「そうだね。きついと思う」
「それに7月3日、私の誕生日なの。だから、最悪な気持ちで18歳になるなって思うくらいかな。つらいって思うことは。――たぶん、友達のこと、期待しすぎてたんだよ。私」
 そう言い終わると、涼はうーんと言って、ちゃんと私が言ったことに対して、考えてくれていそうだった。

「どうせ、来年で卒業なんだし、こんなのさ、ラジオにでも相談しとけばいいんだよ。ほら、誕生日迎える前に、記念にもなるし」
「相談したって、どうせ真面目なやつは損するようになってるんでしょ。そんなのわかってるよ」
 私はそう言ったあと、木のヘラでソフトクリームの最後の一口を掬って、それを食べた。
 めっちゃすねてるじゃん。と言って、息を漏らすように涼は笑った。そして、それに満足したのか、涼は私と同じようにソフトクリームを一口食べた。

 学校から五稜郭まで歩き、そこから、わざわざバスに乗って、ここまで来た。
 というか、涼の地元がフェリーターミナルから、歩いて10分くらいのところにあるらしい。
 私がこんな状態だから、一軍の女子たちに涼と一緒にいるところを見られたくないでしょ。と言う言い分と、絶対に誰もこんなところになんて来ないだろうってところまで、連れて行くよって言われた。
 だから、私は別に拒否する理由なんてないから、ただ、涼について来ただけだ。

 そう言う浅い理由だけど、ただ、私は誰かに私の言い分を聞いて欲しかっただけかもしれない。

「――大人になってもこんな思い、たくさんするのかな」
「それはわからないけど、これからも楽しいことはたくさんあるってことは言えるよ」
「へえ。超ポジティブだね」
「そうじゃないと、やってらんないって」
 そう満足気に言ったあと、涼は立ち上がった。だから、私は慌てて、残りのソフトクリームを全部食べ、水を飲んだ。

「海、見に行こう」
 涼は窓の外を指さして、隣の席からバッグを持ち上げた。
「もう始まってるよ」
「いいんだよ。そういう細かいのは。相変わらず、生真面目なんだから」
 生真面目って言葉が今日は少しだけ気に障る。涼の言葉に返す気にならないまま、私は無言で立ち上がった。立ち上がると、椅子の足の滑り止めが床に擦れて、鈍い音があたりに響いた。

「少し早いけど、誕生日、おめでとう」
「早すぎだよ」
 そう返すと、涼はだよなと言って、ゲラゲラと笑った。






 ターミナルの建物を出た。外はもう夜が始まろうとしていた。右手のほうの水平線に太陽が3分の1くらい沈んでいた。玄関の脇で、バックパッカーが自転車を分解していた。

「お、やっぱり綺麗になってる」
「窓から見てた景色と同じだよ」
「こういうのはリアルがいいんだよ」
「せっかくだから、自撮りしようぜ」
 涼は目の前にあるハートのマークのモニュメントを指さした。だから、私は何も言わずに、涼の右手を握り、モニュメントのほうへ走り始めた。

「おい、急すぎだって」
「撮ろうって言ったの、涼でしょ」
「そうだけどさ」とか、いいながらも涼も一緒に、しっかりと走ってくれた。と思ったら、私を追い越して、むしろ私の左手を強引に引っ張った。

「はやいって!」
「走り出したのそっちだろ」
「手加減してよ」
 そんなやり取りの間に私たちは簡単にモニュメントの前に着いた。
 アルミの筒でハートの形が一筆書きされているデザインだった。

 手前から線が始まり、空に向かって上昇曲線を描いたあと、丸い山をふたつ作り、そして、奥へ向かって、線が滑るように下降曲線を描き、海側の終点へ向かって線は進んでいた。

 手前と、奥にある線の始点と終点は流線型をしていて、潜水艦の先端のように見えた。
 奥の終点の端は夕日を反射して、濃いオレンジ色をしていた。
 
 ハートの真ん中には小さい鐘がぶらさがっていて、奥には函館山の端が見えていた。山の残りの部分は停泊しているフェリーで隠れていた。シルエットが濃くなっていて、やがて闇に馴染もうとしていた。

