彼氏と親友がデキていたことを知った日、灰色の濡れネズミと会った。
ずぶ濡れ同士で肌を寄せ合って、慰め合った。
昨日は前から約束していたパークデートの日で、私の朝はいつも以上に気合いが入っていた。
前日のLINEで彼が「明日、話したいことがある」と送ってきたからだ。
付き合って二年の記念日に話したいことなんて、ひとつしか思い浮かばなかった。
前にパークで偶然ウエディングパレードに立ち合えて、「パークウエディングとか、めっちゃ憧れる」と話したのを覚えてくれていたんだと、心臓が跳ねた。
あのとき彼はパレードに手を振りながら「いやいや、おいくら万円よ笑」と冗談ではぐらかすように笑っていた。
だから私も「見たから言ってるだけだって笑」と冗談で終わらせたけど、そっか、それでプロポーズはパークでときたか。
私達にパークウエディングなんて、無理寄りの無理なのは分かっている。
だからそんなことは最早どうでもよくて、ニヤニヤが止まらない顔に勝負用の美容液パックを貼り付けた。
早く寝なきゃと思うのに、心臓がバクバク言ってなかなか眠れなかったし、目が覚めたら夢でしたなんてことになるんじゃないかとも考えた。
それでもいつの間にか眠っていたようで、目覚めてすぐにアプリのアイコンをタップして彼からの「明日、話したいことがある」を確認したときは、夢じゃなかったんだ、と安堵。
あからさま過ぎてもダメ、普段のデート服もダメ……と、寝る前に厳選したサーモンベージュのシンプルワンピに袖を通して、さあ出掛けようかというところに彼からのLINE。
「ごめん、体調悪くて無理、ほんとごめん」
ウキウキワクワクニヤニヤ、からの、行き場のない落胆。
それでも体調が悪いなら仕方がない。
無理に拗ねたり怒っては女を下げてしまうし、なにより彼の具合が心配になった。
「りょ。お大事にね。何か欲しいものとかあったら言ってね、買ってく」
「大丈夫。移しちゃ悪いし、寝てれば治るから。ありがと」
そんなLINEをして、部屋着には向かない気合いの一着をクローゼットに戻した。
お昼を過ぎて、食事は摂れたかな、熱は下がったかな、とやっぱり心配でLINE。
既読はつかなかった。
寝ているんだな、と思って夕方まで待機するも、ずっと既読がつかない。
「だいじょうぶ?」
もう一度、送ってみるも既読ならずで、私はいてもたってもいられず彼の住むマンションに向かった。
そこで「コト」が発覚したのだ。
彼はチャイムを鳴らしても出てこなかった。
私はもしや倒れているかもと不安になって、付き合いはじめた頃に貰った合鍵を初めて使った。
玄関は暗くて、すりガラスのドアの向こうも間接照明の琥珀色。
テレビをつけたまま寝てしまっているのか、会話のような声が聞こえた。
それがただの会話ではないことに気がつくまで、一分もかからなかったと思う。
大きくはない声で、だけど甘えるような甲高い声が、少し苦しそうな息づかいで彼の名前を呼んでいた。
何度も、何度も。
その声に応えるように、聴き慣れた低い声が何か囁いていた。
何も聞かなかったことにして、引き返せばよかった。
やめたほうがいい、頭の中で止める私のいうことを、私の体は無視してドアを開けた。
「あ、いや、違うんだ」
ベッドの上に裸の男女。
一体何が違うのか。
彼の下に横たわり慌てて身体にブランケットを巻きつけたのは、私の親友だった。
ドアの向こうから聞こえてきた甘い声は、私の知っている親友の声ではなかった。
さっきの声を思い出して、声と顔がセットになった途端、頭の中が真っ白になった。
「そのブランケット、私があげたやつ……」
言いたいこと、訊きたいことなんて山ほどあるはずなのに、そんなことしか言えずに逃げ帰るしかなかった。
まさか、自分の人生であんな現場を見てしまうなんて。
信じたくなかったけど、ドアを開けた瞬間に目が合ったときの彼の表情と、部屋に充満する蒸れた人間の臭いがずっと感覚を占めて消えてくれなかった。
どうやって電車に乗ったかも分からないくらいの混乱の中、自宅の最寄り駅を降りたら無性に泣けて仕方がなかった。
オフィスビルが立ち並ぶ駅前通りの土曜の夜は、静かだった。
声が出るのも我慢しないで泣きながら歩いていたら、バッグの中で振動が起きた。
いまさら彼が謝っても許せないと思いつつ、だけど彼がどんな言い訳で私を引き留めるのか見たくなってスマホに手をかける。
「本当にごめん。会って話そうとしたけど、パークで別れ話なんて一生のトラウマだからやめてあげてってあいつに言われて」
見るんじゃなかった。
さっき部屋で見たやつのほうが一生のトラウマなんですけど。
てか、やめてあげて、とは?
どこから目線?