「ねえ」
「夏葉、どうした?」
「――私って、そんなに生真面目かな」
 その問いにすぐに答えるように、打ち寄せる波の音が聞こえた。
「万引きしたのに?」
「最低。少しくらい慰めてよ」
「嘘だって」
 悪気がなさそうに涼はゲラゲラと笑い始めた。
 もうって、軽く返したあと、私は繋いでいた手を離し、涼の背中を叩いた。

 私に背中を叩かれたあとも、しばらくの間、なにが面白いのかわからないけど、涼は笑い続けていた。
 笑うのに満足したのか、そのあと、あーあ、と言って、涼は私を見つめてきた。

「夏葉が生真面目なことなんて、俺が一番知ってるに決まってるじゃん。そんなヤツがさ、そんなことするわけないだろ。普通」
「――もし、本当にしてたら?」
「は? マジでやったの?」
「いや、違うけどさ。そういう可能性だってあるじゃん。だって、私がやってない根拠を立証するのは難しいし」
「そういう生真面目さはいらないよ。細かいこと考えてたら、鬱になるよ」
「いいよ。もう、鬱気味だし」

 俯いて、涼から視線を逸らした。頭はオムライスの上にケチャップで絵を書いて失敗したみたいにグチャついていた。
 そんな薄い言葉なんて望んでない。

 全部のことがポジティブシンキングで乗り越えられるなら、もう、十分すぎるくらいもらった、今日のポジティブワードで乗り越えられる。

「なあ、見てよ」
 そう言われたから、私はもう一度、顔を上げて、涼のほうを見た。涼はハートの線の始まりのところに腰掛けていた。

「これって、座っていいの?」
 私は思ったことをそのまま口に出してしまった。
「いんじゃね? 何も注意書きないし。となり、座れよ」と涼はそう言って、右手で私のことを手招きした。別に悪いことをするわけじゃないけど、私は思わず、周りを見て、人気が少ないことを確認してから、涼のとなり、始点側に座った。モニュメントのアルミは微温かった。

「ちょっとくらい、肩の力抜きなよ」
「これでも抜いてるほうなの」
「そう見えないけどな。周りなんて気にするな」 
「気にするでしょ。変な噂、立てられたら」
「ま、そりゃあ、そうか」
 今まで話した私の悩みを本当に聞いていたのかって、一瞬、思ったけど、そんな不器用で素直な涼のその感じが、なぜかわからないけど、好きになりそうだった。

「ねえ」
「なに?」
「なんで、私に優しくしてくれるの。不自然なほどに」
「――意外とバカなんだな」
「バカって、どの辺がバカなの」と私が返すと涼はふっと声を漏らして、また弱く笑った。何に対して笑っているのかよくわからなかった。

「昔から真面目じゃん。夏葉は」
「昔って。――適当なこと言わないでよ」
「違うって。俺と一緒だったんだよ。昔」
「なにがさ」と私は本当に見当もつかずに思わず食い気味にそう返して、少しだけ涼のことを睨んだ。

「幼稚園」と言われて、もしかしてって、思ったけど、そんなわけないでしょって、一瞬で脳内で奇跡を否定した。
 そんなのあり得ない――。

「一緒のクラスだっただろ。――そんな顔するなよ」
「――そんな、昔すぎるよ。だって、4歳じゃん。それ」
「そうだよ。4歳のとき、一緒だったじゃん」
 私に対して人生初めて告白をした男の子が涼だとしたら、出来すぎてるよ、それ。
 
「そのときから真面目だったよ。俺がふざけたらちゃんとやってって、怒られたもん」
「――でっちあげてる?」
「でっちあげてたら、あざらし組かなんてわからないだろ。俺、4歳の途中で函館、離れたんだよね。しばらく、札幌に住んでたけど、中学入る前に帰ってきたんだ。こっちに」
「へえ」
「興味なさそうだな」と涼はそう言いながら、両手を後頭部に組み、何秒間か上を向いたあと、うーん、と言って、また両手を膝の上にのせた。別に興味ないわけじゃない。

 ただ、そんな出来すぎだ。
 そんなこと、私はまだ、信じられていないんだよ。
 
 幼稚園のときの記憶なんて、断片的にしか覚えていない。
 それに一緒だった友達の名前なんて、小学校が一緒だった何人かしか、覚えていない。そして、私に告白した男の子の名前は記憶の底に沈殿してしまった。
 この記憶力が普通なのか、バカなほうなのかよくわからない。

「――こういうのさ、ダサいかもしれないけど、高校3年で同じクラスになったの、奇跡だと思ったよ」
「……人違いかもよ」
「そんなわけないだろ。だって、卒園アルバム、引っ張り出してわざわざ確認したんだもん。したら、記憶の子は、同じ名前のクラスメイトだった」
「出来すぎでしょ」
 私は動揺した気持ちをそのまま、言葉にした。そして、茶色のロンファーを履いた両足を無意味に何度も、交互に組み直した。

「――なんでそこの幼稚園、卒園してないのに、アルバム持ってるの?」
「俺もそれ、親に聞いたよ。したら、最初、1~2年で函館に戻る可能性あったから、幼稚園に頼んで買ったんだって」
「へえ」
 私は他人事のようにそんなこと、あるんだと思った。それと同時に目が二重で大きかった男の子の無邪気な笑顔が一瞬、浮かんだ。

「それに――」と涼はそう言いかけて、一瞬何かを躊躇っているように見えた。
「いいよ、なんでも言って」
「泣いてもいいよって言ってくれたから、引っ越しても頑張れたんだ。――覚えてないかもしれないけど」
「――そうだったんだ」
 私、そんなこと言ってたんだ――。

「なあ」
「――なに」
「こんなの奇跡すぎるだろ。だから、付き合おうぜ」
 
 涼の前髪が風で揺れている。心臓は破裂寸前で、なぜかわからないけど、私たちって、離れ離れだったんだって、実感が急に湧いてきた。
 私は涼をしっかりと見つめて、ゆっくり頷いた。すると、涼は笑顔になり、さっき、脳裏で思い出した君と涼はほとんど同じ表情をしていた。

 急に右肩に温かさを感じ、右を見ると、すでに涼の手は私の肩をしっかり抑えていた。また、急に身体が熱くなり始めた。
 左を見ると、涼の顔がものすごく近くにあった。そのあとすぐに、頭をわしゃわしゃとされて、より身体が涼の方へ吸い寄せられた。

「なんで、今のダメな私のこと受け入れようとしてくれるの」
「幼稚園の時と、印象変わってないからだよ」
「変なの」
「真面目すぎなんだよ。素直に助けたいって思った」
「同情じゃんそれ」
「違うよ」
 しばらく、そのまま、私は涼に抱きしめられたままだった。そして、何度も頭をしっかり撫でられた。

 向かいのフェリーターミナルは正三角形の形をしていて、ちょうどガラス張りの斜面が見えている。斜面は夕日に照らされて、赤色を反射していた。
 きっと、ターミナルから私たちがこうしているのを、誰かに見られているんだろうなって思うと、急に恥ずかしくなったけど、今はそんなのどうでもよかった。

 涼の左手が私をすべて肯定してくれているようで、優しく感じた。
 恋って、こんな感じで急に落ちてしまうものなんだなって妙に納得した。


「今まで、よく頑張ったね。これからは大丈夫だよ」
 そっと、頭から手が離れた。
「そんなのわからないよ」
 そう返しながら、涼を見ると、さっきまで私を撫でていた左手でバッグからiPhoneを取り出していた。
「ほら、撮るから、前向いて」
 優しい声で言われて、熱が一気に顔まで上がった。前を向くと、涼が左手をいっぱいに伸ばして、iPhoneをこちらに向けていた。
 iPhoneのインカメラはモニュメントの鈴につけられた紐と、函館山、街灯でオレンジ色に照らされたフェリー、そして、私と、涼を捉えていた。

「髪、ぐちゃぐちゃだよ」
「いいんだよ。奇跡の再会なんだし。笑って。ほら、早く」
 笑みを浮かべようとしたのとあわせて、シャッター音がした。そして、もう一度、シャッター音。そして、もう一度。
 
 きっと、一枚目の私はブス顔だ。
 どうせなら、一枚目から、かわいく撮られたかったのに。

 




 9月3日になった。
 
 私たちはこの夏でしっかり急接近して、そして、もっとなんで早く付き合わなかったんだろうって思うくらい、しっかりと相性の良さ感じるようになった。
 今日もこうして、湯の川の浜辺で手を繋いで、ゆっくり歩いて愛を感じていた。左手に見えるオレンジ色になった太陽は函館山の裾に広がる市街地の方で沈みかかっていた。