前日からの気分の落差があまりにも大きくて、なんの罰ゲームかなと思った。
ドッキリだったらいいのに。
いや、今度こそ夢だったらいいのに。
夢だったなら。
起きたら、また彼からのLINEを確認するところから始めて、今度こそ幸せなデートが待っているはず。
だけど泣きすぎて痛い顔の筋肉がリアルで、降り始めた雨が冷たく肩を叩いてくるのもリアル。
現実なんだ。
こんな気持ちのときに雨なんて、ベタすぎる。
たいして降っているわけでもないのに、雨粒が大きいのか全身があっという間にじっとり湿ってしまった。
俯いて歩く私の視界に、人の姿が見えたのはそのときだった。
オフィス街を抜けたところに建つマンションの前に、人が座りこんでいた。
高級な駅近マンションにはそぐわない、グレーのスーツがずぶ濡れネズミのような男の人だった。
雨に濡れるのも構わず階段に腰掛ける姿に、直感的な共感があった。
この人、たぶん今の私と似てる……。
「どうか……したんですか」
近づいて声を掛けると、男の人は我に返ったように顔を上げた。
「え、あ、ああ! わ、ずぶ濡れだ俺、何やってんだ……って、あなたもどうかしたんですか」
「まあ、いろいろありまして、えへへ……」
目が合って、湿度の高い沈黙が流れる。
たぶん、雨のせいだけじゃない。
「俺んちこの上なんです。上がって乾かしていきませんか」
言われるままに頷いて、オートロックのエントランスから広いロビーへと、何も言わずについて行った。
つやつやの大きな柱やライトアップされた壁の凹凸が綺麗で、自宅と全く違う世界に迷い込んでいる気がした。
二人きりのエレベーターの中には独特の緊張感が漂っていて、ぎこちなくも暗黙の了解は既に成立していると感じていた。
部屋での男の人は物腰穏やかで、誠実そうだった。
まあ、きっと誠実な男は初対面の女性を部屋に上げたりはしないだろうとも思うけど。
男の人は遠慮がちな距離感を保ちながらシャワーと着替えを貸してくれた。
シャワーを浴びたあと、出してもらったミネラルウォーターを受け取るときに手が触れた。
きっかけなんて何でもよかったんだと思う。
そうならない理由を見つける意味など、どこにもなかった。
「ねえ、名前ぐらい教えてよ」
「寧人。俺も知りたい」
「紅実」
ベッドの上で息がかかるほどの距離になって初めて、名乗りあった。
私達は互いの頭の中を上書きするように、何度も名前を呼び合った。
私は頭の中に響く親友の声を追い払いたかったし、彼の名前を忘れてしまいたかった。
「寧人。寧人。寧人。」
どれくらいの時間が過ぎたか、街の明かりが少なくなった窓には綺麗な月が浮かんでいた。
喉がカラカラで、封がされたまま床に転がるミネラルウォーターを拾って飲み干すと、隣で寧人がクスリと笑った。
「いい飲みっぷり。ビールもあるよ」
「それを早く言ってよ、それならお酒の勢いってことにできたのに」
「じゃあ、飲んで、酒の勢いで仕切り直す?」
「えー、それはなんだかなぁ」
「チーズは好き? あと旨いハム」
そう言って、寧人は手際よくおつまみを用意してくれた。
乳白色のガラステーブルの上にいろいろな種類のチーズと厚めの短冊に切り揃えられたハム、色とりどりのドライフルーツにナッツ、チョコレート――。
どれもセンスのいいプレートに盛られていて、まるでお店仕様だった。
単純かもしれないけど、数時間前までの暗く沈んだ気持ちが吹き飛んでいったような気がした。
さっきまでのぎこちなさは、もうどこにもなくて。
一晩だけの相手と割り切っていたのに、妙な居心地の良さ。
自分も同罪だけど、男ってすぐこういうことが出来ちゃうんだと、また少し泣きたい気持ちが胸の奥からこみ上げてくるのを感じて、ほろ苦い泡で喉の奥に流し込んだ。
結局、お酒の勢いで互いの失恋話を曝露し合った寧人と私は、慰め合うようにベッドの中で何度も溶け合った。
だけど私は慰めなんかじゃなくて、この時間を愛おしいと感じてしまっていた。
なんて単純で、なんて軽薄な女なんだろうと、自分で自分が嫌になる。
朝になれば忘れる関係に、愛おしさなんて馬鹿げてる。
朝日が空を白くすると、酔いも覚めて気恥ずかしさが勝ってくる。
この部屋を出るまでは割り切った関係を理解していますよという風に、努めてノリよく見せなくては。
「そういえばさ、西口に先月できたベーカリー、行ったことある?」
「反対側は滅多に行かないなぁ。平日は仕事終わると結構遅くてコンビニ寄って済ませちゃう」
「わかる。じゃあさ、あと一時間くらいでオープンするから一緒にどう?買って戻って食べよう」
「え」
「え、って?」
買って、戻って?
食べよう? 一緒に?
ドアを出たら他人になると思い込んでいた私には、寧人の言った意味がよくわからなかった。
「だって、一晩だけの……、ねえ?」
「え、あ! 俺! ほんと俺なにやってんだ」
ゴメンと俺のバカを繰り返しながら、寧人はデスクの引出しから小さな紙片を取り出して私の目の前に腰を落とした。
「順番がおかしいかもしれないけど、こういう始まりはダメでしょうか」
「名刺で告白する人、初めてみたかも」
「あ、いや、だって身元明かさないと、信用できないかと思って」
「あは。昨日のこともだけど、こっちのほうが新鮮。ちょっと待って、はい、これ私のです」
驚いたけど、離れがたかったのは私も同じだし、物腰穏やかで誠実そうな寧人をもっと知りたいと思った。
「あっ……では今後とも何卒宜しくお願い申し上げます」
「こちらこそ、なにとぞよろしくお願いします」
OKの代わりにパスケースに入れてあった予備の名刺を渡して、日曜のオフィス街でひとつの商談が成立した。
こういう始まりも、いいんじゃないかと思う。