「夏が終わるみたいだな」
「そうだね。もう終わってるけどね」
 涼は寂しそうな表情を一瞬見せたあと、気を取り直すかのようにふふっと笑った。
 午後に湯の川で会った私と涼は、焼団子を食べ、老舗の喫茶店のモカソフトを食べて、それでもちょっと足りなかったから、マックでポテトとコーラを飲んで2時間もべらべら喋ったあと、こうして砂浜を歩いていた。
 
「なあ、俺の中だと、この時期ってまだ夏なんだ。だから、夏の終わりのような気がするのさ。本当はさ、6月くらいから夏休みになって、このくらいの時期まで休んで夏を満喫したいな」
「贅沢だね。そんなんだったら、ほとんど学校にいかないじゃん」
「それもそうだな」
「みんな受験のことばかり気にしてて、呑気なの私たちくらいじゃない?」
「呑気で何が悪い。人生なんてどうにでもなる」
 涼がゆっくりと歩みを止めたから、私も一緒に止まった。

 海は夕日を反射して、キラキラとしていた。夜になると、星がキラキラして、奥にイカ釣り漁船の緑色の光が見えて、そして、また黄色い朝日が水平線から顔を出すんだと、頭の中で勝手に一日をタイムラプスにしたら、もう、一日が終わるんだと思った。
 近くにある植物園の方から子供がはしゃいでいる声が聞こえる。
きっと、植物園のなかにあるプールで遊んでいる子供たちの声だ。涼を見ると、満足げな顔をしていた。

「なあ、夏葉」
「なに?」
「俺たち、上手く大人になれるといいな」
「どういうこと? それ」
「そのままの意味だよ」
 そう言って、涼は微笑んでくれた。
 私が戸惑ってるのが顔に出てたのかもしれない。涼の左下のいつもの笑窪がオレンジ色の光で影がより深くなっていた。弱くてぬるい風でパーマがかかった長い髪がそっと揺れた。

「変なの」
「おいおい、そりゃあないよ」
「だってさ、上手くも何も、月日が経つと勝手に大人にされちゃうんだから」
「生真面目だなぁ。夏葉は。どう大人になるかって話だよ」
「そういう抽象的なことは想像できないよ」
「――まあ、いいや。そういうところが好きなんだけどね」
 そう言われた瞬間から、一気に胸の奥から熱がじんわりと広がっていく感覚がした。

 きっと、胸にバニラアイスを当てたら、一瞬で溶けてしまうくらいだと思う。
 そうなると、いま着ている黒の5分丈のカットソーにペンキを塗りつけたみたいな染みができるんだろうな。

「なに、照れてるの。顔赤いよ」
 そう聞かれて、横に首を何度か振ったけど、いつの間にか顔まで上がった熱は夏に馴染んで、冷めなかった。
 首を振るのをやめて、すっと息を吐くと、右の頬に指圧と熱を感じた。
 だから、右側をそっと向くと、涼は無邪気そうに、ニヤニヤしていた。

「ねえ」
「なに?」
「――離れたくない」
「んだな」
「だけど、札幌行っちゃうんでしょ」
「夏葉も一緒に札幌いこうよ」
「お金かかりすぎるよ。うちの親、稼ぎあんまりよくないし」
「――そっか」
「それに私、社会でやっていく自信ない」
「いいよ。夏葉はゆっくり考えればいいんだよ」
「そうも言ってられないでしょ。離れ離れになるんだから」と私が言い終わると、そうだよなと涼はぼそっとした声で言って、少しだけ上の方を見て、何かを考えているようだった。

「俺はレベル高い美容師になりたいから、札幌のしっかりした専門学校で美容師の免許取りたい。そのあと、東京に行って修行したいって思ってる」
「――余計、離れちゃいそうだね」
「そう感じるのは、きっと夏葉次第だよ」
 そう言われて、むっとした。なんか責任を私になすりつけられているような、そんな感覚だ。

「――だから、悪いけど、この街、出るしかないと思ってるんだ」
「――いいよ。応援するよ」
 私はため息を吐きそうになったけど、それを止めたあと、すっと息を吐いた。

「ありがとう」
 涼はそう言ったあと、すっと息を吐いた。

 涼には明確な夢がある。
 だったら、それを応援するのは当たり前の話だ。
 だけど、離れ離れになるのは単純に嫌だ。

「――目指したいものもないから、きっと、私はこのまま高卒で就職しちゃうか、近場の大学行って、この街で就職するんだと思う。そして、ずっと函館に留まるんだよ。どうせ」
「就職は好きなところいけるだろ。まあ、まだ当分先の話だけどな」
「先なんてわからないよ」
「――だけど」
「だけど?」
「ただ、一緒にいたいな。夏葉と」
「――札幌に行こうとしてる癖に」
 私がそう言うと、涼は弱くふふっと笑った。

「遠距離でもきっと大丈夫だよ。夏葉なら」
 
 本当は離れたくない。
 だって、一回、離れてたんだから――。






 大学から五稜郭公園前の電停までゆっくり歩いている。
 ようやく大学生活が馴染み始めた。

 7月になり、3日経った。

 3月に涼が札幌に行く前に、少し早いけど、付き合って1周年のお祝いと私の誕生日のお祝いをした。ベイエリアのラッキーピエロで大きなオムライスを食べた。
 
 オムライスの横に、中華風の甘ダレが絡んだチャイニーズチキンが4つ乗っている、いつものオムライスで、あっさりとお祝いを終わらせた。
 涼はその数日後に札幌に引っ越した。
 
 だけど、私は通いやすいって理由だけで入った教育学部にすでに後悔していた。卒業で教員免許を取るのが必須じゃないから、他の大学と変わらないと思って入ったけど、興味がない教育系の単位を思ったより取らなくちゃならなくて、それで、すでにげんなりしていた。
 
 悩んだり、親と相談した結果、とりあえず大学は行こうよって話になって、じゃあ、函館の大学でも良くない? ってことになって、大学生になっても私は函館にとどまることにした。

 LINEを確認すると、涼からメッセージがきていた。
『夏、函館帰るから、そのとき、メシ行こう あー、ラッピ食いてぇ』

 4月は、ほぼ毎日、通話してたのに、そのうち飲み会とか、バイトとか、いろんなことを涼は始めたみたいで、忙しくなったのか、気がつくと、最近は1週間に一回しか話さなくなっていた。

 最近はほぼ、高確率で夜に通話しても出てくれない。
 だから、私は通話ボタンをタップして、iPhoneを右耳にあてた。

「お、夏葉。久しぶりー」と能天気な声が3コールしたあとに聞こえた。
「久しぶり。函館、いつ帰ってくるの?」
「コールセンターのシフト次第だけど、早いうちに帰るつもりだよ。てか、今日も飲み会でさ。すすきの行ってくるわ。マジ、五稜郭の比じゃないよ」
「そうなんだ」
 最近、余裕がないのか、涼は自分のことばかり話してきている。たぶん、本当に楽しい世界に身を置いているから、自然と自分のことを話したくなるのかもしれない。

 やっぱり、私も札幌に行ける選択があったら、行きたかったなってふと思った。そもそも、進学しないで札幌の会社に就職しちゃえばよかったかもしれない。そしたら、涼と同棲だってできたかもって思った。
 だけど、卒業前、そこまで考えられなかった。

 高校卒業前に進路を選ぶことって、少し高いアパレルショップでデートに着るためのワンピースを選ぶ感覚と似ている気がする。
 どんな色や、どんな襟元なら、相手が振り向いてくれるかってことを考えながらも、自分に似合ってるかどうかとか、かわいい子ぶって、痛くなってないかとか、そもそも、この値段でこのワンピースを買うなら、しっかり、もとが取れるように体型維持しなくちゃとか、いろんな、どうでもいい要素をどうしても考えてしまう。
 
 それはどんな大学に行こうと悩むことは、きっと変わらないかもしれない。

 そもそも、ここで選択ミスったら、なりたい人生になれないとか、そもそも、自分が歩みたい人生ってなにかとか、この学力じゃ、このくらいの大学にしかいけないとか、職人になるなら専門学校を目指すとか、てか、面倒だから、短大でよくない? とか、それとも就職だとか、でも、まだ社会で生きていく自信がないから、先送りしたいとか、先送りするんだったら、じゃあ、大学行くかって悩むようなもんだ。

「オール?」
「当たり前でしょ」
「安心できない」
「大丈夫、朝まで飲むだけだから」
「へぇ。楽しそうだね」
 私は思わず、棘を吐いてしまった。別にいいよ。楽しいならそれで。

「え、なんか、怒ってない?」
「――怒ってないよ」
「これだけは、誓うから。他の女には手だしてないし、いつも夏葉のこと、考えてるよ」
 そういうことじゃないんだけどって思ったけど、私は静かな声でありがとうと言った。電停に着くと、数人がすでに並んでいた。

「じゃあ、決まったら、連絡するから。したらね」
「――したらね。バイバイ」
 私がそう言い終わる前に通話は切れた。

涼の後ろから、何人かが騒いでいる声が聞こえていた。
きっと、もう、仲間と会っているのだろう。そして、その飲みには当たり前のように他の女もいるに決まっている。てか、彼女いるヤツがそんなところに顔だすなよって思うと、余計にイライラした。

 ――去年の今頃、感じた奇跡はなんだったんだろう。最近、そんなことばっかり考えてしまう。

 私の大学生活は涼と対照的で、質素になっていた。
 小さい大学で自分にあいそうなサークルもなさそうだったから、同じ講義で一緒になって、少しだけ仲良くなった友達3人とひっそり遊ぶことくらいしか、してなかった。だけど、その友達3人とも、当たり前だけど、学校の先生を目指しているらしくて、微妙に話の熱量や話題があわないことが多かった。

 そして、そんな気持ちになっているなんて、涼は知らないんだ。きっと。
 数ヶ月でこんなに人って変わっちゃうものなのかな。
 心のバランスが上手くとれない――。

 市電がゴトゴトと鈍い音を立てながら、こちらにやってきたから、私はiPhoneをバッグの中にしまった。





『泣いてもいいよ』
 そんなやり取りをしたことを思い出した。涼はあの日、低い声でぼそっと、つぶやいたことを思い出した。五稜郭から乗り込んだ市電は順調に函館駅の方へ向かっていた。
 
 YouTubeでポカリスエットと歴代のCMの動画を流している。
 iPhoneの画面には無数の爽やかな夏が流れていた。崖から海に向かって、少女が飛び込んだあと、『一九九九年の夏。』と白文字の明朝体で、海を背景に縦書きされていたのが印象に残った。女優が持っているポカリは、青い350ml缶だった。
 
 耳につけているイヤホンからはセンチメンタル・バスのSunny Day Sundayのメロディが流れていた。アップテンポなバスドラムの低音が耳の奥でしっかりとビートを刻んでいた。

 私は高校生のときと変わらず、市電で通学している。函館駅と十字街の間にある、市役所前の電停で降りて、ベイエリアと反対側に向かって、3本目の道、高砂通り沿いにある。電停から実家は歩いて5分くらいだ。

 19歳になったから、みんな遊びたいのは当たり前なんだと思う。
そして、あっという間に20歳になって、大学卒業して、25歳になって、そして、はるか遠くに感じる30代に入っていくのかもしれない。それらの流れていく時間は、1999年の夏のように、遥か前になって、記憶の隅に追いやられるのかもしれない。

 だから、本当は19歳の夏は特別な夏を過ごしたいのかもしれないって、思ったけど、たぶん、それを叶えてくれるような相手は、涼がいいけど、その涼は、私のことなんか忘れて、都会の多くの人たちの中に呑まれて、私のことをどんどん置いてけぼりにしているような気がした。

 向かいに座っているお姉さんと一瞬、目があった。お姉さんは、高そうな白のTシャツワンピを着ていて、私と同じようにiPhoneを右手に持ったままだった。
目があった瞬間、お互いに目線を反らした。

 ただ、一瞬、周りの様子を確認したら、たまたま、タイミングがあってしまっただけだと思う。お姉さんはiPhoneで何かを見ていた。
 きっと観光客かもしれない。東京、札幌、その他、日本各地にある都会からやってきましたって感じが出ていた。そういう雰囲気はすぐにわかる。都会に住んでいる人はそういう雰囲気が自然と出てしまっている。

 もし、涼の気持ちがこのまま、私から離れてしまったら、私はどうすればいいんだろう。
 涼と一緒にいるときは、私の人間不信が治ってきたと思っていた。

 だけど、涼が私の前から、いなくなって、気が付いた。私の人間不信は完全には治っていないことに――。
 日々、涼と連絡が取れないと不安定になっている。


 聞き慣れた車内チャイムが流れた。もうすぐ函館駅前に着く。
 電車はゆっくり減速して、そしてすっと止まった。信号が変わったら、函館駅の前に出る交差点を電車は左に曲がっていく。
 左側を見ると、フロントガラス越しに銀色に光を反射している函館駅が見えた。そして、車の信号機の下についている矢印信号が左をさしたのとあわせて、電車はまたゆっくりと動き始めた。

 視線をiPhoneに戻すと、LINEの通知が来ていた。
消音モードにしたままだったことにも、あわせて気づいて、右手の人差し指で消音のスイッチをオフにした。
 そして、待受を解除すると、涼からの新着メッセージだった。私はなぜか、少しだけドキドキして、通知を開いた。

『やっぱ、あとでもう一回、通話するわ』

 メッセージを数秒間見つめて、急に詰まっていた思いが開放された。涙が溢れそうで、思わず上を向いてしまった。
 




「雑だったかもって思って、通話した」
「――そうなんだ」
 私は市役所前の電停で降りて、ベイエリアの反対側にある実家の方に歩き始めていた。ベイエリアの反対側、市役所の方は住宅地で、いつものように閑散としていて、通りを通る車もまばらだった。
 
一体、何が雑なんだろうって思った。
今更、雑って言われても、私のモヤモヤは消えない。

「それと、元気なかったよな」
「ううん、元気だよ」と私は嘘をついた。

「――心配させてごめんね」
「いや、いいよ。夏帰ったらさ、しっかり遊ぼうな」
 しっかりってなに? 何をしっかりすれば遊んだことになるんだろう。その中で、私の話は聞いてくれるのかな。そもそも、肝心なことも忘れてるくらいだから、きっと、そんなこともしてくれないと思う。

 私のモヤモヤした気持ちとは対象的に、午後の陽気と弱くて冷たい海風がまじり、歩くには気持ちいい午後だった。時折、潮の香りがした。

「なあ、聞いてる?」
 iPhoneから涼の声が聞こえてきた。だけど、私は黙ったまま、黙々と歩き続けた。
「――なあ、今日、変だよな。大丈夫?」
 ううん、大丈夫じゃないよ、私。涼の夢を応援する以前に、私のこと、忘れられているなら、そんなの応援するのなんて無理だよ。

「――ねえ」
「なに?」
「――今日、何の日だと思う?」
「……あっ」
 涼はようやっと気づいてくれたみたいだ。
だけど、もう、最低だ。

「――もう、いいよ。7月3日なんて、別に、普通の日だよね。自分のこと、勝手にやってればいいじゃん」
「悪かった」
「遅いよ」
「――おめでとう」と涼がぼそっとした声で、ようやっと言ってくれたけど、全然、心に響かなかった。
最低の誕生日だ。

 涙が溢れそうになるのを私は唇に力を目一杯入れて、泣かないようにした。
 しばらくそのまま、沈黙が流れて、涼のiPhoneが拾っている周りの雑音だけがザーっと耳元で流れていた。

「――悪い、もう次の講義あるから、切るな」
 へえ。講義なんだ。どうでもいいじゃん。
 もう、涼はきっと一方的で自分のことしか考えられないんだ。
 ――きっと。
 
 あのときみたいに『泣いてもいいよ』って言われたかったけど、そんな言葉、きっと二度と出ないのかもしれない。

「出会えたのが奇跡だったとしても、心が離れたら、もう、それは奇跡じゃないんだよ」
「ごめん、マジで時間ないから。だからあとで」
「――別れて。今までありがとう。さよなら」
 気がつくと、私は涼の言葉を遮り、少し前から思っていたことを口にしていた。

「ちょっと、待てよ。あとで」
「もういいよ」
 私はそう言ったあと、もう一度、口に力を入れた。そして、iPhoneを耳元から離し、通話終了を押した。

 すっと息を吐くとそれとあわせて、両目から涙があふれる感覚がした。